やしお

ふつうの会社員の日記です。

公明党が自民党と連立を組んでいく経緯

 この前、魚住昭野中広務 差別と権力』(講談社文庫)を読んでいたら、公明党自民党と連立を組んでいった経緯と、その中で野中広務が果たした役割について書かれていて、とても面白かったから忘れないうちにまとめ直しておこうと思って。
 公明党自民党と連立を組むのは1999年で、以降ずっと自民党と協力関係にある。85年生まれの自分にとって99年当時は13歳で、「自自公連立」「自公保連立」という言葉や、神崎代表の「そうはいかんざき」のCMとかは覚えていても、当時の背景や経緯まではよく知らなかった。


93年~00年の政局

 この話の前提として、93年に宮澤内閣で55年体制が崩壊、自民党が下野してから、96年に橋本内閣で自民党が総理総裁を再び出すまでの流れを頭に入れておかないとうまく理解できない。


【細川内閣】93.8.9~94.4.28(非自民・非共産の8党連立)
【羽田内閣】94.4.28~94.6.30(新党さきがけ社会党が抜けて7党連立)
【村山内閣】94.6.30~96.1.11(自社さ連立)
【橋本内閣】96.1.11~98.7.30(自社さ連立→自民単独)
小渕内閣】98.7.30~00.4.5(自民単独→自自連立→自自公連立→自公保連立)


 93年に宮澤内閣の不信任案が自民党内から造反者を多数出して可決され、解散を経て非自民の8党連立で細川内閣が成立する。経世会竹下派)から分離した小沢一郎羽田孜らが新生党を、派閥横断で若手・中堅議員を集めた武村正義鳩山由紀夫らが新党さきがけを結成し、自民党から離脱する。
 「佐川急便からの借り入れ問題」で細川首相が自民党の追求を受けて総辞職し、羽田内閣が成立する。政権運営のやり方、特に新進党 小沢一郎公明党 市川雄一の「一・一ライン」への反発が強く、社会党新党さきがけが連立を離脱した結果、衆議院で与党が過半数を維持できなくなり、2ヶ月で羽田内閣が総辞職する。細川内閣+羽田内閣の1年足らずで自民党政権に戻る。
 自民党55年体制でずっと最大野党だった社会党と連立を組み、社会党委員長の村山富市を首相に据える。しかし社会党自民党と組んで従来の方針を180°転換させたことで求心力を低下させる。その後、村山首相が突然退陣したことで自民党橋本龍太郎が首相になる。


 細川内閣の94年に選挙政治改革で中選挙区制から小選挙区比例代表並立)制への移行が決まっていた。(もともと海部内閣からずっと持ち越しになっていて、この政治改革法案の賛否が90年代の複雑な政局を生じさせる一要因になっていた。)小選挙区制では政党をまとめて2大政党制に向かわないと不利なので野党再編に向かう。自社さ政権で野党になっていた新生党公明党などが結集して94年12月に新進党ができる。
 「自民党新進党の2大政党」という流れでの埋没を恐れて、自民党と連立を組んでいた新党さきがけのほとんどと、社会党社民党)の約半数の議員が離脱して、96年9月に民主党ができる。直後の96年10月に初めて小選挙区比例代表並立制での衆院選が実施され、1位 自民党(239)、2位 新進党(156)、3位 民主党(52)という結果になる。新党さきがけ社民党は惨敗して連立から離脱する。
 自民党は単独で過半数を持っていなかったため、新進党への激しい引き抜き工作をして、97年7月には251議席に達して単独過半数を達成する。小沢一郎の求心力は低下し、97年12月に新進党は6党に分裂する。(小沢は自由党を結成する。)


 98年8月の参院選自民党が敗北したことでねじれ国会になる。(責任を取って橋本が退陣したため、小渕内閣になる。)ねじれ解消のため、自民は自由党と組んで自自連立となり、その後公明党とも連立を組んで自自公連立となる。自自公連立で公明党に比べて自由党の影響力が低下したことを嫌った小沢が連立離脱を進めるが、連立継続を望むグループが離党し保守党を結成したため、自公保連立となる。
 03年(小泉内閣時)に保守党は自民党に合流、自由党民主党に合流したことで、自民と民主の2大政党状態になっていく。それ以降は自公連立。


 というのが大まかな流れになっている。93~98年の5年間で政党の離合集散が激しく生じていたために分かりにくい。色んな政党が出てくるけれど、かなりはしょると↓になる。


 はしょらない図はウィキペディアとかにある↓
ファイル:1990年代の政党の離合集散.jpg - Wikipedia


自民党公明党を取り込む理由

 図だけを眺めていると、どうして公明党新進党とほとんど合流しながら再び分離したんだろうとか、新進党が分裂した時に自由党とくっつかずに、他の野党みたいに民主党へ合流することもせずに自民党とくっついたんだろうかとか、色んな疑問が湧いてくる。これは公明党が与党入りを望んだからそうしたというより(それもなくはないけど)、むしろ自民党公明党の取り込みに力を尽くした結果のようだ。


 96年から衆議院小選挙区制に移行した。小選挙区制では1vs1に持ち込まないと勝てないから、与党も野党も候補者を一本化させようとする。(だから選挙前になると「野党共闘」とか「選挙協力」とか言う。)公明党は全国の創価学会票を少なくとも600万票抱えていて、単純計算で300の小選挙区に各2万票以上を持っていることになる。どちらの候補に学会票がつくかで、ついた候補は+2万、逃した候補は-2万で、4万票の差がつくことになって当落が左右されることになるという。
 これが自民党公明党を取り込む理由になっている。


