やしお

ふつうの会社員の日記です。

大型SNS第二種免許

 自動車が「走る凶器」と呼ばれるのは、その重量と速度によって人や物を容易に傷つけ得るからで、徒歩で移動する限りであれば絶対に起こさないような大事故が起き得てしまう。SNSなんかも、見知らぬ人にまでリーチする影響範囲や拡散速度のせいで、周囲の顔見知りとだけ喋っていただけの頃とは比べ物にならないほどの大事故(大炎上)が起き得てしまう、という点ではちょっと似てるのかもしれない。Twitterなどは「書く爆発物」みたいな感じだろうか。
 自家用車が普及する前までは営業車ばかりで、走っている車の量も少なければ、運転者もプロばかりだった。SNSも、誰もがスマホで特段の知識なしで利用できるようになる以前は、インターネットやPCにある程度習熟した人がほとんどで人口も少なかった時代もあった。さらに遡ってインターネット以前になれば、マスメディアで発信する側としてアクセス権を持っていた人はプロ(記者や作家やタレント等々)だけだった。
 自動車に道交法や運転免許や保険があって、一定の枷や網が張られて整備されているのなら、SNSもそんな感じになったりするんだろうか、みたいなことをぼんやり空想していた。


 歳を取ってきて、車の運転は結局あの重量や人間の反応速度や何やかんやを考えると「路線バスの運転」くらいが本来のあり方なんだろうなと思うようになってきた。「歳を取って」と言っても、20代半ばくらいから運転がだんだん穏やかになって、30歳くらいから改めてそう考えるようになった。
 人間ひとりが自分の手で、この1t強もある重量物を、時速5, 60kmとかで操るっていうのは、恐ろしい。本来無理のあることなんじゃないかという気持ちでいる。自動運転の方がむしろ本来の姿なんじゃないか、人間がマニュアルで動かしてるなんて百年後から見たら「恐ろしい」「野蛮すぎる」と思われそうだという気持ちでいる。
 教習所でも「流れもあるから、遅くし過ぎるな」と教わったりするし、極端に遅いのもかえって危ないかもしれないけれど、実は設定されている制限速度とか最徐行とか一時停止とかのルールは「せいぜい普通の人間の能力からすればこんなもん」でかなり妥当性があるんじゃないか、割とあれを厳密に守ってようやく「ちょうどいい運転」になるんじゃないかと思うようになっている。
 SNSも、バズりが気持ち良くて無茶する人がどうしても出てきてしまう。スピード出すの気持ちいい、かっこいい、俺すごい、が勝っちゃってる状態で、事故が起こる。あるいは無茶してるわけでもないけど不用意なこと(差別的だったり上から目線だったり)を書いて炎上する人もいる。スピードを出してるわけじゃなくて単純に不注意だったり想像力が足りない(自己中心的な)せいで衝突してしまう。SNSでも「かもしれない運転」が必要になる。


 そういえばその昔「交通戦争」という言葉があった。日本だと1959年(昭和34年)に年間の交通事故の死者数が1万人を突破して、大平洋戦争よりも死者数が多くなって「もはや戦争状態」ということでこの言葉が使われ出したらしい。1964年の東京オリンピック後からさらにモータリゼーションが進行して、1970年まで死者数が増加し続けた。
 東京オリンピック(1964年)から見ると敗戦(1945年)は19年前で、今(2020年)から見た19年前って、小泉政権が誕生、「千と千尋の神隠し」や「オトナ帝国」公開、ゲームキューブ発売、あゆと宇多田が人気、9・11が発生、などの年(2001年)かと思うと、「最近」とまでは言わないにしても(30代以降くらいなら)はっきり記憶がある過去だ。これくらいの時間的な距離だと、「あの戦争で死んだ人数より交通事故で死んだ人の方が多い」はかなり生々しさとインパクトを持ったのだろうと思う。「交通戦争」という言葉はたぶん、今の我々が思うよりはるかに強度のある言葉だったのではないかと想像している。
 運転者だけでなく歩行者への教育を進めたり、信号機、歩道・地下道・歩道橋、照明、ガードレール、標識などの整備が進んだり、交通事故やシートベルト不着用、飲酒運転の罰則が強化されたり、安全装置(エアバックやチャイルドシート)が普及したりといった対策が進んだ結果、現在の死亡者数はピークから見ると5分の1程度に減っている。
 こうした対策はEducation(教育)、Enforcement(法制)、Engineering(技術)の頭文字を取って「3E対策」と総称されるらしい。人のレベルを上げる、ルールを整備する、技術的に課題を解決する、という三つ巴で、事故を抑える/安全を達成する、というのは他の分野でも同じだろうと思う。この辺も3つにきれいに区分されるというより互いに絡み合っている。


