やしお

ふつうの会社員の日記です。

Go Toも目的と手段を分けて断絶に向かわないようにする

 Go To トラベルキャンペーン批判で、

  • 感染拡大防止にむしろ注力すべき
  • その予算を他(医療機関や生活困窮者)に回すべき
  • 富裕層や大企業への再分配になっている
  • 自民党(二階幹事長)の利権になっている

などはよく見かけるし「その通りだなあ」と思って「Go To死すべし」みたいな気持ちになってくる。


 一方で日本の観光業は、労働者全体の8%くらい、GDP全体の2%くらいというボリュームだという。「労働者の1割弱でダメージを受けます」と言われると「ヤバい」って感じする。


観光庁の2019年3月発行資料中に「観光はGDPの2%を占める」「従事者は648万人」の記述があり、日本の生産年齢人口(15歳~64歳)は7500万人なので8%程度。あと内閣府の産業別名目GDPの2018年データで「宿泊・飲食サービス業」が3%。ちなみにアジアだとタイがGDP比で観光業が1割を占めていて「観光に依存している(新型コロナで大打撃)」とニュースになったので、日本の2~3%は「依存度としては低いけど、無視できる影響じゃない」って感じなのだろうと思う。
  https://www.mlit.go.jp/common/001299888.pdf
  2018年度国民経済計算(2011年基準・2008SNA) - 内閣府


 じゃあ全部を公的資金でダイレクトに補助できるかというと、宿泊・交通以外の観光業をどこまでカバーするかとか、観光業だけ手厚く救われてズルいとか、財源をどうするのかとかいう話になってくる。じゃあ死ぬのに任せておくかというと、「全体の1割」に近い労働者を他分野で吸収できる余地がないし、一度死ぬと将来立て直しもすぐできないといった話になってくるのかもしれない。
 そうして公助と自助のどちらか極端を取るのが現実的に無理なら、その間のどこかでバランスを取ることになる。極端に言えば「2020年はなかったことにしましょう」と言って、観光に限らず最低限の活動以外を止めて生きられるだけのお金を政府が出してみんなで引きこもって暮らせれば一番いいのかもしれないけれど、産業資本主義はそれを許してくれるシステムじゃない、というつらさが根本的にあるという話かもしれない。そんな文脈で「公的資金で補助するので、余裕のある人は観光業に金を使ってね」とインセンティブを与えるのはそんなに変な話じゃなさそうだ。コロナの外出自粛で消費が減ったのが一因で個人の現金・預金額が過去最高の1031兆円、というニュースも見ると確かにそこを消費に回させたいと考えるのは割と自然なことだと思える。


 Go Toの否定と肯定がどちらも「そうだ」と思えてきてわけがわからなくなる。とぼんやり考えていたけれど、シンプルに「目的(方針)は分かる、でも手段(方策・仕組み)はおかしい」という話として見ればすっきり理解できるのかと思い直した。

  • キャンペーン開始・中止の判断やタイミングの意思決定が合理性を欠いている。
  • 高級宿泊施設や大手旅行代理店へ恩恵が偏っている。

と「合理性・合目的性の面で手段がおかしい」という話を「一部がダメなので全部を否定する」「手段の不備をもって目的を否定する」にまで拡大して混同すると変なことになる。


 あと「富裕層への再分配」という批判は、
「生活困窮者は遊興費を捻出する余裕がない。従ってキャンペーンの利用者にはなり得ない。利用者として恩恵を受けるのは富裕層なので、これは富裕層への再分配であり、逆進的である。」
というロジックだと理解しているけれど、これも0か1の話じゃなくてバランスなんだろうと思う。
 「金持ちはGo To関係なく一定の遊興費を観光業で消費している」という前提が成り立つ場合、観光業にとってはGo Toがあってもなくても関係なく、純粋に金持ち(利用者)だけが受益者になるため、「富裕層への再分配」が完全に成り立つ。ただ実際は全部がそうってことはあり得なくてやっぱり「キャンペーンがあったから旅行することにした」人もいるわけで、現実にデータとしてそれがどのくらいの割合かを見ないと「本当にそうか?」を言うのは難しい。「どうして我々が富裕層の遊興費を負担しないといけないんだ」という批判が(心情的には理解できるとしても)現実に妥当性があるかどうかは、結局そこを見ない限り分からない。
 つい最近「富裕層への再分配」の批判で盛り上がったブログ記事を見かけたのだけど、「利用者は普段から海外・国内旅行をしてる人の方が多そう」という個人のツイートだけが論拠のようで、それで「富裕層への再分配」と断罪するのはまだ早いのではという気にはなった。


 「富裕層への再分配だ」と言われると、一方で「利用者は自分でお金を払ってるのに、それは再分配と呼べるのか?」とか「お金に余裕のある人が厳しい業界にお金を払って、全部公的資金で賄うよりは財政負担が抑えられてるのなら、いいことじゃないのか?」といった素朴な疑問も湧き上がる。これもバランスの話で、利用者への還流になっている側面と、観光業従事者の救済になっている側面とは、両者が同時に存在している。どちらがどの程度強いかは結局、実際のデータを見てみないことには何とも言えないのだと思う。
 「富裕層への再分配」論が成り立つには「貧困層が損している」が成り立たないといけない。利用者の側面で言えば、貧困層(非利用者)はGo Toがあってもなくても旅行(消費)しないという話なので、直接的には損も得もしていない。一方で福祉なり貧困層への再分配として渡るべき財源がそちらに流れてしまうといった間接的な意味での「損」で言うと、これも「Go Toキャンペーンで経済的に苦しい労働者(観光業従事者)にお金が回っているのかどうか」をチェックしないことには何とも言えない。安価な民宿やビジネスホテルは恩恵をあまり受けていない、というのはある程度実績として出てきているようで、その意味では「そう」と言える余地があるかもしれない。ただそれも「大手旅行代理店や高級旅館の労働者は余裕がある」が本当に成り立つのか? などもクリアしないと結局はよくわからないところで、あまりに間接的なので、現時点で「Go Toは富裕層への再分配!」と断罪するのは勇み足で「そういう懸念があり得るのでは?」くらいのトーンがいいところなんじゃないかと思っている。


 「データ」と言っても数値データ以外を「データじゃない」と否定するのも間違いで、例えば周囲で見聞きした事実などもデータではあり得るし、当事者やその周囲の人が「ここが苦しい」と声を挙げるのも重要だけど、そうした(立法事実みたいな)ものがはっきりしない状態で語るなら、もっと明確にある仮定の上での話だというのを意識して語らないと、語っている本人自身もわけわからなくなってしまって、攻撃的な物言いや感情に振り回されてしまったりする。


 例えば非利用者(貧困層でなくても、感染拡大防止のためとか東京都民だからとか)からは利用者が「ズルい」と見えてしまって、そうした損得勘定も断罪したくなる気持ちに影響している可能性もあるんだろうか。どちらでも解釈可能な場合に、自分の立場によってどちらの解釈を取ろうとするかが左右されるのは自然と言えば自然なことだとも思う。
 あと「国内の近郊でちょっといい宿に泊まって旅行すること」ができる程度に金銭的な余裕のある人たちは旧来は「中間層」だったはずが、今は「富裕層」と呼んでさして誰も違和感を覚えないとしたら、「一億総中流」の時代からするとやっぱり(格差拡大というよりこの場合は)「衰退」の時代を自分たちは生きてるんだろうなと改めて感じて切ない気持ちにはなった。


 目的と手段を分離せずに「目的の正しさで手段も正当化する」という一種の詭弁は、どちらかというと権力者の側が利用してきた経緯があった。例えば2017年の共謀罪でも「テロ等準備罪」と名前を変えて、批判者に対して「テロ対策への反対者」とレッテルを張ったのは政権側やその擁護者だったりした。それに対して「目的はわかるが、手段がおかしい」という反対の仕方は「肯定と否定を同時に含む」という複雑さもあり、どうしてもパワーが弱かったりキャッチーじゃなかったりしてリーチしづらかったりする。それだからといって「手段の誤りをもって目的も否定する」というやり方をすると結局は「目的で全肯定派」と「手段で全否定派」の両者が「何もわかっていない愚かな連中だ」とお互いを罵り合うことになって断絶が深まっていく。
 これは当人が意図的に混同しているとも限らない。どこは肯定できてどこは否定すべきなのかを具体的に見るような作業を諦めて分かりやすさや単純さに流されてしまうと、どうしたって分断に向かってしまう。それを避けるためのファーストステップとして、目的と手段を分離して眺めてみるというのは、やっぱり有効なんじゃないかみたいなことを、Go Toトラベルキャンペーンに限った話じゃないけどたまたまその否定が盛り上がっているのを見かけて、ちょっと思ったのだった。

民主党政権を今さら振り返る

 安倍首相の辞任表明とは無関係に、そういえば民主党政権ってどうだったっけと思って今月本を読んでみたのだった。


 民主党が2012年末に下野した後、大学教授や弁護士らのプロジェクトメンバーが現役議員らにアンケートやヒアリングして、経済や外交など各分野ごとに民主党政権の来し方をまとめて2013年に出版されている。タイトルも「失敗の検証」だし、下野直後にまとめられていることもあって、どちらかというと成果より「どうして3年で崩壊してしまったのか」という内容になっている。

 