 自民党は野党時代も、また与党に復帰してからも、徹底した公明党創価学会叩きをやっていたが、一転して公明党を取り込んでいく。自民単独→自自連立→自自公連立→自公連立、と間に自由党を挟んでいるのは、自民党が学会バッシングをしていた経緯や、そもそも55年体制時の野党時代も含めて反自民の意識があったため、「いきなり自民と連立を組むのは(特に反自民色の強い)学会婦人部の反発が強いためワンクッションおいてくれ」という学会・公明党側の要望があったためだという。
 公明党自民党の協力関係を作り上げ、公明党と学会の対立も利用し、公明党新進党と完全合流するのを阻止し、最終的に公明党が与党入りする道筋を自民党が引いていくが、その中で大きな役割を果たした一人が野中広務で、最終的に公明党とのパイプを一手に握ることで自民党内部での絶大な権力を得ることになったという。


創価学会キャンペーン

 非自民の細川内閣では、自民党は「政教一致だ」という批判を展開した。「公明党は選挙のたびに全国の学会施設や電話をタダで使っている」「池田大作名誉会長が内閣成立前に大臣ポストを公明党が得たことを知っていた」といった反公明・反学会の攻撃を自民党は展開する。


 村山内閣で自民党は与党に復帰するが、95年は阪神大震災オウム事件が起こり、対応の遅れで内閣支持率が下がった結果、7月の参院選新進党の伸長を許す。(94年12月に公明党新進党に合流している。)学会の組織票に危機感を抱いた自民党ネガキャンをさらに強めていく。宗教法人法改正に絡んで池田大作の証人喚問を要求し、それは免れたものの、95年12月の国会(宗教法人等に関する特別委員会)で学会会長の秋谷栄之助参考人招致されてしまう。(もともと自治相・国家公安委員長野中広務が「オウム事件の捜査が宗教法人の壁に阻まれた。法改正の必要がある」と言い出したことで宗教法人法改正の話がスタートしている。)自民党の機関紙「自由新報」で池田大作レイプ事件の追求記事を連載したりもした。
 96年10月の衆院選では、「新進党創価学会党だ」「日本を特定の教団に支配させるな」というキャンペーンを展開した結果、自民党新進党に勝利する。


 98年に新進党が分裂すると、公明党の取り込みに舵を切り、自民党の反学会キャンペーンは終息する。
 この反学会キャンペーンでは亀井静香野中広務が先頭に立ち、学会からは「仏敵」と非難されている。『野中広務 差別と権力』でこんなエピソードが紹介されている。

 それにしても、なぜ学会はそれほど野中を恐れたのか。
「まあ、理由はいろいろありますが……」
 と言いよどんだ後で、岡本が例を挙げたのは学会発行の『聖教グラフ』に関することだった。聖教グラフには、池田と外国要人などとの会見場面を撮った写真がたびたび掲載された。
「写真のバックには学会施設にあるルノワールとかマチスとかいった有名画家の高価な絵が写っているんですが、野中さんがそれを創刊号から全部調べ上げて、学会が届け出ている資産リストと突き合わせた。その結果、届出のない絵がいろいろあることが分かったというのです。もちろん野中さんは直接そんなことを学会に言ってくるわけではない。何となく耳に入るので、秋谷会長は『野中は怖い、怖い』としきりに漏らすようになったんです」
 後に野中が自公連立政権作りを成し遂げた後、有力支持者の一人が「どうやって学会・公明党とのパイプをつくったんですか」と野中に聞いた。
 すると野中はこう答えたという。
「叩きに叩いたら、向こうからすり寄ってきたんや」

(pp.330-331)


 やってることがインテリジェンスというか、オシントそのものだ。


密会ビデオ

 96年3月の国会(橋本内閣)は、住専不良債権処理問題で紛糾していた。金融危機を回避するために6,850億円の税金を投入するという予算案に新進党が反対する中で、クリントン大統領の来日前に予算案を衆院通過させるために事態が切迫していった。その中で、東京都議、創価学会名誉会長・池田大作の側近で公明代表だった藤井富雄が、武闘派暴力団 後藤組組長の後藤忠政と密会しているビデオが出てくる。
 自民党側はそれを利用して新進党内の旧公明党系に揺さぶりをかけて、住専問題の取引材料にしていったという。(住専問題の新進党の強硬な反対に世論が反発して、その最中の参院補選で与党候補が圧勝したため新進党の強硬路線が緩んだ、といった背景もあるから、密会ビデオだけが要因ではないが。)


 学会と後藤組の関係はそれ以前の70年代からあって、富士宮市創価学会の広大な墓地が建設されることになって市議会が紛糾、自民党市議の会社が墓苑の開発を請け負ったが反対派との争いが激化し、最後まで妨害した人物の自宅に暴力団がブルドーザーで突っ込んで片腕を日本刀で切り落とすという事件まで起きた。この時の暴力団後藤組。(この辺は学会の元顧問弁護士・山崎正友が『懺悔の告発』で書いているとのこと。)
 80年代に入って、報酬を巡って学会と後藤組の関係がこじれ、新宿の創価文化会館に拳銃2発が打ち込まれて後藤組の組員が現行犯逮捕される事件も起きる。その前後に、藤井は右翼・暴力団による街宣車対策で、元警視総監の仲介で後藤組長と会い、一旦学会と組の関係が修復される。(後藤組創価学会との攻防については後藤忠政本人が『憚りながら』に書いているとのこと。)


 密会ビデオが出てきたのは95年12月頃で、もともと自民党の組織広報本部長として学会批判の先頭に立っていた関係で亀井静香が入手していた。ビデオの中で藤井は後藤組長に亀井らの名前を挙げて「この人達はためにならない」と語っていて、襲撃依頼とも受け取れる内容だったので亀井の警備が強化された。その警備強化を含めた対応を話し合う会議の時点では、野中広務はビデオの存在を知らされていなかったという。自民党参院議員・村上正邦の元側近の証言が『野中広務 差別と権力』で以下のように書かれている。