 しばらく前にこのブログで「SNSでダイレクトに発信できるようになると、クリエイター(作家とか)の技術だけじゃなくて編集や校正(校閲)の技術も同時に備えないと炎上してしまう」といった話を書いた。
  クリエイターに編集や校正の技術が必須の時代 - やしお
 これも教育というか人のスキルレベルの話の一種だろうと思う。上記のエントリの中で、「叩かれなさ」を単純に上げようとすると「当たり障りのないことを言うだけ」の解にたどり着いて本末転倒になる、コンテンツの魅力と耐炎上性を両立しないと意味ないけれど、例えばウェブライターのARuFa氏はその意味で高度な両立を達成しているのではないか、といったことを書いた。もしSNSの免許があるとするなら、ARuFa氏は大型SNS第二種免許を即日交付されるレベル、ということになるのだろうか。
 技術的な解決で言えば、障害物検知みたいな感じで公言する前に事前に「それ大丈夫か?」と教えてくれたりリスクを点数で見せてくれるのかもしれない。法制で言えば、最近も炎上で追い詰められた当事者が自死に至るとか、虚偽・デマで権利衝突が起こるとか、そうした問題に「もうちょっと何とかした方がいいのでは」という話も出てきていて(法律じゃないにせよ)何かしらのルール整備が進んだりするのかもしれない。
 そうして整備がかなり進んでも、どうしたって事故の発生がゼロにはできないなら、起きた時にカバーできるような仕組みもできたりするんだろうか。運転するなら自賠責保険が義務化されているのと同じように、TwitterをやるならT賠責保険に加入するとか。


 その昔「交通戦争」と呼ばれる時代があって、運転する人が増えて「事故を何とかしないと」と社会問題化したのと同じようなフェーズに、SNSなどが今いるのかもしれないと漠然と思っただけ。

尊厳死・安楽死の制約のありか

 母が入水自殺で他界した時、真っ先に考えたのが「安楽死制度が整っていればこんな死に方をせずに済んだのだろうか」ということだった。母の一人暮らしのアパートにあったiPadのブラウザの閲覧履歴には、死んだその日に頸動脈の切り方をあれこれ調べていた様子が残されていた。母は子供の頃に近所で縊死を目撃したのをきっかけに「首吊りだけは嫌だ」と以前から言っていたから、それ以外の方法を探していたのかもしれない。警察からは、河原には包丁が落ちていたことと、深夜に通りがかって堤防の階段に一人座っている女性を見つけて声をかけた人がいたと聞いた。深夜の堤防で死にきれず、階段で一人座ってしばらく過ごし、最後は一人で真っ暗な川に入るその間の感情を思うと、あんまりだ、とやりきれない気持ちになった。子供は既に全員経済的に独立し、孫も二人いて、例えば家族に見守られながら苦痛や恐怖のより少ない終わり方が、技術的には可能だったはずなのにそれが実現されなかったことは、つらいと思った。
 しかし同時に、母の自死という選択が自由な意思によるとも言えないだろうとも思ったのだった。64歳で亡くなった時点で大きな健康問題を抱えていたわけではなかった。遺書はごく簡潔なメモで、自死に至る理由は書かれていないし、書かれてあったとしても当人が意識しているものだけが理由であるとも限らない。65歳を迎える前に死のうとは以前から考えていた形跡は後からいくつか見つかった一方で、そのまま生きようとしていた形跡もいくつか残されていて、本人の中でも決めかねていたのかもしれない。
 もし健康(介護)や金銭面など将来への不安やその他一切がなかったとしたらその選択はしなかったかもしれない。あるいは人間関係を充実させたり趣味に打ち込むなども有効なのかもしれない。安楽死の環境整備ではなく、そうした不安を除去したり意欲を行進する方が優先されるべきだろうかとも思った。
 先日のALS患者の女性に対する嘱託殺人により医師2名が逮捕された事件をきっかけとして、安楽死の議論が出るのを見かけて、4年前に母が死んだ時に考えていたことを思い出していた。当時、母の死に関して出来事と感情や思考を下に一旦まとめて、自分の中で区切りをつけたのだった。
  悲しいだけ - やしお