反面教師としての民主党政権

 改めて見てみると、民主党政権の面々って誠実というか正直な人が多かったんだなと思う。稚拙、無邪気、ピュア過ぎるとも言い得るのかもしれない。マニフェストに縛られ、ルールを守り、理想論を口走り、その結果として迷走・混乱した印象を国民に与えて支持率を低下させて崩壊する。(実際に迷走・混乱している。)政権末期は政権党らしく機能していくけれど、それは旧来の自民党スタイルへの回帰になっている。


 その後の自民党の第二次安倍政権はこの民主党政権をしっかり反面教師にして安定させたんだなとも思う。「外交の安倍」「アベノミクス」を発足当初からアピールしたのも、民主党政権が外交的に混乱して、経済成長も積極的に提示しなかったことで支持率を落としたのを踏まえている。外交と経済は、やってるアピールができてないと(実際の効果や成果とは関係なく)支持率を落としてしまう、というのを民主党政権が身をもって教えてくれた。
 正直にやろうとすれば叩かれるのだから、答えない、はぐらかす、嘘をつく、記録を取らない方がマシだってことも、民主党政権は教えてくれた。もともと加点方式じゃなく減点方式で見られてしまう以上、こうなるのも必然かもしれない。


 以前、菅首相東日本大震災で被災者に怒られて謝る場面のニュース映像を見たことを思い出した。避難所で被災者の話を聞き終えて菅首相が立ち去ろうとしたところ、まだ話をしていなかった町民から「もう帰るんですか?」と声をかけられて避難所の奥へ戻る。「私達だって総理が来るというから待っていたんですよ、無視するんですか」と詰られて「ごめんなさい」「すいません」「お話聞かせて下さい」と謝る映像がテレビのニュースで流された。
 これは菅首相が悪いというより段取りの問題だと思うけれど、責任者としては素朴な/普通の対応だろうと思う。ただもし同じ場面が安倍首相の身に起こったとして、戻って謝る姿をテレビに見せるところをイメージするのは少し難しい気もする。安倍首相は街頭演説でも警察も導入して批判的な聴衆を排除するくらい念入りだから、仮に避難所に行ったとしてもそういう「弱味」を見せないように「ちゃんと」しただろうなと思う。謝れば「悪いことをした」という印象になってしまうのなら、謝らない方がマシ、という方針は現に有効に機能してしまっている。
 安倍首相個人の性格の問題というより、首相周辺も含めて自民・民主政権を含めた第1次安倍政権~野田政権までの「印象の作られ方」の恐ろしさを身に染みて分かっているから、徹底して避けているのだろうと思う。


 官僚の掌握の仕方も、民主党政権(前半)では脱官僚・政治主導を掲げたものの、システムとして十分に構築できずに属人的になってしまった。上手く官僚と関係を構築して動かせたか、あるいは官僚を過度に排除して対立してしまったかが政務三役(特に大臣)の資質で左右されたし、官邸による官僚機構全体のコントロール事務次官会議を廃止した結果として十分に機能しなくなった。
 第2次以降の安倍政権の場合は、各省庁の主流派から外れた官僚を「官邸官僚」として登用し、従来の官僚機構とは別の層を形成することで全体をコントロールし安定化した。(その辺は↓で以前に整理している。)
  安倍政権での「第二官僚」のメンバー - やしお


 民主党政権の失敗を踏まえているとしても、合理的・意識的に全部コントロールしてそうしているわけではないんだろうとも思う。もともと安倍首相の個人の資質として、たぶん物事を(自分自身含めて)相対化する能力があまり高くなくて(高かったらこの振る舞いに耐えられない)、それで価値判断としては「自分を支えてくれる人を裏切らない、周りの人のために頑張る」になっている。為政者としての倫理より、私人としての道徳に価値判断が支えられている。
 官邸官僚などの周囲も自分を取り立ててくれた首相を支えようとする。そうした共依存のような関係によって、政権維持そのものが自己目的化していってるんじゃないかと想像している。黒幕がいて全部そいつのせい、と考えるより、個々人は誠実にやってるつもりだけど状況がその方向を決定させてしまう、と考えた方が現実に近いんだろうなと思っている。
 安倍政権がどちらかというと政権維持を自己目的化した結果として、立憲主義の原則(権力の分立・抑制・均衡)をないがしろにする「程度」で済んでいるけれど、この形で安定できるという実績を見てしまった以上、本気でシステムのハックを利用して何かを成し遂げようとする人が出てきたとしても、止めるのは難しくなるのかもしれない。


民主党の来歴(政権獲得まで)

 96年に誕生してから国民民主・立憲民主に分かれた(もうすぐ一部合併する)現在までの離合集散の流れは、前提知識として必要なので整理しておく。


 以前に別の記事で作った90年代の政党の離合集散の図もあるので、こちらも載せておく。

  公明党が自民党と連立を組んでいく経緯 - やしお
※この図は、野党だった公明党自民党と連立を組んでいく過程を整理する、という目的でその前提として必要だったので描いたものだけど、この時の公明党は、小沢一郎新進党に参加したり、その後自民党からめちゃくちゃ攻撃されたりしていた歴史もあって、その自民党(というか野中広務)の攻撃方法もすごくて面白い。


 ↓は選挙の結果一覧。数値は全議席数に対する選挙後のその党の議席数の率。一応第3党まで入れて、第2党と第3党の議席率の差も入れてみたのは、差が大きければ二大政党に近い状態での野党第1党だし、差が小さければ相対的に第2党なだけなのかが見えてくるかなと思って。


 自民党の一党支配(55年体制)が93年に終わるけれど、この時自民党から離脱して、経世会竹下派)から分離した小沢一郎羽田孜らが新生党を、派閥横断の若手・中堅議員を集めた武村正義鳩山由紀夫らが新党さきがけを結成する。自民党共産党を除いた8党連立で細川内閣が成立して、その後に新党さきがけ社会党が抜けて羽田内閣、その抜けたさきがけと社会党自民党と一緒になって自社さ連立の村山内閣、次の橋本内閣で社民とさきがけが抜けて自民単独政権になる、という流れになっている。


 村山内閣で自社さ連立政権だった時に、野党になっていた新生党公明党などが一緒になって新進党ができる(94年12月)。この後、橋本内閣でさきがけと社会党社民党)が連立を抜けて野党になる。最大野党である新進党に対して、勢力が小さく埋没する危機を感じた鳩山がさきがけ+社民の新党を模索して、さきがけのほぼ全員+社民の半分の議員が集まって民主党ができる(96年9月)。(ちなみにこの民主党の結党で25億円の費用がかかっていて、15億を鳩山家が、10億を連合(日本労働組合総連合会)が貸し出している。)
 その後の民主党政権での主要メンバーとしては

が結党時に参加している。あと社会党出身で93年に落選していた仙谷由人(法相・官房長官)も96年衆院選民主党議員として復活している。
 民主党ができた時点では、最大野党は新進党で、自民・新進に次ぐ第三勢力、という位置付けだった。


 小沢が代表になった新進党は、最大野党として政権交代を目指すが96年総選挙で負けて、羽田・細川の首相経験者が離党したり、自民党が引き抜き工作を仕掛けてきたりして弱体化する。小沢は自民党との大連立構想を模索するが、党内の反小沢グループが反発して97年12月に6党に分裂する。分裂したうち、小沢派は自由党に、元公明党の議員たちは公明党に、反小沢派は98年4月に民主党に合流する。この結果、民主党野党第一党になる。
 この時民主党に加わったのが

など。00年衆院選では、96年に落選していた野田佳彦(財相・首相)が民主党議員として復活し、その他に細野豪志環境相)や長妻昭厚労相)が初当選している。


 98年8月の参院選自民党が負けて(この責任を取って首相が橋本→小渕に変わる)ねじれ国会解消のために自民党自由党と自自連立政権を組む。その後に公明党も参加して自自公連立になると、自由党の影響力が低下したのを嫌った小沢が連立離脱を進めた結果、自由党内で離脱反対派が保守党をつくって分裂する(自公保連立政権)。(ちなみに現在、自民党幹事長の二階俊博や、東京都知事小池百合子はこの保守党のメンバーだった。)
 03年の小泉政権下で、政権に残った保守党は自民党に合流し、野党になった自由党民主党に合流する(民由合併)。この民由合併で小沢一郎藤井裕久(財相)が入る。


 ここまでが政権獲得前までの流れ。まとめると以下の3段階で野党がバラバラになってから10年かけて最大野党としてまとまっていく。

  • 第1段階:さきがけと社民で合流して民主党を結党(96年)
  • 第2段階:新進が分裂して反小沢グループが合流する(98年)
  • 第3段階:自由(小沢グループ)と合流する(03年)

 

民主党の来歴(与党時代)

 05年の小泉政権郵政選挙で大敗し、偽メール問題で前原代表辞任・永田議員辞職に追い込まれる。
 06年に小沢代表・菅代表代行鳩山幹事長の「トロイカ体制」。
 07年参院選で大勝してねじれ国会で自民党を追い込むが、09年5月に小沢は政治資金問題で代表辞任する。
 09年8月衆院選で大勝し鳩山政権発足、小沢は幹事長に返り咲く。


 普天間基地問題の迷走と鳩山・小沢の政治資金問題で支持率が低下し、10年6月に鳩山が首相辞任・小沢が幹事長辞任する。
 菅内閣が発足し、反小沢の仙谷を官房長官、枝野を幹事長に据える。(この2名は民由合併に強硬に反対していた。)発足当初は支持率が回復していたが、参院選前に菅首相が突然「消費税10%」を言い出して迷走、惨敗しねじれ国会になる。ねじれ国会で重要法案が通らなくなったり大臣の問責決議案が参院で可決されるなど国会運営が厳しくなる。党内では小沢派と反小沢派の対立が深まっていく。