「でも、この会議のころは野中さんはビデオの件にはコミットしてません。逆に『野中にはバレないように気をつけろ。何をされるかわからないから』という話でした。ところがしばらくして村上が『えらいことだ。野中に嗅ぎつけられた』と騒ぎ出した。事情は詳しくわかりませんが、野中さんが亀井さんに『見たでえ』と言ったらしいんです。それからずいぶんたって村上が『野中が一仕事したみたいだな』と言ってました。『何ですか』と尋ねたら『あのビデオで信濃町(学会)をやったみたいだぞ』という返事でした」

(p.319)


 「見たでえ」って何だ。妖怪かよ。と思って読んでいて笑ってしまった。野中広務の風貌を思い出しながら、「見たでえ」と言う姿を浮かべるとイメージにぴったり過ぎて吹き出してしまう。


 自民党から密会ビデオを突きつけられた新進党は、衆院議員で旧公明党時代に国対委員長だった権藤恒夫を立てて、権藤・野中ラインで交渉していくことになる。こうした過程で、旧公明党のグループとのパイプを作っていく。


京都市議選

 住専国会で密会ビデオも利用しつつ旧公明党グループと交渉を進める一方で、野中広務は、国会の外でも創価学会そのものとパイプを作っていったという。
 そのきっかけが96年2月の京都市長選で、共産党推薦候補vs自民党新進党など5党相乗り候補の一騎打ちになっていたが、伝統的に共産党の強い京都で苦戦を強いられていた。創価学会も当初は中立を掲げていたが、野中が創価学会の関西長 西口良三と接触して支援を取り付ける。それでも投票日の午前中までは共産党がリードした情勢で、昼になって野中が西口に電話を入れて、西口から司令が出されて学会員が動員され、リードをひっくり返して5党相乗りの候補が競り勝った。野中は地元京都で、自民党の幹事長代理・選挙対策総局長としてのメンツを保つことができた。


 当時の学会には、新進党所属の旧公明党議員に対して不信感があった。特に公明党国対委員長から書記長になった市川雄一が、小沢一郎と接近して自民党を敵に回したことが、自民党の激しい反学会キャンペーンを招いて学会にダメージを与えたと考えられていた。これ以上自民党と敵対しないためにも、国会議員を通さず学会が直接自民党と手打ちしようとしたために、自民党野中広務と学会関西長の西口良三との間にパイプが出来上がった。
 こうした経緯を見ると、野中の「叩きに叩いたら、向こうからすり寄ってきたんや」という認識も、実態はどうあれ本人の感覚としてはそうなのかもしれない。


静音保持法

 「公明党新進党と合流した」とここまで書いてきたが、実は参議院は一部の議員だけを残して完全合流はしていなかった。新進党が立ち上がった時点(94年12月)で、公明党は組織として大きく、地方議会では自民党と連立を組んでいる議員も多かったこともあって、衆院議員の全部と95年に改選される参院議員が先行して新進党に加わった。この時、先行参加組を「公明新党」、後発参加組(参議院の11名)を「公明」という名前で分党して、公明新党は直後に新進党に合流して解散された。こうした経緯で参議院と地方議会は「公明」に属していた。この公明の代表が藤井富雄(東京都議、創価学会名誉会長・池田大作の側近)。


 学会としては公明党を消滅させるつもりでいた。
 『野中広務 差別と権力』では平野貞夫新進党参院議員で小沢一郎の側近)の証言が以下のように書かれている。

「そもそも新進党をなぜつくったかというと、これに公明党が協力したのは池田名誉会長の意思なんです。人を出してカネ使って政党をつくって、これだけ悪く言われるのは合わないと。政治が信教の自由というのを理解したから、もう公明党は要らない、創価大を出た者が自民党からも新進党からも国会議員になる、それでいいんだという彼の判断があったんです。政党を持ってることが面倒くさいという部分もあったんでしょう」

(p.337)


 実際、97年2月の党大会で公明は、残っていた参院議員11人も全員新進党に合流させる方針を出していた。しかしそこに待ったがかかったのが、「静音保持法」の存在だった。
 88年に成立したこの法律は「国会、外国公館、政党事務所周辺での拡声器使用を規制する」というものだった。これは消費税法案の審議に公明党が応じる代わりに自民党が差し出した法律だった。学会本部や池田大作の自宅周辺での右翼の街宣活動にそれまで悩まされていたが、どちらも公明党本部の周辺にあったためこの法律が施行されると街宣活動がやんだ。
 この法律上の「政党事務所」の要件は「衆院議員か参院議員が所属すること」なので、実は公明の参院議員11人が全員新進党に合流して公明が消滅してしまうと、公明党本部は政党事務所ではなくなってしまうため池田大作の自宅への街宣が再開されてしまう。公明党執行部の10年間の世代交代で静音保持法の存在とその制約が忘れ去られていたために、全員合流で進んでいたが、このことを覚えていたのが自民党野中広務だった。
 野中広務から学会関西長の西口良三の耳にこの話が入ったことで学会側からストップがかかる。「新進党に全面参加するか、池田会長宅の静音を守るか」という二択に陥って結局、池田会長宅の静音を選んで、公明代表の藤井富雄は97年11月に「来夏の参院選新進党に合流しない。公明として戦う」と宣言する。