 死ぬことを前提に考えれば、苦しくない死でありたいと望むのは自然なことだとしても、その「死ぬこと」の自明性が疑われるから難しい。「死を選ぶ権利」とは、あたかも完全に個人の自由な意思として選択可能であるかのように語られるが、その点がそもそも疑わしい。「本人が死にたいと思ってるなら死ねるようにした方がいい」の「本人が死にたいと思ってる」を疑っている。「楽に死ねますよ」の制度が用意されれば、「死ぬ」という意思決定を支えている外在的な要因(病気や貧困やDV・いじめ、周囲の圧力や常識・通念その他)を除去しようとする(本人だけの話ではなくて制度や仕組みとして)インセンティブが働きにくくなるのではないかと疑うのは自然なことだろうと思う。「だって本人が死にたがっているから」「本人の意思、死ぬ権利を尊重しよう」で封殺されそうだとは自然に想像できる。
 ALS患者女性の主治医が記事の中で、女性が安楽死を求めることがあったのと同時に「彼女は少しでも長く良い状態で生きたいと、最後まで治療法の情報を集めていた」とコメントしていた。
  死への思い「NHK番組観て」傾斜か 「安楽死」のALS女性、主治医が初めて語る姿|社会|地域のニュース|京都新聞
 私の母も死にたいという気持ちと、やめようかなという気持ちの間で揺れていたような形跡もあった。世の中にはこの間で揺れた結果として自死へ向かわず、誰もそこで揺れていたことを知らずにいるケースも無数にあるのだろう。「本人が死にたいと思っているならば」という条件・前提を設定するとき、それがあたかも自明であり固定的だという視点に立つ。仮定の設定とは一旦それが「成り立つ」ものとして、そうでない場合を捨象するような振る舞いだからだ。しかしそれが自明に/固定的に成り立つとは考えない方が現実に即しているだろうと思う。


 自身もALS患者である船後参議院議員が「『死ぬ権利』よりも、『生きる権利』を守る社会にしていくことが、何よりも大切です」というコメントを発したのも、「死にたい」を実現することと、「死にたい」を支える要因の除去との間では、まずは後者が優先されるはずだ、という認識に基づくのだろう。
  ALSの舩後靖彦氏「死ぬ権利よりも、生きる権利守る社会に」:東京新聞 TOKYO Web
 一方で日本維新の会の幹事長の馬場衆議院議員が、党内で尊厳死の制度検討を進めることを公表した際に、船後議員のコメントについて「議論の旗振り役になるべき方が議論を封じるようなコメントを出している。非常に残念だ」と語った。
  維新、尊厳死PT設置へ:時事ドットコム
 船後議員は「死へ向かう要因の除去こそがまず優先して考えられるべきだ」という「議論」の方向性を示しているという意味で、現に当事者の一人として「議論の旗を振った」し「議論を活性化させる」一定の役割を果たしているはずであり、「議論の旗振り役になるべき方が議論を封じる」といった批判は成立しないはずだ。しかし馬場議員が船後議員の発言を「議論の封殺」と断じているというのは、とどのつまり馬場議員の指す「議論」が安楽死拡大ありきの限定されたものに過ぎないことを意味する。そこでは「死にたい人が生きられる方向へ進めるようにする」は最初から除外されており(それが含まれるのなら船後議員の発言を「議論の封殺」と見做し得ない)、「死にたい人は死ねるようにする」に限定される。馬場議員はおそらくこうした構造に対して無自覚に発言しているのだと想像するが、そこには無自覚に「難病患者ないし重度障害者が『死にたい』と考えることは自然なことだ」という非当事者の一種の思い込みが作用しているのだろうと考える。
 死にたいと思うことはあり得る、しかし一方で生きられるなら生きたいと考えることもまた自然なことである、という視点に立つ。「死にたい」を自明なものとしてスタートするのではなく、「死にたい」がどこから来るのかを考えるところを出発点として設定した議論でなければならない、という理解で現時点の私はいる。