 11年3月に東日本大震災福島第一原発事故が発生。自民党などが6月に菅首相の不信任案を提出する。民主党内の小沢グループが同調する動きを見せるが、鳩山が菅に「震災対応に目処がついたら辞任する」旨の言質を取り、菅首相本人も採決前の民主党代議士会でも明言したことで不信任案は否決される。9月に菅が辞任し、野田政権発足。
 国会運営が難航する。社会保障・税一体改革(消費増税)法案を通すために自民・公明と三党合意を取り付け可決させる(12年8月)が、その過程で野田首相は解散を約束させられ、小沢グループは離党し新党「国民の生活が第一」を結成する。9月には大阪維新の会を母体にした新党「日本維新の会」が結成され、民主3名、自民1名、みんな3名が離党して参加している。
 12年12月に解散総選挙で大敗し民主党政権が終わる。13年7月の参院選でも大敗する。


民主党の来歴(政権を手放した後)

 14年12月の総選挙では、代表だった海江田が落選(小選挙区で敗北し比例でも復活できなかった)し代表辞任する。
 15年11月に維新が党内対立で大阪系の国会議員が離脱し「おおさか維新の会」(その後「日本維新の会」に党名変更)を結成する。残った維新は16年3月に民主党に合流し、民進党に党名を変更する。
 17年10月の衆院選直前に前原代表が小池都知事希望の党に合流する方針を出し、両院議員総会で全会一致で採択されるが、小池が「希望の党で選別して安保・憲法感が異なる議員は入党させない」としたため、排除されたリベラル系議員は枝野を代表として立憲民主党を結党し、野党第1党になる。
 希望の党民進出身の玉木雄一郎が代表になり、希望の一部と民進が合併して18年4月に国民民主党が結成される。19年4月に小沢の自由党国民の生活が第一未来の党→生活の党→生活の党と山本太郎となかまたち自由党、と党名変更をしている)が国民民主党に合流。
 立憲は当初、旧民進勢力との再結集に否定的だったが、その後の選挙でも伸び悩んだことから方針転換し、19年秋から立憲・国民の合流協議が始まる。途中一旦棚上げにされた後、20年8月に国民が分派し一部が立憲に合流することで合意し、9月に立憲を母体とした合流新党が結成される予定。


 というところまでが、96年からの民主党14年間の歴史になっている。
 分かれたりまたくっついたりしてるけど、小選挙区比例代表制で選挙をやってる以上、党に逆風が吹いている時は離脱した方が得だし、でも野党がバラバラだと票が割れて選挙で勝てないのでまた集まった方が得なので、弱まるとバラける、時間が立つと一つにまとまる、のサイクルを繰り返すことになる。実際『民主党政権 失敗の検証』でも、民主党が惨敗して野党転落した12年衆院選で、民主党から離党した方が残留するより再選率が高かった、というデータが紹介されている。
 あと自民党に比べると民主党は地方組織が弱くて、それもバラバラになりやすさの一因だったりするのかもしれない。離党するかどうかという状況で、地方組織と自分自身が紐付いていたら、それなりに離党のハードルも上がってバラけにくさに繋がっているのではないか。


 外から見ていると、離合集散を繰り返して理念も政策もバラバラの選挙のための「烏合の衆」みたいな印象を与えるより、一旦党勢が衰えても二大政党をきちんと維持した方がかえって将来的な政権獲得のためには遠回りなようで近道なのでは? と思えたとしても、自分自身が落選するかどうかの立場にいる国会議員当人にとってはどうしようもない。部分最適全体最適が一致しない事例かもしれない。


矛盾するアイデンティティ

 もともと、民主党が政治改革を掲げて都市部・浮動層の支持を集めて、自民党が地方の既得権や利益団体を中心に支持を集める、という構図だった。これが小泉政権構造改革を打ち出したことで逆になる。(郵政選挙で浮動票を取り込んで大勝する。)与党が改革政党・新自由主義を打ち出してきた以上、野党はそれを格差拡大・地方疲弊と批判して社会保障充実に傾いていく。


 さらに03年(小泉政権時)の民由合併で小沢一郎自由党と一緒になる。小沢は小泉政権が都市部浮動票取り込みに向かったのを見て、自民党の支持基盤を切り崩して選挙で勝つ、という戦略を取っていく。小沢が代表就任した06年4月以降、農協や建設業界への利益誘導的な政策を提示して揺さぶりをかけて、民主党が苦手だった地方支持を増加させていく。民主党議員へもそれまでの風頼みではなく地方での徹底した支持基盤固め(川上戦略)をさせていく。
 参議院衆議院より「一票の格差」が大きく、有権者の数に対して地方で選出される議員の数が多くなっているので、有権者の少ない地方の一人区を狙い撃ちするのが選挙で勝つのに有効になっている。この特性を生かして参院選で勝ってねじれ国会にすれば重要法案を通せなくして与党の支持率を落とせる。07年参院選ではこうした戦略で民主党は勝っている。


 こうして民主党の内部で「業界団体ではなく生活者のための党」というアイデンティティと、その逆が同居することになってしまって、このことも党内対立や政権末期の党の分裂などの一因になっているという。


党内ガバナンスの脆弱性

 民主党政権では政府と党の関係を上手く構築できなかった。先に書いた通りアイデンティティが二分していたとか、民主党の従来のグループと小沢グループとの間での方針の違いがもともと内在されていたのだとしても、それが与党になってから決定的に悪化していく。
 09年衆院選で大勝して初当選した新人議員たちは小沢に世話になっていることもあって、多くが小沢グループに参加したことも党内ガバナンスに影響を与えている。


 鳩山首相小沢幹事長民主党政権がスタートする。
 民主党はもともと自民党政権に対して、派閥や族議員が政策を決めて政府の責任が曖昧だと批判してきた。それで「政府与党一元化」を掲げて、イギリスを参考に党幹部を入閣させる方針だったが、小沢幹事長の政治資金問題もあったためか幹事長の入閣が立ち消えになる。政府入りを反故にされた警戒感からか、小沢は党の政策調査会を廃止し、副総理・国家戦略担当相で党の政調会長も兼任する予定だった菅の党内の足場をなくしてしまう。結局、党幹部と政権幹部を兼任しているのが首相だけ、という構造は自民党と同じになってしまった。こうして与党と政府が分離してしまう。
 ちなみに自民党政権で年末恒例だった予算陳情は、民主党政権小沢幹事長が取り仕切るようになっている。政府が政策を決めるはずが、党から予算要求が来るようになって、さらに野田政権では自民党の予算編成に近くなっていく。


 鳩山・小沢が政治資金問題でそれぞれ首相と幹事長を辞任すると、次の菅政権は脱小沢を鮮明にする。反小沢の仙谷を官房長官に、枝野を幹事長に据える。さらに菅政権・野田政権で消費増税を進めていくと、(もともと消費税論者だったが)小沢は09年マニフェスト違反だとして猛反発し、小沢グループは政権末期に「国民の生活が第一」を結党して民主党を出て行ってしまう。


 それから脱官僚・政治主導で政府入りする議員を増やしたものの、政府入りせず党に残った議員の処遇が明確でなく、党内に不満をためる結果になってしまったことも分裂に寄与している。政府入りした議員がメディアへの出演を慎重に控える中で、党に残った議員たちがテレビで政府批判を繰り返して党内対立を晒してしまう。(旧来の自民党のやり方は、政府の責任が曖昧だという批判はあっても、党内に仕事を残すことで政府入りしないメンバーのモチベーションやインセンティブの管理ができていたのかもしれない。)


 民主党内にはもともと自由に議論ができる一方で決めたら従う人が少ない、という文化があったという。自民党では総務会で反対していた議員が決める時になると何故かいなくなるが、民主党では最後まで反対する人だけが残るという。そもそも合理的に解決できる話なら政治の場に持ち込まれる前に解決されているはずなのに、政治的な案件も議論で答えが出ると考える人が若手だけでなく幹部にも多かったという。
 みんながリーダーになろうとしてフォロワーが少ないとも指摘されている。閣僚でさえ首相のリーダーシップを発揮させるためにフォロワーになろうとする人が少なかった。(閣僚間の対立もメディアで報じられたりした。)辻元清美は「自社さ政権時の野中広務のように政権維持に徹する覚悟や政治技術を持った政治家が不在だった」と振り返っているし、野田も「ずっと政権にいて党内の空気感の把握が弱かった。政権より党のマネジメントの方が結局困難だった」と振り返っている。