 新進党に残された旧公明党系の衆院議員に関して、新進党党首の小沢一郎は学会会長の秋谷栄之助と会談して「新進党を解体し、反小沢を排除して新党を作る。旧公明党系の衆院議員のうち、反小沢の神崎武法ら約10人を除いた約30人は新党(自由党)に合流する」という内容で合意を取った。しかし無所属にされ無力化されると知った神埼らが「旧公明党系の衆院議員はまとめて新進党を出て新党を結成する」と宣言して「新党平和」が結成され、結局反小沢以外も自由党には参加せず新党平和に加わった。
 こうして最終的に、衆議院新党平和参議院の公明が再合流して公明党が復活(98年11月)し、神崎武法が代表になる。


 実は90年代半ばの時点で、公明党は消滅する方向で話が進んでいたというのは、「自公連立」が当たり前になっている現状からすると意外な話かもしれない。


地域振興券

 98年秋の特別国会はバブル崩壊金融危機に対する金融再生法関連の成立を巡るものだったが、直前の参院選自民党過半数を割ってねじれ国会になっていたこともあって、審議が膠着状態に陥ってしまった。
 その中で野中広務は公明代表の藤井に接触して旧公明党衆院新党平和参院の公明)の協力を要請するが、公明党側からは「地域振興券を代わりに実現したい」と要求される。これは以前から公明党が主張していた政策だったが、自民党内からも経済界からも「意味がない」という反対意見が多かった。しかし野中はそれを呑み、公明党の協力で重要法案を通すことができ、その後に地域振興券もちゃんと実現したことで、野中-藤井の信頼関係が構築されていった。

 政府が十五歳以下の子供がいる家庭に配布した地域振興券の総額は約七千億円。野中は実施が決まった後、派閥の若手議員たちとの会合でこう言ったという。
「天下の愚策かもしれないが、七千億円の国会対策費だと思って我慢してほしい」

(p.347)


 配布対象の「15歳以下の子供」に該当したので当時私ももらった。何に使ったのかは忘れたけど。地域振興券小渕内閣の時に出てきたことだけは覚えていたけど、そういう経緯だったのは全然知らなかったので、なんか20年も経って(ああ、あれってそういうことだったの!)と今さら知るのは変な感じがした。


3つのパイプ

 もともと創価学会は中央勢と関西勢の両方が競合しながら池田大作名誉会長を支え合う構図があったという。中央勢のトップが秋谷栄之助会長で、野中広務自民党加藤紘一(当時の宏池会会長)の手引きで会っている。関西勢のトップ西口良三関西長とは先述の通り京都市議選を通じてパイプを構築している。また池田の側近だった藤井富雄公明代表とも地域振興券などで信頼関係を築いている。
 こうして野中広務池田大作に通じる3つのパイプを手中にして、自公連立への道筋をつけていったし、自民党内での権力構築を果たしたという。


 学会への表立ったネガキャンが終わった後も、様々な弱点を探し当てて、お互いの利害を調整しながら、一時は消滅する方向にあった公明党を蘇らせて最終的に連立に組み込んでいった。






 自公の協力関係が今年でちょうど20年になる。20年も経ってしまうとそれが「当たり前」みたいになってきて、「それ以前」がどうだったかとか、「それ以前」と「今」の間の過渡期がどういうものだったのかは見えにくくなってしまう。そのあたりが、野中広務という人物を軸に背景も含めて見られて面白かった。(この本自体、出版されてもう15年になる。)
 自民党にとっては小選挙区制下で巨大な組織票を持つ公明党を敵に回した時の苦い記憶が埋め込まれているし、公明党にとっては自民党を敵に回した時に徹底的に反学会で世間からも叩かれた恐怖が残っているから、20年間くっついていられるのかもしれない。


 以前、自民党の派閥(主に経世会・清和会・宏池会)がどのような流れになっているのか整理してみたいと思って↓を書いたことがあった。
自民党の派閥のおおまかな流れ - やしお
 この時、自民党が90年代に下野していた期間は、政党が乱立したり合流したりが激しくてよく分からなくて放っておいたのだった。そのあたりが改めて整理できて間が埋まったので良かった。何が良かったのかよくわからないけど。


 この本自体はそこだけじゃなくて、野中広務という人の一生を通じて、京都の被差別部落に生まれてどのような差別を受けながら、その壁を這い上がって町議、町長、府議、副知事になり、58歳で国会議員になった後、権力の中枢に居場所を確保していったのかという話で、別に野中広務を礼賛する本ではなくて、その功罪や凄さと限界をニュートラルに描いている。「こういう人生・事例が存在した」という記録としてすごく面白かった。


野中広務 差別と権力 (講談社文庫)

野中広務 差別と権力 (講談社文庫)

文章を書いてお金を貰う体験

 SUUMOタウンに寄稿した記事が公開された↓
ただの住宅地「新川崎」に住んでいたら、勝手に7年が経った - SUUMOタウン


 自分が住んでいる川崎市新川崎がどんなところで、どんな気持ちで住んでいるのか、といった話を書いた。誰かの参考になればいいなと思う一方で、「本当にこれでちゃんと誰かの参考になるのだろうか」という不安もちょっとある。


 お金をもらって文章を書くという体験は初めてだった。はてなダイアリーから始めてブログは15年弱続けているけれど、ずっと書くのも自分、編集も校正も校閲も自分という環境で、他者のチェックを受けて何かを書くのも初めてだった。


 申し出があったのが12月上旬だった。はてなの編集部門からふいにメールが届いた。実は過去にも「書きませんか」というオファーがはてな以外から数回あったけれど、断っていた。ただ今回は、自分の住む町のことを書くという話で「それなら書けることがありそう」と思えたのと、媒体も自分のブログではないということで受けた。
 その時点でこの「やしお」は読者数が13人で、直近の数ヶ月内で特に「バズった」記事もない中で、よく声をかけてもらえたなあと不思議な気がした。誰かが見てくれて、何か評価してくれたというのは、単純にありがたいことだし、うれしかった。