 例えば「あと5日後に死にます、その間肉体的に大きな苦痛を伴い、思考や会話はほとんどできません、現在の技術ではこの苦痛を除去することはできません」と言われるような状況をかりそめに想像してみると、「死なせてほしい」と私は思う。そう考えると、安楽死の一切を拒絶するわけではない。すると「一切認めない」と「全てを無条件に認める」との両端の幅の中で「では安楽死のどこまでを許容するのか」という線引きの問題がここで生じる。
 1991年に多発性骨髄腫で入院していた患者を、家族の求めに応じた医師が薬物を投与して死亡させ殺人罪で起訴されたケースがある。95年の横浜地裁の判決で医師による安楽死が許容される要件として以下の4つが挙げられた。

  • 患者が耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいること
  • 患者は死が避けられず、その死期が迫っていること
  • 患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くしほかに代替手段がないこと
  • 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること

  東海大学安楽死事件 - Wikipedia
 現在の日本ではここが一つの判断材料になっている。苦痛の大きさ、死との距離、要因の解消可能性、本人の自己決定、の4つを勘案した上で是非が決定される。(なお上記は積極的安楽死に関してであって、治療行為をしないことによる消極的安楽死に関しては本人の意思のみが要件となり認められている。)


 石原慎太郎都知事Twitterで、嘱託殺人容疑で逮捕された医師2名について「武士道の切腹の際の苦しみを救うための介錯の美徳も知らぬ検察の愚かしさに腹が立つ。」と書いた。
  https://twitter.com/i_shintaro/status/1287602343660228609
 切腹時の介錯というケースを仮に4要件に当てはめて考えると、

  • 苦痛の大きさ→刃物で腹部を激しく損傷させて耐え難い痛みに襲われている
  • 死との距離→死期は目前に迫っている
  • 要因の解消可能性→治療の可能性はない
  • 本人の自己決定→切腹前に介錯を拒絶していない(依頼している)

と4要件を満たすため(医師の手によるものではないが)介錯という安楽死は正当化されそうだ。「介錯の美徳も知らぬ検察の愚かしさ」と石原氏は書くが、仮に介錯のような状況であれば検察は不起訴(緊急避難により違法性が阻却され刑事事件の対象にならない)と判断するのかもしれない。切腹介錯と、今回のALS患者のケースとの間には大きな距離があり、今回の事件では4要件全てを満たしてはいない=違法性は阻却されないと思われ、警察ないし検察がこれを刑事事件として扱うのは現行のルール上自然なことであって、逮捕ないし起訴を「愚か」と断じる方に無理があるように見える。
 そうした具体的な「距離」を(意図的にか無意識にか)無視して、難病患者や重度障害者のケースにダイレクトに接続することは結局、船後議員が危惧した生きる権利をないがしろにする状況の招来そのものであって、「議論」としても粗雑ないし暴論でしかないだろうと思う。