 リーダーを支えたり決定に従う文化が希薄で、政府と与党の役割分担が不明瞭で、党内ガバナンスが十分機能していなかった。


参院での不安定

 鳩山政権が普天間基地問題で迷走して退陣に追い込まれていったけど、単純に鳩山首相の資質の問題だけというより、参議院での基盤が脆弱だったという背景がある。


 普天間基地の返還は、96年に橋本・クリントン会談で合意がされてから10年以上かけて辺野古移設案がまとめられていった。民主党は与党自民党を批判する立場から「見直しの方向で臨む」と09年マニフェストに書いていたものの、党内でも細野や長島らが「見直しは難しい」と考えていたため、マニフェストでは「方向」「臨む」と曖昧な文言に留めていた。しかし09年7月から鳩山首相が「最低でも県外」発言を繰り返してしまう。
 岡田外相・北澤防衛相が、外務省・防衛省で引き取るから首相は距離を取るよう進言するが、鳩山は県外移設の発言をやめない。検討を進めるものの、辺野古案以外に現実的な解が見出せない。09年11月の日米首脳会談でオバマ大統領から普天間問題を進展させるよう促されて鳩山首相は「トラストミー」と発言。それもあって、12月の時点では辺野古案回帰を表明して年内決着の段取りまでつけていたが、鳩山首相は撤回して翌年5月まで先送りの方針にする。
 その結果、米政権は日本政府に不信感を抱く(クリントン国務長官も駐米大使を呼び出したりした)し、今度は外務省・防衛省を外して平野官房長官が移設検討チームを率いる体制に変わって10年1月以降に様々な案や憶測が報道され、沖縄県内でも辺野古移設へ尽力していた個人や団体の影響力も削いで、県内の対立を深めてしまう。日米の交渉ラインも外務省・防衛省が外されたため、官邸・党・首相の私的アドバイザーまで入って混乱した。
 10年5月に鳩山首相は仲井眞沖縄県知事に県内移設断念を伝える。この時鳩山首相は記者団に「学べば学ぶにつけ(在沖米軍が)すべて連携し、抑止力が維持できるという思いに至った」と語っている。そして6月に退陣する。


 この経緯だけ見ると10年1~5月の混乱がなく、09年12月の時点で予定通り結論を出していればここまでのダメージにはならなかったのに、と思えてくる。ただ鳩山首相が12月ではなく5月に延ばしたのは、単に自分のメンツや思いのためというより、参院での議席数が関係している。
 県外断念が伝わると社民党が連立離脱を示唆した。社民が抜けると参院での過半数が維持できずに予算関連法案を通せなくなるため、5月までは社民党を引き留めておく必要があったし、県外移設の努力をし続ける必要があった、という事情があった。(そう考えると鳩山首相が急に「最低でも県外」を言い出したのも「本人が愚かな理想主義者だったから」で片付く話かどうかもよく分からなくなってくる。)
 参院での基盤が安定していないことが外交・安保の足も引っ張って、結果的には退陣にまで追い込まれている。


 その後の菅政権では10年参院選で惨敗してねじれ国会になってしまう。07年参院選で勝ってねじれ国会で自民党を苦しめていたのと反対に、今度は与党の立場で重要法案を通せなくなって国会対策が厳しくなる。最後は社会保障と税の一体改革(消費増税を含む)の成立と引き換えに、野田政権が退陣、解散総選挙民主党政権が終わる。
※10年参院選の敗北は、菅政権の成立直後は支持率が高くて油断したのか突然菅首相が「消費税10%」発言をして、その後のフォローも迷走して支持率を急落させたことが主因になっている。それから菅政権で脱小沢をしていたため、07年の選挙戦略が取られなかった(小沢は全選挙区の詳細なデータを秘書のカバンに常備して党内で共有しなかったと言われる)ことも要因の一つだという。


マニフェストの呪縛

 昔は単に「選挙公約」としか言ってなかったのが「マニフェスト」と言い出したのが03年から。後から検証できるように具体的な数値目標や工程表を入れることになっているのが政権与党になってからアダになってしまう。現実に合わせてマニフェストから外れると「嘘つき」と言われるし、かといってマニフェスト通りにやろうとすると実現できなくてやっぱり「嘘つき」と言われてしまうジレンマに陥っていた。
 もともと財源に無理がある内容になっていたのが悪いのと、一方でどれだけ精緻にやろうとしても災害や金融危機社会保障費増大など不確定要因もあるのでもともと「全部数値化する」ことに無理があったという。


 12年の民主党自身の振り返りでも、09年マニフェストのうち完全に実施できたのは全体の3分の1、という結果になっている。ガソリン税暫定税率廃止、高速道路無償化、子ども手当(一部実施)、八ツ場ダム中止などは目玉政策だったけれど失敗した。
 選挙のたびに党内議論を経ずに代表が目玉政策を追加していってしまうという悪癖があった。(小沢代表の子ども手当て増額や、菅代表の高速道路無料化など。)一度入れてしまうと、党内外でその政策の支持者ができてしまうので修正・撤回が難しくなってしまう。


 党内では岡田克也マニフェストの非現実的な財源を修正しようとしていたという。05年マニフェスト岡田代表)はまだ現実的だったが、09年マニフェスト(小沢代表)は「20兆円くらい財源が捻出できる」という内容になっていた。小沢が違法献金事件で代表辞任後、小沢支援の鳩山が代表選を制して岡田は僅差で敗れるが幹事長に就任する。岡田は10兆円程度への引き下げと、政策に優先順位を付ける修正案を出している。この岡田修正案で09年マニフェストは一定程度は修正できたものの小沢・鳩山の反対で押し切られてしまう。
 従来、自民党に比べて民主党の方が財政健全化に熱心だった。03年マニフェストで財政健全化を方針に掲げ、05年マニフェストで数値目標を出していた。それが小沢代表の07年マニフェストで数値目標が消え、09年マニフェストで方針からも消える。岡田は修正案で財政健全化を盛り込むよう主張したがこれも通らなかったという。ここには、「民主党は対案・財源を示さない」というのが自民党のお約束の攻撃だったこともあって、民主党マニフェストで財源を示さざるを得なくなっていった経緯もある。


 この流れだけを見ると「岡田は現実的な財源に拘り、小沢は無頓着だった」という構図のようにも見えるが、そんなに単純でもなくて、鳩山政権下で小沢は党幹事長として、政府が財源確保に苦しむ中で、ガソリン税暫定税率廃止を諦めて、党内とトラック協会に折り合いを付けるなどして財源確保のために調整もしている。政策は優先順位をつけてやれば良い、といった発言もしていたという。


 消費増税は、まず09年12月に仙谷行政刷新相が口火を切り、さらに10年2月のG7で日本財政への危機感を聞かされた菅財務相が積極的に推し進めるようになる。10年参院選マニフェストでも明記され、この時は小沢も幹事長として(消極的ながら)同意している。しかし10年6月に鳩山が辞任し菅首相が消費増税を前面に押し出した内容へマニフェストを書き換えたことで小沢グループの反発が深まる。
 また菅内閣の閣僚の間でも09年マニフェストを「小沢が作ったものだから」と政策の実現に積極的でなかったこともあり、小沢グループは「09年マニフェストを順守しろ」と主張して党内対立が深まって分裂することになる。


 マニフェストでガチガチに固めると自分の首を締めてしまう結果になってしまった。守るも地獄、守らぬも地獄、みたいな感じ。


政治主導

 民主党政権脱官僚・政治主導を掲げたけどきちんと官僚機構を使えずに上手く行かなかった、という印象だったけれど、きちんと振り返ってみると、局所的には成功していたり、後半では官僚依存に戻ったりしていた。


 90年代後半の橋本行革で通産官僚として関わっていた松井孝治参院議員が、民主党脱官僚政策に大きく寄与していた(というか党が松井個人に依存していた)という。01年頃から検討が始まって、03年マニフェストでは脱官僚が前面に掲げられている。
 ただ実際に政権を獲得してみると、仕組みではなく人に依存したものになってしまった。上手くいった例としては、前原国交相が政務三役それぞれに担当局を割り振り、省内に若手官僚を中心にした政策立案チームを立てて、事業費カットに対する省の抵抗を上手く押さえ込むことに成功したりした。一方で上手くいかなかった例として原口総務相は、自民党時代の割り振りを踏襲した結果、副大臣政務官の担当局に重複が出て無駄な労力が割かれたり責任の所在が曖昧になったという。副大臣は「複数の局からの報告を受けるだけで1日が過ぎてしまった」と述懐し、上手く政治主導が発揮できなかった。また長妻厚労相は官僚を信用しない姿勢を示して官僚と衝突、官僚サイドからの不信感を招いた。成功例を共有すれば良さそうだが、「うちはいいよ」と受け入れられなかったり、忙しすぎて他省に気を回す余裕がなかったりして水平展開はされず、属人的なままになってしまったという。


 また脱官僚の象徴として事務次官会議を廃止した。従来は次官会議に向けて各省が膨大な労力を割いて事前調整を重ねていく中で、それを官邸(事務担当の官房副長官)がウォッチして要所要所で介入することで、官邸は情報収集をして官僚を束ねていた。しかし次官会議が廃止されたことで官邸の情報収集能力が阻害され、むしろ政治主導から遠ざかってしまったという。


 国家戦略局内閣人事局の設置も政治主導を実現するために法案が提出されていたが、他の有権者にアピールしやすい政策を優先して後回しにされた結果、結局は廃案になった。
 国家戦略局は法制化の前に国家戦略室として大臣も置いたものの、省庁間調整機能としては内閣官房が既に担っていて、その役割分担が上手く進まなかった。第2次安倍政権になって経済財政諮問会議が復活し、国家戦略室は廃止されている。
 内閣人事局は第2次安倍政権で成立して、官邸が官僚の人事権を握って「機能」している。民主党政権では政治主導の官僚人事をしようにも、官僚の人材を十分に把握していなかったので結局は官僚に丸投げになっていたという。