 はてなが編集部門を抱えて、顧客とはてなブログの作者を仲介して記事提供をしている、というのもそれまで知らなかった。じゃんじゃん新サービスを実験的にリリースするインターネットいけいけちょいダサ会社、という10年以上前の認識で止まっていた。


スケジュール

 12月下旬にはてなの東京オフィスで下打合せをした。それ以外はずっとメールベースでのやり取りだった。クライアント側(SUUMOタウン側)との直接のやり取りはない。
 表参道駅からブランドショップの奇天烈な建築物が並ぶ道を抜けて、根津美術館のとなりのビルの中にはてなのオフィスはあった。都内だけど静かで上品な感じがした。会議室は窓が大きくて、畳敷の掘りごたつになっていて、ちょっと居酒屋の個室みたいと思った。窓の外はとなりの美術館の庭を見下ろしておしゃれだった。
 自分の勤めている会社は古いメーカーで、もともと工場だった建物が、どんどん製造現場をなくしてオフィスになっていったようなところだから、職場には窓がない。窓っていいわねと思った。
 お茶はいただけた。あとノベルティグッズも貰った。うれしい。


 事前にたたき台になるかなと思って、記事内容になりそうなトピックをリストアップしたものを送っていたので(特に要求されたわけではなかったが)、打合せではお互いにそのリストを見ながら大雑把に「こんな内容で」というのを相談していった。少し雑談に近い雰囲気だった。
 とにかく手戻り(作った後の大きな修正)はお互いにとって苦しみなので、最初にレギュレーションをしっかり合意しておきたかった。でも基本的にはなくて、文字数も目安で明確な制限が設けられているわけではなく、とにかく「その人の普段のブログの雰囲気で書いてほしい」ということだった。実際その後、細かい修正点はあったものの、大きな手戻りはなく公開に至っている。


 12月下旬に打合せ、その後に「実際に書く内容を箇条書きしたもの」を提出してクライアント(SUUMOタウン側)のチェックを受けてそのままOKになり、年始に岐阜に帰った際の新幹線の往復で書き上がったので1月初旬に初稿を提出し、そこから多少の修正を経て2/21に記事公開、という流れだった。
 実際には余裕のある期限(納期)が設定されていたけれど、書く内容も構成も決まってしまえば後は手を動かすだけの作業なのですぐに終わった。写真は基本的に著者本人が撮ったものを使うとのことで、近所をウロウロして撮影した。


編集・校正

 ツイッターの白ハゲ漫画で、フリーライターや漫画家・イラストレーターが編集者の理不尽な要求に虐げられる話を時々見かけるけど、そういうことはなかった。
 原稿を書くより前に、内容についてはてながクライアントと合意を取ってくれているため、大掛かりな手戻りは発生していない。(それでも理不尽なクライアントなら、それすらひっくり返して平気な顔をするのかもしれない。)
 編集者による修正点も意図が理解できる内容で、ただ「著者としてはこういう意図なのでこの修正点はさらにこの形に変えたい」というこちらからのカウンターもすんなり受け入れてもらえた。
 理不尽な目に合えば白ハゲ漫画や匿名ダイアリーで告発されて炎上して耳目を集めるけれど、「普通に仕事してる」って話はあえて誰も語らないから見えづらい。今回クライアント(SUUMOタウン)も編集(はてな)も理不尽な要求はなく仕事としてとても真っ当だった、ということはちゃんと言っておこうと思って。


 修正も、小見出しが入ったり、読点が入ったり、言い回しの伝わりにくいところが直されたり、細かなものだった。それも「著者の方で修正して下さい」ではなく「こう修正してみましたがどう思いますか?」という形での提示だった。例えば「自分だったらここに読点は入れないな」と思ったりもするけれど、それはクライアント・編集側で違和感がなければそれでいい。
 たぶん「自分の作品」だと思って見てしまうと修正に対して「こんなの僕の文章じゃないやい!」って気持ちになるのかもしれないけれど、「プロダクト」だと思って見れば気にならないんだなと感じた。昔、映画監督の黒沢清がエッセイの中で「早い・安い・そこそこで撮っている」と語っていて(それで傑作を撮るのだけど)、ものすごく細部にこだわり抜いて細かく指示を出して全部自分でコントロールしたいタイプの監督もいれば、役者・照明・カメラマン等々にある程度お任せするタイプの監督もいて、そんな違いなのかな、みたいなことを思った。
 これは「こだわらない」という意味ではなくて、「餅は餅屋を信じてお任せする」という意味だ。いつも自分はブログを「自分の思ったことを整理するために書いている、ただ他の人にも共有できればいいだろうから(それがインターネットの良さだし)共有しておく」というつもりで書いているので、「みんなにとって読みやすいかどうか」にそれほど配慮していない。ただ今回は、編集が間に入って「なるべく人に読んでもらいやすい・読みやすいものを出す」という目的が設定されているのだし、その点に関しては編集の方が「餅屋」なのだからそれに従う、ということだった。それで実際、初稿から読みやすさの点で改善されていると思う。


報酬

 原稿料の相場観なんて自分にはないから、どんなもんなんだろうかと思ってネットで調べてみたら、たぶん普通の(良心的な)金額のようだった。特にプロのライターとして実績があるわけでもない素人に払う金額としては、きっと十分なものだ。
 ただ、時間給に換算してしまうと、本業の会社員の方がはるかに高くなってしまう。打合せをしたり、たたき台を作ったり、原稿を書いたり、写真を撮ったりするのにかかった時間で割ってしまうと、どうしてもそうなってしまう。買い叩かれているわけではなく、良心的な原稿料を貰ってもこれなのだから、「フリーライターになる」というのは、金銭的にはとても大変なんだろうなと改めて思った。