 この4要件それぞれに線引き/程度問題が内在する。「苦痛の大きさ」で言えば肉体的苦痛に限定されず精神的苦痛もまた死という手段による解消が望まれるほど耐え難いものもあるのではないか、といった考えもあり得る。「死との距離」では「死が避けられず」という条件自体は全生物にとって既に共通であり「死期が迫る」とはどこまでを言うのか、数日に限定されるのか、数年に渡るものも許容されるのか。「要因の解消可能性」は例えば高額な医療で経済的に選択不可能であれば「代替手段なし」と言えるのかや、「自己決定」は現在の本人のみで過去の本人(認知症の発症前や植物状態になる前など)の意思にも遡及できるのか、等々、その程度を考える余地がいくつもあり、また既に一定程度司法判断が示されているものもある。
 現在の判断基準が「肉体的苦痛」に限定され「精神的苦痛」が除外されているのは、精神的な苦痛は客観的な認定の技術的な困難さによるのだろうか。現在の基準では少なくとも「認知症になったら死なせてほしい」は認められないし、まして私の母のケースは全く要件を満たす余地はない。
 他国では肉体的には健康だったが安楽死が許容された事例として、1994年オランダでの50歳の女性のケースがある。女性は夫からDVを受けており、また2人いた子供には一方が自殺、他方が癌により先立たれた。睡眠薬による自殺を試みるが失敗した女性は、「自発的安楽死協会」を通して精神科医に相談する。精神科医は「自殺願望を消す方法がなく、より悲劇的な自殺を実行する可能性が高い」と診断し、他の医師・心理学者ら7人と相談した上で薬物により患者を安楽死させた。精神科医自殺幇助罪で起訴されたが一審・二審で無罪、最高裁では形式的な有罪とされたものの「平穏に自殺する権利」が認められたという。
  みんなの介護
 他にオランダで、家族や友人を亡くした86歳の男性が「孤独であること」を理由に安楽死を求め、致死薬を渡した医師が最高裁で有罪だが刑罰は課されなかった事例もあるという。「オランダ社会は、『一定の年齢に達したら、病気などの事情がなくても、自分の死は自分で決める』という究極の自己決定権まであと一歩のところまできている」という。


 選択肢が多く自由である方がいい、制約は少ない方がいい、と基本的な価値観として考えている。世界全体で見渡しても安楽死の適用拡大が最も「進んでいる」オランダの状況が、私の住む社会でも実現されることを望むかと考えると、やはり「死にたい」の要因除去の優先が担保されていない限り、そうあってほしくないという気持ちになる。それは日本が文化的・社会的に個が確立されていない、空気を読む社会、同調圧力の強い社会だ、といった話にとどまらず、個の確立された社会であったとしても変わりない。一見、選択肢を拡大するように見えて、実は逆の効果をもたらす状況はシステム設計の問題としてありふれている。自由にすることがかえって不自由になる、制約がある方がむしろより自由になれる、という話の一つかもしれない。「死ぬ」を一旦塞ぐという制約を受け入れることで「どのように生きられるか」に繋がる。
 その意味で、「安楽死の適用拡大」全般に反対しているわけではないとしても、拡大の検討は、結局は現状の抑制的な4要件をベースにしてどこまでその線引きを拡大しても「死ぬ」選択肢が「生きる」選択肢を抑圧しないか個別具体的なケース(現実の広範な諸条件)と照合しながら一つ一つ検証するような地道な作業が必要になるのだろうと想像している。そこに至るともはや、観念論的に「死にたいと思っている人がいるなら楽に死ねるようにした方がいい」という立脚の仕方にはならないはずだが、少なくとも日本維新の会のPTは馬場幹事長の発言を見る限り、その稚拙な立脚点に基づいている(拡大ありきで考えている)としか思われず賛成する気にはなれないのだった。「死にたいと思っている人がいるなら」という条件への疑いが感じられない言説に首肯するのは難しい。


 自分自身の母親の入水自殺のことを思うと「もっと怖くない・苦しくない死に方ができたはずなのに」と、技術的には可能であっても許されていない現状を悔しく感じるのは正直な気持ちとしてあった。とは言え「そもそも死ぬ選択をせずに済むようにしてほしい」がそれ以前にあるはずだと思うと、「だから楽に死ねるような仕組みにしてくれ」という結論にはならないはずだとも、今回のあれこれを目にして改めて思ったのだった。

信じない上で信じるような読み方

 しばらく前に「ミモレ丈」とつづ井さんの「助け合い」が(ネット上の極一部で)話題に上がった。前者は嘘を書いているのではないかという書き手への疑い、後者は書かれていない要素に対する書き手への非難だった。同日に起こったこの2件は相互に独立して無関係な話だが、両者はノンフィクションの正しさへの一種の信仰という意味で通底している。