 事業仕分けも官僚依存からの脱却+財源確保の手段としてアピールされ、09年11月時点では世論調査で9割の支持を得ていた。しかしその後、削減額が減って財源確保の限界が指摘されるようになり、さらに10年10月の仕分けは民主党政権での予算案が対象になったため「そもそも政治主導が上手くいっていないから、自分で立てた予算に無駄が出ているのでは」という批判を招くことになり、国民の評価が下がっていった。
 事業仕分けという仕組み自体は、もともと地方自治体で発展したもので、財源確保というより透明性の向上や市民参加を目的としている。しかし民主党政権では財源確保が目的となってしまったので「成果が上がっていない」という見方をされて批判材料になってしまった。
※予算案へのこの批判に対して、11年から各省庁が自分で概算要求前に事業仕分けをして結果を公開する「行政事業レビュー」がスタートし現在まで続いていて一つの民主党政権の成果になっている。東日本大震災で全然関係ない事業に復興予算が使われていることが分かって問題になったことがあるが、それも行政事業レビューの記録が公開されていたことが発端になっていて、透明性向上に寄与している。


 菅政権で官僚との関係修復が打ち出され、野田政権では次官会議も復活し、政務三役で何かを決定することもなくなっていったという。政治主導を引っ込めて以前の自民党スタイルに戻っている。参院選敗北によるねじれ国会対応で、官僚と対峙するのに力が割けない状態だった。


対中関係の悪化

 民主党政権下で、10年9月に尖閣沖の漁船衝突事件が起こり、12年9月には尖閣諸島国有化で対中関係がかなり悪化している。


 尖閣沖で中国漁船が海上保安庁の巡視船に体当たりしたことで、船長を逮捕し船員を拘束する。この時、前原国交相も岡田外相も逮捕相当と判断して官邸に伝えている。逮捕はしたものの事後処理のマニュアルがなく、中国は対抗措置として日本人のゼネコン社員を勾留、日本向けレアアースの輸出差し止めをする。中国の対抗措置の3日後に、那覇地方検察庁が船長を処分保留のまま釈放し、国外退去処分で幕引きが図られた。その後、海上保安庁職員(sengoku38)が衝突の映像をYouTubeに公開してさらに騒動が広がる。
 この時、民主党政権に中国側との間に有力なパイプがなかったという。唯一パイプを有していそうだった小沢は政治資金問題で鳩山と一緒に幹事長を退いて党・政府と距離を置いていた時期で機能しなかった。


 この尖閣沖での漁船衝突事件を機に、地権者が島の売却を示唆し、12年4月に石原都知事が「都が尖閣諸島を購入する」と宣言する。石原は「港湾施設などを建設して実効支配を強める」と発言していたため、「都が購入するより国有化した方が現状維持に近い」というストーリーで日本政府は進めたが中国側は猛反発する。しかし野田首相は9月に購入・国有化する。その結果、中国メディアで連日報道され、中国各地で反日デモや日本人への暴行、日系企業の工場やスーパーの破壊・略奪などが発生し、中国の監視船が尖閣付近の活動を活発化させる。アメリカの国務次官補(東アジア・太平洋担当)だったキャンベルは、「日本は中国側の理解を得たと思っていたが、日本が思うほどそれは成功していなかった」と述懐している。日中間でのミスコミュニケーションによって日本が国有化を先送りするという誤解を中国側に持たせた可能性も指摘されているという。


 融和的な路線に見える民主党政権下で対中関係が極めて悪化し、対中強硬・タカ派のイメージを見せていた安倍政権でむしろ対中関係が安定している。必ずしも民主党政権自民党政権の問題ではなくて、中国側の戦略のフェーズが変わっていることにも起因しているのかもしれないけれど、民主党政権が十分なコミュニケーションラインを中国との間に持っていなくて、一連の尖閣問題などでもダメージコントロールが上手くいっていなかったようだ、というのが『民主党政権 失敗の検証』での見立てになっている。


経済成長政策の弱さ

 民主党内では経済成長に対する姿勢が弱かったという。
 「生活基盤を安定させて社会保障を充実すれば雇用が創出されて経済成長につながる」というストーリーを打ち出していたし、菅財務相は「社会保障が最大の成長分野」と発言もしていた。野田政権で経産相を打診された枝野が「人口減少社会での経済成長は難しい」と語って一度断ってもいるように、そもそも経済成長に対して懐疑的な議員がそれなりにいたという。海江田も「社会保障整備をうたって支持率が高まったので、経済成長の話が後回しになってしまっていた」と語っている。


 金融と財政の協調という点でも民主党政権は弱かったとされる。自民党の福田政権時に日銀総裁候補を「財務省OBであり財政と金融の分離原則に反する」と野党民主党が拒否した結果、白川副総裁が昇格して総裁になっていた。「政府と日銀で協力して脱デフレ」は掲げてはいたものの、そういう経緯なので日銀・白川総裁にあまり介入せず、財政と金融の独立性を尊重しようとした。


 第二次安倍政権が「アベノミクス」を掲げて、次の黒田日銀総裁と「異次元の金融緩和政策」を進めたことと対照的になっている。


民主党政権の成果

 一方で成果が何もなかったということもあり得なくて、『民主党政権 失敗の検証』でもいくつか挙げられている。
 社会保障などの分野では以下のような成果が挙げられている。

 

 それから外交・安全保障分野では、鳩山政権で混乱したものの、菅・野田政権では安定していったとして、

  • 10年12月の防衛大綱の見直し
  • 11年12月の武器輸出三原則の緩和
  • 12年のASEAN海洋フォーラム拡大会合(EAMF)開催

などがアジア太平洋地域の安全保障体制への積極的な成果として挙げられている。


小沢一郎

 こうして振り返ってみると、小沢一郎の名前が至るところで出てくる。
 小沢は、55年体制下の自民党で田中→竹下派経世会七奉行に数えられ、その後に自民を出て非自民政権の成立にも大きな影響力を発揮し、今度は自由党の党首として自民党と連立を組み、さらに民主党に合流して選挙を勝たせて政権交代に寄与した。
 民主党政権の後も、15年の維新の分裂でも生活の党の代表だった小沢は、野党再編に積極的な維新議員を代表に当選させるようと維新や生活の小沢グループの議員に働きかけたりして、橋下が党を割るきっかけを作ったという。現在の国民と立憲の合流でも積極的に立ち回っている。
 27歳で初当選して78歳の現在まで、50年間ずっと政局のキーパーソンであり続けるってどういう感じなんだろう、みたいな気持ちになる。


 そうして自民、新生、自由、民主で政権与党を経験して、そのいずれもずっとキーパーソンだったのに、一度も首相にはなっていないし、大臣経験も中曽根内閣での自治大臣(85-86年)の一度きりというキャリアになっている。与党の党内から政府に影響力を発揮し、野党でも再編などで影響力を発揮しているけれど、政府の中にダイレクトに入って仕事をした経験自体は長くない。そうした自分の来し方を小沢一郎本人はどんな風に思ってるんだろう、みたいな気持ちになる。
 93年に『日本改造計画』という本を出しているけれど、そこでの主張を基本的にはずっと保持しているのかもしれない。日本に政権交代可能な二大政党制を作りたい、だから野党再編を主導する。でも目指す政策が実現できないなら意味がない、だから党を割っていく。選挙が全ての政局屋だと思われがちだけど、そんな割とピュアな原理でずっと来ているのかもしれないと勝手に想像している。






 長いこと野党第一党のポジションにいた後で政権与党になるのはやっぱり難しい。かつての社会党も政権入りして党のイデオロギーを変えざるを得なくなってその結果支持を失い、野党第一党だったのに今では社民党はもう衆参あわせて4人しか議員がいない。民主党も「対自民党」という野党の姿勢を引きずったまま政権与党になると、そのしがらみが至るところで足を引っ張っている。
 93-94年の8党→7党連立政権、09-12年の民主党政権と、たまに非自民党政権が生まれて、でも安定せずに終わってまた自民党政権が長く続く、そういうサイクルを15年おきくらいで繰り返していくんだろうか。改めて民主党政権がどうだったかを振り返ってみると「野党が長く続いた政党による政権では地に足のついた政権運営ができない」という「実績」になってしまっていて、しかも「一度失敗したがそこから学んで現実的な政権運営ができます」と復活せずに、構造的に離合集散を繰り返して弱体化してしまって、政権交代可能な安定的な二大政党制にはたどり着けなくなっている。
 小選挙区制では党内派閥の力は弱まるので党内での圧力が働かない以上、政権党に対する規律は政権交代の可能性(恐れ)によってしか生まれないわけだけど、民主党政権が崩壊した後にその規律が働かない過程を見せられてしまったのは、国民にとっては不幸だったんだろうなとは思っている。


 「悪夢の民主党政権」という言われ方もされる一方で、自民党(安倍)政権に対して民主党政権を評価し直そうみたいな言説も見かける。ただ自分ももう8年前がどうだったか、印象は残っていても記憶としては曖昧になっていたので、具体的にどうだったのか一旦振り返ってみた方が、地に足もついてちょっとは建設的かなとも思って。

タイの王政と軍政

 最近タイのBLドラマが流行っていて、少し見たりするうちにタイに興味が湧いてきた。「タイの普通の生活」の(詳細かつコンパクトな)本を探したものの手ごろなものが無かったので、歴史と現在の政治状況を書いた新書を2冊読んだら面白かったので忘れないように自分なりに整理しておこうと思った。
 仏教の国で王室への尊敬がすごくて時々クーデターが起こる、という漠然としたイメージしかなかった。つい最近、ハム太郎の替え歌で反政府デモが起こっているとかでも話題になったりした。流れを確認するとどうしてクーデターが起こるのか、どうして今反政府デモが起きているのか、といった文脈が見えてくる。