 この前、鈴木智彦『ヤクザと原発』(文春文庫)を読んでいてそんなことを思った。
 著者はもともと暴力団関係が専門のライターで、原発の建設から作業員の手配まで(福島の事故以前から)暴力団が関わっている実態があって、その関係で事故後の福島原発の取材も始めてついに作業員として潜入取材するまでに至る。それで、ヤクザの取材と原発の取材のはざまで苦しむことになる。

実際、私の経済状態はギリギリで、いつ破産してもおかしくなかった。普段の暴力団記事を放置、というか、落としてばかりで、原発にかかりっきりの上、まだほとんど原発の記事を書けていない。収入は、古い付き合いの実話誌になんとか記事をぶち込んで得たごくわずかの原稿料だけだった。睡眠不足にもかかわらず、金のことばかり気になり、夜になっても寝付けなかった。

(pp.101-102)

 手帳を見返すと、当時の行動はアクロバットだった。客観的にみて、キャパを超えた日程であり、冷静な取材ができたとは言いにくい。その後、沖縄に1週間ほど取材の後、翌日に福島入りし、7月4日まで福島(県内のいわき市郡山市南相馬市福島市など)―東京間を5度往復している。5日は原稿執筆の間に家族と食事を済ませ、7日には暴力団取材のため、新幹線で関西に出かけた。帰京したのはいわき入りの前日である9日で、この日の夜は広域暴力団2次団体総長と都内で食事をした。

(pp.163-164)



 能力も人脈も実績もあるプロのライターであっても、どんどん取材してどんどん記事を入稿し続けないと、「金のことばかり気になり、夜になっても寝付けな」いという。フリーであるというのは、大変なことだ。


 今回は「箱買いした野菜やかたまりで買った肉を使って、1杯のカレーだけを作った」みたいな話だけど、プロのフリーライターなら「大量の材料を仕入れながら、材料を振り分けてカレーや肉じゃがや色んな料理を作り続ける」みたいな回転でなければ成り立たないんだろうと思う。本業で十分な収入があるから、趣味でカレー作りをしていられる。
 最終的に単行本になることが確実で、十分な部数が見込める作家でもない限り、「情報収集」と「原稿の執筆」を完全にパラレルでこなせないとフリーライターにはなれない。そのためにはしっかりした「情報源」がいるわけで、過去の経験や人脈がある程度なければ難しい。
 そう考えると十分な情報源や専門性を持たない人がいきなりプロブロガーになるなんてことは厳しいし、乏しい情報を無理やり膨らませようとして世の中のためにならないことをただ書き散らすだけの虚業のようになっていく。
 元々プロブロガーやプロのライターになりたいとは思っていないけれど、改めて難しい話なのだろうなと感じた。


契約

 著作権のうち、財産権は全て譲渡、人格権は行使しないことを約束する、というのが契約の内容だった。会社で特許を取ったりした場合でも、会社に譲渡して報酬を受け取るみたいなのは普通なので、財産権は全部譲渡というのはあんまり違和感がなかったけれど、人格権の不行使のことはよく知らなかった。調べてみると一般的な条項のようだった。
 著作者人格権が行使されてしまうと、修正や公開のたびに逐一著作者の許諾を得ないといけなくなってしまうので、映像素材やイラストの納品などの契約では一般的に盛り込まれるという。今回の話には少しそぐわない気もするけれど、この契約は今回に限った話ではなくて、はてな社との業務全般でも使われるので、一般的に入れられているのかもしれない。
 自動的に付与され、かつ譲渡が無効になっている人格権を、契約によって無化できるのか、というのはとても不思議な話で、実際「不行使条項は無効である」という説もあるようだった。


 その他、秘密保持の契約とか色々あって、初めてだしと思って全部読んだけど、たぶん一般的な内容だったんじゃないかと思う。




 納期、対応、報酬、契約、どれをとっても特に違和感がなかった。「はてなの編集の仕事は違和感がない」ということをちゃんと言っておいた方がいいかと思って。あとやっぱ、初めての経験だったから、思ったことは忘れないうちに記録しておいた方がいいかなと思って。

権力に追従する技術

 この前テレビをつけたら国会中継衆院予算委)をやっていた。旅行の出発当日で荷造りしながらつけっぱなしにしていたら、途中で自民党萩生田光一議員が質問者として出てきた。
 萩生田議員は、日本会議と創成「日本」のメンバーで、国粋主義者で、安倍首相の追従者の筆頭、という漠然とした知識はあったけれど、実際に喋っているのをきちんと見るのは初めてだった。


 萩生田議員の名前は、西村康稔議員とセットで「安倍首相の熱心な追従者」として覚えていた。
 清和会の中で次期大臣の座を狙う二人だが、西村議員が、西日本豪雨の際に安倍首相や小野寺防衛相を含む自民党議員が宴会をしていた写真をTwitterにアップして大炎上させたり、総裁選で「石破の応援演説に参加すれば将来に差し障る」と神戸市議を恫喝したことがバレたりして、「失点」を重ねている中で、萩生田議員の方がリードしている、というようなニュースを去年に見て、この二人の名前を何となくセットで覚えていたのだった。