 「ミモレ丈」ははてな匿名ダイアリーの記事がきっかけだった。
  32歳腐女子自分の子供っぽさに気づいて恥ずかしくなる
 32歳の「私A」が、久々に集まった友人達の「30代女性にふさわしい」服飾や言動に対して幼稚なままの自身に羞恥や焦燥を覚えたという報告だった。これ自体は、誰にとっても(どちらの立場でも)経験し得るような話で、「服飾や言動」を例えば「収入やキャリア」などと置き換えてもありふれた話である。ここには「年齢にふさわしい」という常識や通念に人が縛られることをどう捉えるかといった視点があり得る。
 しかし話題に上がったのは、この記事の書き手が本当に「私A」なのかという疑いについてだった。服飾に興味を持ってこなかったはずの「私A」が友人達の服飾を詳細に描出し過ぎているという違和感から、「実はこの記事を書いているのは友人の一人ではないのか」という疑いが持ち上がったのだった。

Bちゃんはコート、ドルマンスリーブのカットソーにミモレ丈のスカート、黒タイツにブーティ、ハンドバッグ。ケバすぎないばっちりメイク、薄いピンクのネイル、小ぶりでシンプルなネックレスとブレスレット。

という友人「B」への描写中の「ミモレ丈」という服飾用語が、この疑いを象徴的に表す語としてピックアップされるに至った。


 「助け合い」は著者つづ井さんがTwitterに投降した漫画(絵日記)である。
  https://twitter.com/wacchoichoi/status/1281167580762267649
 友人3人で過去のアニメ作品を視聴したところ、「エッチな絵(2次創作)を見たい」という話になる。しかしネットを探しても見つからなかった。後日3人のうち絵を描く2人(つづ井+橘)が「エッチな絵」の交換をした。自身の「性的な興奮を覚えるもの」を相手にさらす行為は、長年の友人であっても(だからこそ)非常に気恥ずかしいが「ひと皮むけた関係になれたような」気がした。残り1人(Mちゃん)は絵を描かないから参加していない。さらに後日、3人が集まった時に2人が絵を交換していたことを知った「Mちゃん」が「私も見たい」と叫ぶが、2人は「分かってほしい」と宥める、という話だった。
 これに対し「Mちゃんがかわいそう」という感想が寄せられ、著者は以下のように答えている。
  https://twitter.com/wacchoichoi/status/1282614861415866368

先日の絵日記「助け合い」に関して、「エッチな絵見せて貰えなかったMちゃん可哀想すぎる」というお声をいただきました。色んなご意見を拝見し改めて絵日記を見返すと、「た...確かにこの私感じ悪...」と素直に感じました。
絵日記を描く上で、虚構にならない範囲で実際の出来事や会話を省略するのですが、その上で「省略する部分」と「省略せず描く部分」を今回私が完全に間違えました
この時も、絵日記そのままに私が脈絡なくエッチな絵の話を匂わせたのではなくて、それまでとその後のやり取りと(照れちゃうけど)我々の長年の関係性もその場の空気とともにあって、結果としてエッチな絵見たすぎMちゃんの大咆哮となったので...。でも描いてないことは伝わらないので、私のはしょり方と構成と描き方がヘタすぎて読んでくださった方をモヤッとさせてしまいました。申し訳ございませんでした!大反省要修行....


 「ミモレ丈」の「服飾に興味がないはずの私Aが詳しい」違和感に対して「作者が私Aではなく友人のいずれかである」以外の解釈を考えることも無際限に可能である。

  • 本人が服飾に金銭を費やしていなくともその程度の知識・解像度を持っている場合はあり得る(作者は私Aである)
  • 説得力を持たせようと記憶に基づいて後からそれらしい服飾のディテールを書き加えた(作者は私Aである)
  • 徹頭徹尾が創作である(作者は作中人物の誰でもない)