 柿崎一郎『物語 タイの歴史』(2007年)はタイの通史を概観するもので、王朝以前の時代から2006年のクーデターでタクシン政権が崩壊するところまでを描いている。岩佐淳士『王室と不敬罪』(2018年)はタクシン政権崩壊に至る過程と、その後のタクシン派と反タクシン派の対立、王室との関係を解説している。

 本記事は基本的にはこの2冊を参照しつつ、その他ネットの記事等も参照している。日本でいう幕末~現在までの流れと、現在の状況の前提になっている王室・軍政・都市-地方間格差などの状況を整理している。

 

地理

 日本と比べるとタイは、国土が1.4倍、人口が半分、GDPは10分の1の国になる。
 普段メルカトル図法で見ていると高緯度にある日本列島は大きく見えるけど、実はタイの方がでかい。実際の面積を比べられるサイト「The true size of ...」で日本の真隣にタイを持ってくるとよくわかる。

https://thetruesize.com/


 ASEAN加盟10か国の位置関係↓

白地図はここのものを使用→http://www.craftmap.box-i.net/


 インドシナ半島の中では、ミャンマー、タイ、ベトナムが3大国となる。
 東南アジアで面積の大きい順に

  1. インドネシア:200万km2
  2. ミャンマー:70万km2
  3. タイ:50万km2
  4. ベトナム:30万km2


 人口は

  1. インドネシア:2.6億人
  2. フィリピン:1.1億人
  3. ベトナム:0.9億人
  4. タイ:0.7億人
  5. ミャンマー:0.5億人


 GDPはASEAN10か国中(カッコ内は世界順位)、タイが2位(26位)、ベトナムが6位(47位)、ミャンマーが7位(72位)。世界全体では1~3位がアメリカ21兆USドル、中国13兆ドル、日本5兆ドルで、タイは5千億ドル。


国王の位置付けの変遷

 日本の天皇もそうだけど、タイの国王も自らが政治的な実権を握っていた(親政)のが、実権を奪われて権威として機能するように変わっている。君主制から立憲君主制へ変わって実権が奪われてから、戦後になって権威として改めて確立された、という経過がある。絶対君主制立憲君主制→戦後(権威確立)、という3段階でここでは整理してみる。


 ただ日本とタイでかなり違うのが、天皇/国王が権威化した現在も法体系から超越的な存在として振る舞う余地が残されているかどうかという点がある。日本は憲法国民主権・象徴天皇が規定され天皇が政治的権力を行使する余地が排除される。一方タイの憲法では(過去に20回ほど再制定されているがずっと)国王は「何人も問い詰めたり告訴することはできない」と法体系から超越的な存在であることや、国軍の総帥と仏教界の頂点の地位にあることが規定されている。ここにクーデターが生じる余地がある。
 大日本帝国憲法も同様の立て付けで、天皇が軍部に対して統帥件を持つ一方、首相・内閣の地位が明示的に規定されていなかった。明治~大正期は、明治維新の功労者が(元勲)政治と軍の両面を直接掌握していたのでそれで問題なかったが、元勲が一通り死んだ昭和期に入ると、政治による介入を軍が「統帥権」を楯に取って拒絶したりクーデター(未遂)が発生する余地を生んだ。タイ憲法は日本の旧憲法を参照して作られており、現在も国王制と立法府の位置付けはそのまま引き継いでいるという。
 旧憲法下の日本で戦前に起きていた事象をタイで見ている、と考えると分かりやすいのかもしれない。


王朝

 「タイ族の王による支配」が確立されたのがスコタイ王朝からで、日本だと鎌倉時代にあたる。


 国家といっても、国境線が明確にあるわけでも国王の直接統治でもなく、中央の国王と周辺の領主が保護/被保護の関係を結んで間接的に統治するような形態だった。国境線がはっきりして、現在私たちがイメージするような近代国家になっていくのは、産業革命を経た欧米列強がアジアに市場を求めて植民地化しようと迫ってくるのに対抗する(政治的な独立を維持しようとする)過程で起きている。こうした近代国家化はタイだけでなく日本も幕末~明治にかけて同様に起こっている。


 チャクリー王朝の近代国家化移行の国王を、日本の時代区分と当てはめるとおよそ以下のようになる。

  • 【明治】チュラロンコン(ラーマ5世):近代国家への転換
  • 【大正】ワチラウット(ラーマ6世):ナショナリズム高揚
  • 【昭和(戦前)】プラチャーティポック(ラーマ7世):立憲君主制への移行
  • 【昭和(戦中)】アナンタマヒドン(ラーマ8世):国王の政治無関与
  • 【昭和(戦後)~平成】プミポン(ラーマ9世):政治的中立+国王の権威確立
  • 【令和】ワチラロンコン(ラーマ10世):軍政との融合?

 

絶対君主制:英仏の植民地化への抵抗

 インドシナ半島エリアでは、タイ・ビルマミャンマー)・ベトナムが三つ巴の大国で、ラオスカンボジアの中規模国家がタイとベトナム双方に従っていた、というのが基本的な構図になっている。


 現在のチャクリー王朝の初代国王(ラーマ1世)の治世は、日本だと江戸時代の徳川家治(10代)くらいの時期で、このあたりからヨーロッパ諸国がアジアの植民地化を本格化させていく。イギリスの東インド会社マラッカ海峡沿岸で拠点港として(現在マレーシアの)ペナン島を手に入れ、その後シンガポールを建設する。そこからイギリスは徐々にマレー半島に進出してきて、タイとの間に利害関係が発生するようになる。ただしこの時点ではヨーロッパ諸国の態度も強硬ではなく、ラーマ2世・3世の時代の19世紀前半までは、旧来の体制で政治的にも安定し文化芸術が発展した。


 1824年の第1次英緬戦争でビルマがイギリスに負け領土を割譲、さらに1852年の第2次戦争で下ビルマをイギリスに併合される。長年のライバルがやられるのを目の当たりにし、タイは西欧諸国の脅威を認識する。第1次英緬戦争直後にタイはイギリスとバーネイ条約を結び、さらに第2次英緬戦争後の1855年にバウリング条約(不平等な修好通商条約)を結んでいる。(なお日本もほぼ同時期の1858年にアメリカと不平等な修好通商条約を結んでいる。)従来の王室独占貿易から自由貿易にシフトし、王室の既得権益が崩されていった。このあたりがモンクット王(ラーマ4世)の時代で、イギリスのヴィクトリア女王やフランスのナポレオン3世に親書を送付したり、中国への朝貢を停止するなど、タイが独立した対等な国家であることをアピールしたが、ビルマの例を見てもイギリスの圧力に抵抗し切るのは難しい状況にあった。領土支配は免れたものの、経済的にはイギリスに従属した。


 ちなみにタイが米の輸出国になっていくのは、この西欧諸国が東南アジアを植民地化していく動きとリンクしている。周辺諸国が支配国によって商品作物の栽培を強制されるようになると、自分たちが食べるための米を作れなくなるので外部に頼む必要が出てくる。その結果、植民地にならなかったタイが東南アジアの「米蔵」として機能していくことになる。


 こうしてイギリスが西から来たが、今度は東からフランスが迫ってくる。アヘン戦争後に中国と条約を結んだフランスが、貿易の中継地点としてベトナムに目をつけコーチシナ(ベトナム南部)を獲得する。コーチシナにはメコン川の河口があり、メコン川経由の中国ルートを考えると上流にカンボジアがあったのでフランスはカンボジアを植民地化する。タイは(ベトナムと共に)有していたカンボジアに対する宗主権を失う。
 ところがメコン川を遡上して中国にたどり着く貿易ルートは現実的でなかった(途中に滝がある)ことが分かったので、フランスは改めてベトナムの獲得を目指す。1884年ベトナム全土が仏領になる。フランスはさらにメコン川の左岸を「ベトナム保護領だ」と主張してタイと衝突、タイ側も近代的な地図を作成してタイ-ベトナムの国境線を確認したり、イギリスの仲介を期待したりしたものの、フランスがメコン川に軍艦を派遣するに及んで、1893年にフランス側の主張を全面的に受け入れメコン川左岸を失う。
 フランスはさらにタイ全土も植民地化しようとするがイギリスがそれを許さず、1896年にチャオプラヤ川流域を緩衝地域とする英仏宣言を発表したことで、タイは独立を確保した。


 ちなみにフランスはタイの植民地化を目指す過程で、不平等条約治外法権を利用した。本来は自国民だけが対象のところを中国人やタイ人まで治外法権の保護対象に認定することで、「違法行為を取り締まれない」状況を作って治安を悪化させ、「タイに統治能力がない」とアピールしたという。「治外法権」ってそういう使い方(悪用方法というか)があるんだなと思ってちょっと面白い。


絶対君主制:近代国家化

 西のビルマミャンマー)がイギリスに、東のベトナムがフランスに植民地化され、あいだに挟まれて緩衝国家としてタイは独立を維持した。ただしタイは純粋に緩衝地域のチャオプラヤ川流域だけでなく、広い範囲を国土として維持することに成功していて、それは英仏両国が迫ってくる中でタイが自国の近代化を推し進めたことも要因になっている。


 チュラロンコン王ラーマ5世)の時にタイの近代化が主に進められている。(治世がおよそ日本の明治時代と同じ。)15歳で即位したチュラロンコン王は、成人してから政治改革により国王への権力集中を進めていく。その混乱で他国の介入を招きかねない状況が生じたため方針を転換、摂政や副王などの旧勢力が死ぬまで待つことにした。(そういえば享保の改革で知られる徳川吉宗は、紀州徳川家から将軍に就任してから、自身を将軍に推してくれた老中たちが全員死ぬまで経済改革を進めなかったので、「死ぬまで待つ」は改革者の一種のセオリーなのかもしれない。)1880年代に入って旧勢力が死んだところで、本格的な近代化(チャックリー改革)がスタートする。