 萩生田議員は他の質問者・答弁者よりはるかに語りが上手くて、つい見入ってしまった。他の自民党の質問者より政府をしっかり批判しているように見えた。しかしその内容をよく見ると、政府に全くダメージを与えないどころか華を持たせるようなものになっている。
 自民党には自浄作用がきちんと働いている、政府もそれに真摯に対応している、という印象だけをノーコストで与える。その高い技術があって初めて、追従者としての役割を果たせるんだなと思った。


 国会の映像は↓で見られる。(2019年2月8日の衆議院予算委員会。)話題が3パートに分かれていたから、それぞれ萩生田議員の技術がどのようなものだったか、具体的に記録しておきたい。
衆議院インターネット審議中継


地方自治体の行政能力

 幹事長代行という立場上、地方自治体から様々な陳情を受けることがあるが、よく聞くと国の仕事ではなく自治体の仕事だと思う内容が結構ある、という掴みで始まった。そこから「交付金は財政力には直接効くが、行政力には効かない」という話をして、「非常時の地方自治体の行政能力の問題」の話へと導入していった。
 そして具体的な事例として西日本豪雨を挙げる。総理が官邸で電話をかけて直接「簡易エアコン」の手配をして、被災地にせっかく届けられたのに、箱から出されることなく積まれたままで被災者に届かないケースがあったという。間に自治体が入るべきだが、自治体自身も被災している中でその能力が不足しているから、自治体の行政能力を上げないといけない、という主張になっている。


 ここでの主張は、あくまで表向きは「政府が動くだけでは不十分、自治体も動くこととセットでなければ実効性がない」というもので、誰もが納得できる真っ当な意見だ。
 しかし、昨年の西日本豪雨の時、安倍首相たちは宴会をしていて初動対応が遅れたと批判を浴びた、という背景を思い出すと、ここでは同時に「安倍首相はちゃんとやっていた」というメッセージにもなっている。時間が経って世間が宴会のことをだいぶ忘れかけているから、「あの時、政府はちゃんと対応していた」というイメージで上書きするにはちょうどいい時期なのかもしれない。またその前段で「政府による交付金は財政力に効いても、行政力は自治体の問題」という話をしていることも、ここでの「政府はしっかりやってる、自治体のせい」というイメージを補強している。
 さらに、この宴会が世間にバレた原因が萩生田議員のライバルである西村議員だった事実も思い出すと、「安倍首相に汚名を着せる西村議員と、その汚名をそそぐ萩生田議員」という対比を「ついでに」作り出している。


 ものすごく短い間に、

  • 納得性の高い問題提起をして見る人に信用を与えること
  • 政府(首相)の過去の不手際をプラスイメージで上書きすること
  • 政府の責任を回避して他(自治体)へ問題を転嫁すること
  • 自身の立場を向上させること

といった操作を同時に施している。効率的で、圧縮率が高い。


 かつて気象予報は3.3km四方の単位だったが、今は400m四方の精度で出されている。しかし気象庁から出されるその情報をきちんと解釈できる職員が自治体にいなければせっかくの情報も生かされない。
 そんな話が続く。原稿に目を落とすこともなく具体的な数値を挙げる。「知らなかった事実」「意外な事実」を教えられると「へー」と思って人は耳を傾ける。そして数値や具体的な事例で語られると、それは正確な内容なのだと信じてしまう。そして一つでも信じられれば、その他も信用に足るものと推定する。こうして話の全体を「信頼できそう」と思わせることができる。
 これは良いとか悪いとかいうものではなく、話に説得力を持たせるためのただの基本的なテクニックだ。ただそれを、話の中で定期的にきちんと繰り返して説得力を維持するという作業を、他の人々が疎かにしているために、一人だけ突出して説得力があるように見えている。


 そして最終的に、「技術職を増やすのは本末転倒なので、自治体の職員に資格を取らせればいい」という話に持っていく。それに対して総務相と首相は「人材育成に地方交付税を充当する」という答弁をする。
 地方公務員の総数は1994年をピークに減少を続けて昨年(2018年)時点でピークから16%減少している。自治省総務省事務次官通知や閣議決定などの形で削減の方針や指示が中央から示され、安倍内閣に限らず減らし続けてきた実態があるので、それを踏まえて「人は増やさないが」というエクスキューズになっている。(ちなみに「就業者数に占める公務員数の比率」だと日本は先進国中最低で、世界でもモロッコに次いで低く第2位らしい。多ければいいという話でもないけれど、かなり少ないのは確かなようだ。)
 「公務員の数は増やさないけど資格を取らせよう、時間外勤務を増やしたり、給料が正規の3分の1の非正規職員を増やしたりして頑張ってね。」と言っている。


 形の上では「委員が指摘したことで政府が対応した」となっているが、地方自治体の職員の資格取得を推進することがどう課題解決になっているのか、16兆円ある地方交付税のいくらがどのように「充当される」のかと思うと、どれほど実体のある約束がここでされたのかはよく分からない。
 ただ何となく聞いていると、前半に説得力があるので、「ああそうだその通りだなあ」みたいな気持ちで結論をスルーしてしまいそうになる。
 全体を通してとにかく圧倒的に聞きやすい。つっかえることもなく、原稿に目を落とし続けることもなく、「ま、あー」とか「えー」とか、無意味な「まさしく」「あります」とかで間延びさせない。ほとんどの答弁者がずっと原稿を見続けていることと対照的だった。練習に費やす時間が違うのだろう。