 作者が私Aである場合、ない場合いずれも任意の解釈が読み手にとって選択可能であり、与えられた情報のみでは確定できない。それでも(個人の常識や通念等に基づいて)最も妥当だと信じられる解釈を主張することも可能であり、一方で確定できないことは一旦棚上げとして作者に対して好意的な(作者の主張に一旦沿った)解釈を選択することも可能である。私は後者の態度を取る。
 「助け合い」は「書かれなかったこと」を読み手が否定的な印象で埋めた結果で発生した批判と弁明だった。「ミモレ丈」と同様にどのような解釈も可能であるが、ここでも私は一旦作者の主張に沿うような(好意的な)解釈を選択する。


 真偽が不明で、かつその真偽が決定不能な(妥当性の判定が決定的でない)場合に、一旦作業仮説として真と見なす態度を私は選択する。これは、デマを信じてまき散らすといった行為を是認するものでないのは当然である。またこの態度決定は「決まらないことを云々するのは無駄である」ないし「そうする方がより建設的だ」といった相対的な有利さがあるとしても、その有利さのために選択されるものでは必ずしもない。むしろ「書かれたもの」を全てフィクションとして見るという措定に由来する。
 書かれたものは、原理的に現実そのままの写しであることはあり得ない。現実の全てを書き写すことができない以上、そこには書き手による事象の取捨選択が入る。さらに選ばれた事象が文章なり漫画なりで再現されようとする時、その表現方法の特性に基づく制約を受ける。この意味で「書かれたもの」の一切がフィクションであるという視点に立つと、真偽の決定自体が相対化される。真か偽かを判定する行為は恣意的な選択と見なされる。
 書かれたものを(たとえ作者がそれをノンフィクションであると主張しても)全てフィクションとして見るという態度は、作者の書いたものを素直に/好意的に解釈するという態度と一見矛盾する。この矛盾は捨象する、括弧に入れるという操作によって解消される。


 小説家・批評家の大西巨人は、フィクションとノンフィクションの関係について「小乾坤」という言葉で語っている。1948年のエッセイ「作中人物に対する名誉毀損罪は成立しない」では以下のように書かれる。

 おしなべて小説は、もしも人がそういう(本質的にはほとんど無意味な)分類を強いて試みるならば、「事実」か「事実と作り事との混合」か「想像」かのいずれかに、かりそめながら分類せられ得るはずであろう。しかも、いずれにせよ、元来あらゆる小説(語の本義における「小説」)は、必ず常に「仮構」であらねばならぬのであり、さてそれとともに必ず常に「真実(現実的)」であらねばならぬのである。作家は、一方において、自己の作品全体を「仮構」と断言し得ることによって、まさしく作家の名に値し、他方において、自己の作品全体を「真実(現実的)」と主張し得ることによって、たしかに作家の名に値する。
 言い換えれば、「仮構」の小乾坤における新たな「現実(真実)」の造営作業こそが、作家の根本的当為なのである。

 大西は別の場所でこのことを「独立小宇宙」という言葉で表現している。ここでは主に小説について語られているが、小説を「書かれたもの」全般に敷衍しても同じことである。作品は仮構であると同時に真実である、そう言明できることが作家でありその仕事だという。仮構と真実が両立するという意識は、これも一見背反するようでも、体系が、仮定の選択において主観的であり、帰結の導出において客観的であるという性質を反映している。体系は根本で仮定が選択されざるを得ない点において全て仮構であり、一度選択された仮定に対して論理的に帰結が導かれる点において真実である。仮定の選択は、外部(あるいは包含するような体系)との関係において相対的に妥当性が議論され得るし、また帰結は論理的な無謬性において議論され得る。一般に「正しさ」と呼ばれるものには、この妥当性と無謬性の二つがあり一方を議論する場合は、もう一方は捨象される/括弧に入れることになる。