  • 省庁再編による中央集権的な統治形態への転換
  • 旧来の領主による地方分権的な統治形態から中央集権型への再編
  • 官僚養成のための学校・教育制度の整備
  • 近代法の制定
  • 鉄道の導入による物流の改善・領域の統合
  • 不平等条約の改正(領土の割譲と引き換えに、治外法権の廃止や鉄道敷設資金の獲得を進めた)


 この近代国家化の過程では「お雇い外国人」が使われていて、日本人も近代法の制定で雇われていたという。不平等条約の改正交渉もアメリカ人が担当している。
 やっていること自体は日本とほぼ同じだけど、主導しているのが、タイは国王でも日本は天皇じゃないという違いがある。


 次のワチラウット王(ラーマ6世)(在位が日本の大正期とほぼ一致)は政治的な評価は高くないが、筆名を使ってメディア操作をしたり国内のナショナリズムを発揚させようとした。


 第一次世界大戦ではギリギリまで情勢を見極めてアメリカが参戦するのを見てから参戦し、大きな負担を払わずに「戦勝国」入りを果たす。(ちなみにこの時に国旗を現在の三色旗に変更している。)戦後、戦争への反省から世界的に平和主義が広がったことと、タイが連合国の一員になったことを足がかりに、米英仏との不平等条約撤廃を果たす。だいたい昭和初期くらいの時期で、日本の場合も同時期に不平等条約を解消している。


立憲君主制

 ワチラウット王末期は浪費による国家財政の悪化を理由に王政への批判が高まり、中産階級民主化を求めていた。その中でプラチャーティポック王(ラーマ7世)が即位する(在位は1925年 大正14年~1935年 昭和10年の10年間)。国王は民主化に理解を示したが緩やかな移行を考えていた。
 もともとお雇い外国人の力で近代国家化を進めていたが、第一次大戦後あたりからタイ人への置き換えが進んでいく。人材育成のため官費による海外留学生を増やしていたが、彼らが海外と比べて古い自国の制度に不満を抱き、「人民党」を設立してクーデターによる民主化・立憲革命を目指していく。
 1929年の世界恐慌でタイ経済と国家財政も悪化し、人民党の立憲革命が正当化されていく。1932年にクデーターが勃発、最初の憲法が制定され絶対君主制が終わる。ただし人民党は混乱を避けるため、国王・王室は存続させ立憲君主制となった。


 人民党政権は立憲革命の1年後に、内部対立により再びクーデターを起こして首相が交代する。この新内閣に対して親王の一人が部隊を率いて国王の権限回復、政党の合法化、軍人の政治関与禁止を求めて反乱を起こすが政府軍により鎮圧される。この親王の反乱に期待感を抱いていたプラチャーティポック王は、欧州に移動し帰国しないまま退位する。国会は前国王の甥であるアナンタマヒドン(ラーマ8世:在位1935~46年)を次期国王に指名するが、当時9歳でスイスに留学中であり、そのままスイスに留まり続けた。(国王は第二次世界大戦終結後に帰国する。)
 立憲革命~終戦までの10年強は国王が国内に不在の状況が続いて、政治的にも王室の影響が希薄な時代になっている。


第二次世界大戦

 第二次世界大戦の時期には、タイでナショナリズムが高まる(大タイ主義)。日本やドイツなどで全体主義が台頭したこととパラレルになっている。

  • シャムからタイへの国名変更:「タイ人の国である」ことが強調された。
  • タイ語の国語化:タイ国内では以前から中国人による経済活動が活発だったが、タイ人への同化を進めた。
  • 失地回復:英仏の周辺諸国植民地化の過程で奪われた土地を取り戻そうとした(もともとタイの領域でない土地も獲得しようとした)。


 戦争で英仏が弱体化するとタイは失地回復を目指す。フランスと戦闘になりタイが負けそうになると日本が仲介役として登場し、東京条約によりタイはメコン右岸全域とカンボジアの一部を「取り返す」ことに成功する(1941年5月)。
※ちなみにバンコク市内の大きなロータリーに戦勝記念塔が建っていて駅名にもなっている。これが「何の戦争の勝利記念なんだ?」というと、このフランスとの戦闘によるもの。実際には仏軍の方が優勢だったが、結果として植民地主義時代に「奪われた」土地を回復したので「勝利」という認識になっている。


 第二次大戦でのタイは、第一次大戦と同様ギリギリまで中立の態度を保とうとした。しかし日本がフランス領インドシナ(現在のベトナムラオスカンボジア)南部に進駐し(1941年7月)、さらにタイへも進軍してきたため、これ以上抵抗すると植民地化されるという恐れから日本と軍事同盟を結ばざるを得なくなった(1941年12月)。さらに連合国側のバンコク空爆を非難する形で宣戦布告を行う(1942年1月)。
 宣戦布告には国王の署名が必要だが、アナンタマヒドン王(16歳)はスイスにいて不在なので、摂政3人の署名を必要としたが、うち1人が地方視察を名目に不在で2名の署名で宣戦布告を行っている。これが戦後になって「宣戦布告は無効だった」と主張する伏線になっている。


 戦後の体外的な説明でも、現在の公的なタイの国史でも「戦争は日本によって強制され、日本に占領された」とされている。しかし参戦初期の時点では積極的に加担していた面も存在した。当時の首相ピブンは、参戦した以上は日本軍と協調して領土拡大・大タイ主義推進を目指す、という考えだった。英米への宣戦布告前には日独伊三国同盟への加盟を要求したが、ドイツとタイの関係強化を嫌った日本に拒否されている。日本軍の英領ビルマ進軍に同行し領土拡張を目指した。日本側はビルマでの軍事行動に反対したがタイ側が再三要求し、日本が譲歩し承認すると、タイはビルマ東部地域を占領する(そこは元々ビルマの地域でありタイにとって失地ではない)。


 ただ、日本軍のタイへの食料・物資・物流の要求がエスカレートする一方で、タイが日本から得られるメリットが少なかったため不信感が増大していく。
 1942年12月に起こった「バーンポーン事件」では日本軍に対する大きな反感を招いた。帝国陸軍がタイ(バンコク)とビルマヤンゴン)を結ぶ泰緬鉄道を建設するが、5年かかると言われた工事を1年4か月で完了させた。連合国軍の捕虜や、アジア人(タイ・ミャンマー・マレーシア・インドネシア人)の強制連行も労働力として投入し、労働者の半数を栄養失調・感染症で死亡させたため、英語圏では「死の鉄道」の名で知られる。(1957年公開の「戦場にかける橋」はこの映画化で、アカデミー賞作品賞を受賞している。)
 バンコクの建設地において、タイ人僧侶が連合国の白人捕虜にタバコを恵んだところ、日本兵がそれを咎めて僧侶を殴打する。それを機に衝突が勃発し(というか日本軍側がタイ人労働者側に発砲するなど最初に仕掛けている)、日本兵2名とタイ人7~8名が死亡した。敬虔な仏教国で僧侶が日本軍に暴行され、タイ国内でも日本軍への非難が高まり、日泰の外交問題に発展する。日本側はタイ人の死刑と賠償金を求めている。
 こうした状況を見るともはや「対等な同盟国」ではなく「占領された」というタイ国史の記述に近くなっている。


戦争末期~国際社会復帰

 首相ピブンは宣戦布告の当初は大タイ主義路線を取って日本と協調していたが、以下のような理由で戦争末期は日本離れを加速させていく。

  • タイ国内での日本軍の悪影響
  • 枢軸国側の戦況悪化
  • 日本が「大東亜共栄圏」として他の植民地国とタイを並列したことへの反発

 しかしタイ国内では対日/親英米の勢力がさらに台頭したため、ピブンは1944年に一旦政界を引退する。
 タイが英米へ宣戦布告した際、連合国にいたタイ人留学生たちが抗日組織「自由タイ」を結成している。一方国内では摂政プリディが抗日運動と連合国との接触を進めていた。(宣戦布告時に地方視察を名目に3人中1人署名しなかった摂政がこのプリディ。)抗日派が国内外で協力し、タイ国内で自由タイの活動素地が築かれ、ピブン政権後に発足したクアン内閣では自由タイの指導者3名が閣僚になる。


 1945年8月10日に日本がポツダム宣言を受諾し敗戦が確定すると、8月16日にプリディが「宣戦布告は日本の強制、摂政の署名も揃っておらず無効」「戦時中に獲得した英領地域の返還」を宣言する。
 イギリスは占領軍の派遣と報復的な要求をタイに行うが、アメリカが仲裁に入り1946年1月に宣戦布告の無効確認、平和条約の締結が実現する。
 一方のフランスは東京条約に基づく「失地」返還を要求、タイが反対した結果、1946年5月に仏軍がタイ領を攻撃する事態にまで至る。さらにフランスがタイの国連加盟に反対する姿勢を見せ、結局タイはフランスに譲歩し領地を失う代わりに、国連加盟を実現させる。(タイは敗戦国中で最速の国連加盟を実現した。)
 結果的に、タイの国土は第二次世界大戦中に拡大したものの、戦後は元に戻った。


 以下のような状況が重なったことで、タイは戦後、順調に国際社会に復帰できた。

  • 戦時中から対日/親連合国の勢力が育まれており、敗戦前に親連合国の政権が樹立されていた。
  • アメリカが直接タイと利害関係がなかった(将来的な同盟国として利用を考えていた)ためタイに融和的だった。
  • 戦後の世界的な食糧難で「米蔵」としてのタイの利用価値が高かった。