幼児教育・保育の無償化

 無償化の対象外となる施設の中にも、対象にすべき施設はあるのではないか、という指摘だった。萩生田議員の地元・八王子市内にある、発達障害児の教育に力を入れている「みどり幼児園」を、対象外となる実例として具体的・詳細に挙げていてここでも説得的だった。
 文科相の答弁は「制度からあぶれる施設もあるが、国でなく各自治体でサポートするとか、認定に移行してほしい」というものだった。それを受けて萩生田議員は声のトーンを強めて、直接的には文科相の答弁を否定はせずに、力強く批判しているような雰囲気を作っていく。そして
「これ時間がありません、総理の決断でもう一度指示していただきたい」
と迫る。
 安倍首相が答弁に立ち「用意した答弁ありますが」と断って原稿は見ずに、「今の話でそういう例があることを知った、検討したい」と答弁する。首相の答弁が終わった時、「おおっ」と誰かが上げた声が映像には入っている。


 首相のリーダーシップのアピールになっている。管掌の大臣の答弁を覆す首相、官僚の用意した答弁を覆す首相のイメージを出している。一方でそれを引き出した萩生田議員の力のアピールにもなっている。
 ただ、2日前に質問通告はされており、だから手元に「用意した答弁」が存在するのだということを考えると、出来レースとか茶番劇といった言葉が浮かんでもくる。


国家公務員の人事制度

 統計不正の問題に絡めて、国家公務員の人事評価制度に持っていく。
 自分は幹事長代行の仕事をしている、複雑な仕事だが、経験者の先輩がいるからやれる、一方で官僚は統計局から局長に上がった人は一人しかいない、仕事の内容を理解してくれない上司だとだめだ、キャリアとノンキャリには壁があり、人事の採用も出世も各省庁がやっていて「採用してくれた人」「引き上げてくれた人」という恩義で固まった縦のラインができている、だから各省庁から人事権を取り上げて人事院でやればいい、内閣人事局でせっかく仕組みを作ってあるのだからそれを利用すればいい、という話だった。


 「各省庁から人事権を取り上げれば統計不正は起こらない」というすごい理論になっている。しかしやはり話し方は上手いし、一つ一つは不自然ではない事実を語っているので、ぼんやり聞いていると何となく納得しそうになる。「単体では不自然でない話を重ねていって最終的に妥当性のない結論にたどり着く」というのは「風が吹けば桶屋が儲かる」論法そのものだ。無数にある因果関係の束のうち、因果関係の強弱とは無関係にそのうちの一つを任意に選ぶことができる。
 2つ目の幼児教育・保育の無償化の話のところで「一番詳しいのは身近な地方自治体だから、施設の認定は地方自治体の判断で」と萩生田議員は語っている。その理屈を援用すると、ここでも「一番詳しいのは各省庁だから、職員の人事は各省庁の判断で」という結論を導くことだって可能だろうとも思う。
 問題への対処に見せかけて首相・官邸への権力集中を進めようとするのは、正しい尻尾の振り方ということかもしれない。


 途中、大学4年生の試験でキャリアかノンキャリが決まってしまうという話に絡めて、
「学校時代の成績ですべてが決まるんだったら、ここにいる人結構いないですよ」
と発言して、議場がどっと笑いに包まれた。
 「学生時代の学力でその後の全ての評価が決まる世界はおかしい」というのは一般論としてその通りだ。ただ、「ここにいる人」の中で「偏差値が高くはない大学を出ている」一人が安倍首相だという背景を考えると、ある種の学歴コンプレックスを慰めたり、肯定感を与えたり正当化するのに寄与している。
 ちなみに西村議員は東大卒・元通産官僚なので、ここも同時にある種の当て擦りとして機能しているのかもしれないが、それは邪推が過ぎるような気もする。






 本当の意味で権力に追従するというのはこういうことなんだなと思った。一見、強く批判しているように見せて、その実ダメージを与えない。その上「きちんと対応する政府」のイメージを作る。
 この日の衆院予算委は、岸田政調会長も最初の質問者として出ているが、「統計不正は制度やルールの問題ではなく公務員の意識やモラルの問題、政治家がチェックできるわけないし」みたいな話をしていて、萩生田議員と比べるとあまりに雑だった。コーティングする手間を省いていてダイレクトに政府擁護をしてしまう。それは頭が悪いとかいうわけではなく、追従することへの本気度の差なのだと思う。
 岸田文雄が三世議員で地盤を引き継いで政治家になったのと違い、二世議員でもなく、官僚出身でもなく、市議から都議になり国会議員になった萩生田光一にとって、権力基盤のない中で上ろうとすると、こういう戦略になっていくのはある意味自然なのかもしれない。


 党内で派閥に権力が分散した中選挙区制では、族議員になって専門分野で能力をつけて派閥に貢献していくのが一つの生存戦略だったのが、党首(総裁)に権力が集中する小選挙区制では、徹底して党首のイメージアップを測ることに貢献していくのが生存戦略になっている。(ただ「だから中選挙区制へ戻せ」と単純に言うのは、権力闘争の激化で政権運営が安定しない、バラマキ型になる、といった大きなデメリットを無視しているので無意味だとは思う。)
 それが国会議員の本来の役割からかけ離れていたとしても、過剰適応は一般的にそうしたズレを孕む。その過剰適応の一例が萩生田議員なのかな、みたいなことを初めて話している映像を見て思ったのだった。
 萩生田議員は、国粋主義的な言動(日本の核武装容認等)や守旧的な価値観(育児は母親がすべき等)をたびたび表明して叩かれたりもしているが、これも「安倍首相の(日本会議等の)価値観と合わせる」という適応の結果だったりするのだろうか。


 ここまで全振りして貢献しているし、当選回数も5回だし、大臣のポストくらいあげてもいいんじゃない、みたいな気持ちにもなるけれど、それは国民の利益を視界の外に置いて、国政のみを舞台として矮小化した視点で言えることでしかない。
 こうやってがんばっている国会議員がいるということを、中の人達だけじゃなくて、外からもちゃんと見てあげた方がいいかなと思って。