 書かれたもの一般に仮構と真実の両面が存在するが、小説(漫画・戯曲・映画等)は仮構であること、ノンフィクションは真実であることが自明と見なされ、もう一方の性質は等閑視されがちである。
 映画作品でしばしば「based on a true story」と表記されることの奇妙さはここに根差している。大西が真実と仮構の分類について「本質的にはほとんど無意味な」「かりそめながら」と断った通り、現実の出来事に基づいているかどうかの差異は本質的には無意味である。しかし「両面が存在するという読み方がされにくい」という実態を加味すると、その(本質的にはほとんど無意味な)注釈によって、読み手(観客)がノンフィクションに期待される「楽しみ」を得られるのと同時に、仮構としての強度に対する要求水準が下がる効果を期待できる。「仮構として見て面白くなくても現実の出来事だから」と一種のお手盛りのような効果がここで得られることになる。
 仮構であることを自明視するというのは、作られた世界という前提で作中世界を楽しむような読み方である。真実であることを自明視するというのは、現実に発生した出来事として考えたり思いを巡らせることである。妥当性を問うとは、仮構であることを改めて意識することであり、作品に対して例えば物理法則や現実の反例、ポリティカル・コレクトネスや作者の立ち位置・思考など、作品に外在する体系や価値観と照合して語るような営みである。無謬性を問うとは、真実であることを改めて疑うことであり、作品の内的な整合性を検証するような作業である。


 書かれたもの一般に、仮構であることと真実であることとの両面が原理的に備わっているという視点に立つと、それが創作であろうとノンフィクションであろうと、この両者の視点で作品を見ることになる。「ミモレ丈」も「助け合い」も真実であるという視点を一旦捨象して仮構として見る視点から、さしあたり素直に読む、あるいは書かれていないことを好意的に(作者の意図に沿って)読むという態度決定がなされることになる。そうではなくノンフィクションを真実であるとしてのみ見て、仮構であると見ない時、作者が作中人物の誰なのかや、書かれなかったことの解釈といった「問題」が絶対的なものとして浮上する。この意味で、「ノンフィクションの正しさへの一種の信仰」と呼んだのだった。
 一方でこの「素直に読む」態度決定がデマや虚偽を疑わずに信じて拡散するような振る舞いを導くことを意味しないというのは、両者の視点で見るという態度に支えられる。両面の意識を持つことは、とりもなおさず自身が今どちらの視点で見ているかを意識することであり、その言説をもとに何かを語る時もまた自身が何に立脚して語っているか、自己の言説の仮定に対しても意識的であるということである。


 創作とノンフィクションは「書かれたもの」という点では変わりなく、仮構と真実に二分されない。どちらか一方に属する(べきである)と曖昧に思い込んでしまうことが、読み手のみならず書き手にもある。読むことにまつわるある種の不自由さや不毛さから免れるには、創作であってもノンフィクションであっても、仮構と真実の両面で見て、両者を追求するような態度が必要になる。


 ところでこのような体系の捉え方は相対主義と呼ぶこともできる。相対主義を取る時、それが「絶対的な真理などない」を前提する点で絶対主義であり矛盾しているといった反駁が加えられることもあるが、それは絶対主義的な視点に立たない限り成立しない。相対主義的な視点からはその前提は絶対的な真理として据えているものではなく、単に選択しているだけでしかない。しかしこの反駁に対する反駁によっても、では「なぜ私はそれを選択するのか」という問いが残される。あるいは無謬性を支える論理そのものもまた体系として把握され、それが体系である以上は主観的なものである。その意味で客観性もまた「なぜ私はそれを選択するのか」という問いが残される。この問いは、相対主義/絶対主義、客観性/主観性といった対立軸で見る限りはどちらか一方に回収されるほかないようなものである。徹底して体系を適用する先に生じてくる限界点として「この私がどうしようもなくそれを選択する」という地点が見えてくる。批評家の柄谷行人が『探究II』で「単独性」と呼んだものは、こうした性質にまつわるものだと考える。
 ここでの、創作とノンフィクションで二分しない、仮構と真実の両側面で把握するという話は、単独性が現れてくるほどの地点までは踏み込んでいないという意味で、ある意味で素朴な(ラディカルでない)認識である。そうであっても、創作とノンフィクションを曖昧に弁別する視点からすればよりラディカルであり、テクストをより豊かに読み得るような認識ではあり得て有用だと考えている。