 なお第二次世界大戦による全人口に対する死者数の割合は、タイが0.04%と周辺諸国と比べて圧倒的に低い。ビルマ(現在のミャンマー)は1.7%、仏領インドシナ(現在のベトナムラオスカンボジア)が6%程度となっている。アメリカ0.3%、イギリス0.9%、フランス1.4%、日本4%程度。


戦後

 戦後のタイはクーデターと民主化を繰り返していく。政権批判が高まりクーデターが発生すると一旦は国民も歓迎するが、その後は国内外からの民主化要求が高まっていく。そうした圧力を受けて民主化へ舵を切ろうとすると、今度は政治的に不安定になったり、あるいは実業家による利権政治になったりして政権批判が高まっていく。それを受けてクーデターによるリセットが起こる、というサイクルを基本的に繰り返している。
 タイでは中選挙区制により少数政党が乱立し、一党で過半数を獲得せず小政党の連立政権になってしまうというのも、政治的に安定しない理由になっていた。1997年憲法小選挙区制に改まり、01年の総選挙で採用された結果、一党が単独過半数に近い議席を獲得している。(日本もかつては中選挙区制で、55年体制が崩れた後に7党連立政権が誕生しているし、2大政党制を目指して小選挙区制に変わった後は、05年の衆院選小泉首相郵政選挙)で自民党が、09年の衆院選民主党が大勝したのと同じ。)ただしタイではその後2007年憲法中選挙区制に戻している。


40年代後半~50年代

 アナンタマヒドン王は戦後にスイスから帰国するが、翌1946年に寝室で射殺体で発見されるという事件が起こる。侍従ら3名が直接証拠がないまま犯人とされ、全員容疑を否認したまま死刑にされたものの、真相は不明確なままでタイ国内でタブー視されている。弟のプミポン(ラーマ9世)が18歳で国王に即位する。


 プリディが首相になったり、さらにクーデターが発生してピブンが首相に返り咲いたりと政治的に不安定な状況が続く。
 ピブンは第二次大戦で日本と同盟を結んだ当事者で、非民主的な方法により政権復帰し、さらに1951年には旧1932年憲法を復活させて議会制民主主義を否定する。それでも反共産主義を全面に押し出していたため西側諸国に容認された。
 中国とベトナムが共産化する中で、アメリカはタイにインフラ等の支援を進める。日本とは52年に国交回復、55年に戦時中の借金(特別円)問題がピブン・鳩山会談で150億円の支払いで妥結する。
 その後ピブンは議会制民主主義を回復させ、民主的な手続きで自身の政治権力を安定化・正当化させようとした。しかし財政悪化で支持が下がっていたので不正選挙で勝利し、その結果さらに政権批判が高まる。国民の支持を失ったピブンを見限って、腹心だったサリットが57年にクーデターで政権を奪取する。
 ちなみにその後のピブンは国外へ亡命し最後は神奈川(相模原市御園4丁目らしい)で64年に亡くなっている。プリディも亡命しパリで83年に亡くなる。


60年代~70年代:反共+開発独裁+国王権威高揚

 クーデターで首相になったサリットは開発独裁体制を敷く。この構築にあたって、国王・王室の権威を高める方針を打ち出し、プミポン国王もそれに呼応したことで、現在のタイの強力な王室信奉が築かれている。


 開発独裁は「経済成長には政治的安定が必要なので民主主義を制限する」というロジックで、タイのサリット政権に限らず、フィリピンのマルコス政権、インドネシアスハルト政権など周辺諸国でも同様の現象が起きている。高度成長を達成し「四小龍」と呼ばれた4か国のうち、香港を除いた台湾の蒋政権、韓国の朴政権、シンガポールのリー政権も開発独裁だった。ただ開発独裁を正当化するのに国王の権威を利用した点にタイの特徴がある。


 反共を掲げると、本来民主主義を要求するはずの西側諸国(特にアメリカ)も非民主化を許容してくれるし、さらに経済支援も期待できるので、この時期の開発独裁体制を取ったアジア諸国は基本的に反共だった。
 開発独裁は、ベトナム戦争に懲りたアメリカがインドシナから手を引いたりその後冷戦が終結して反共政権を擁護する必要性が低下したり、経済成長の結果で民主化運動が高まったりと、国内外から独裁政権が否定されて各国で崩壊していく。タイの場合は相対的に早く1973年に終了している。


 サリットの死後、政権を継承したタノムは、権威主義から議会制民主主義へ移行させようと憲法を制定して総選挙を実施したものの、自身の政党が過半数に達せず議会運営に苦慮した結果、クーデターにより憲法と国会を廃止する(1971年)。
 民主化への逆行や、開発による農村-都市間の経済格差の広がりで政権批判が広がる。73年に学生を中心に40万人規模のデモが発生し、軍の発砲で77名の死者が出る(10月14日事件)。同日プミポン国王がタノムの首相辞任をテレビ・ラジオで発表することで騒動が収束する。
 プミポン国王開発独裁体制下の16年間で権威の高揚を進めていったが、政治的に中立な立場を保ち続けたことで「最終的な調停者」の役割を果たすようになり、その後のクーデターでも同様に権威として機能していく。


 75年にはアメリカがインドシナから手を引いた結果、ベトナムラオスカンボジア(タイの東側全部)が共産主義国家になる。民主化後に政治的に不安定になり、さらに間近に共産主義の脅威が迫っていたこともあり、76年にクーデターが発生しタイの民主化が3年で終わる。翌77年にもまたクーデターが発生する。


80年代:経済成長+政治的安定

 77年クーデター後、軍政が続く中で、80年に陸軍司令官だったプレムが首相に就任する。プレムは軍人と政党政治家のバランスを取り、協調型の政治を展開しプミポン国王の高い信頼を得る。
 85年のプラザ合意でドル安・円高になると、日本は輸出製品の価格が上昇して競争力を失ったため賃金の安い海外へ工場移転を進める。

  • 四小龍(韓国・台湾・香港・シンガポール)→既に経済発展を遂げて人件費が高騰
  • マレーシア→タイより人件費が高い
  • フィリピン→開発独裁体制崩壊後の移行期で政情不安定。インフラも未整備
  • 中国・ベトナム→改革開放路線を開始したばかり

というのがアジア各国の状況で、インフラも整っていて人件費もほどほど、政情も安定していたタイは工場誘致・外資流入に有利な立場にあった。
 プレム首相は、政治的・経済的に一定程度の成功を収め、8年間政権を維持した後「政党政治家が首相になるべき」として自ら政権の座を降りる。(プレムは清廉で協調的な人物であり国王の信任も厚く、この後2010年代まで枢密院議長として影響力を保ち続けることになる。)


 88年からチャチャイ首相が就任するが、チャチャイのタイ国民党は実業界を基盤にしたもので利権政治が進み国民の反発を招き、さらに軍部との関係が悪化したことで、91年にクーデターで崩壊、今回の民主化も3年で終わる。


90年代:政治的不安定・経済危機

 90年代は、10年間でのべ8人が首相を務め、80年代がプレム政権で比較的安定していたのと比べて政治的に不安定な時代だった。(例えば日本も首相が短期間で次々と変わった時期もあるが、その間政権政党自体はそれほど変わっていない一方で、タイの90年代は首相・政権党・軍部の支持がその都度変わっている。)


 91年クーデター後のアナン首相は外交官出身(軍人首相だと国際社会の非難も大きいと判断されたため)で、透明性の高い自由主義的な経済政策を進めたことで国民の支持も高かったものの、民主化を前提とした暫定政権だったため1年で終わる。
 92年総選挙で軍支持派の政党が政権を獲得し、もともと「首相には就任しない」と明言していた陸軍司令官のスチンダーが首相に就任したことで民主派のデモが勃発、死者40名以上を出す事態になる(暗黒の5月事件)。プミポン国王が両陣営のリーダー、軍政の首相スチンダーとデモ指導者チャムロン(元バンコク都知事)を呼び出し、国王の前で両者が跪拝し暴動が収束したことで、国王の権威がさらに高まる。
 「暗黒の5月事件」は、軍部が政治的関与の道を憲法に残そうと画策したことで国民の反発を招いたものだったため、この後しばらくは軍部の直接的な政治関与が後退する。こうしてタイは再度民主化の方向に進んだものの、政治的には不安定な状況が続いていく。


 97年にはタイで発生した通貨危機がアジア各国へ波及している。この経済危機は政治改革圧力へと繋がり、97年憲法の採決を後押しした。(この憲法中選挙区制から小選挙区制への選挙制度改革を含んでいる。)32年憲法から数えて16番目の憲法で、従来と異なり学者・知識人が制定に参加している。
 経済危機の後、99年に経済成長率・輸出競争力を回復させるが、株価と雇用があまり回復しなかったことで「痛みを伴ったが成果が少ない」という不満感を国民の間で醸成し、それが次のタクシン政権が成立する土台になっている。


00年代:ポピュリズムvsエリート

 01年総選挙は、97年憲法による小選挙区制で初めて実施されたもので、タクシンのタイ愛国党過半数に近い議席を得て大勝、タクシン政権が成立する。


 タクシンは実業家一族の出身。元警察官僚で、警察時代に通信事業を立ち上げて成功し(日本だと公務員の副業が法で禁止されているがタイでは可能らしい)、退職後は警察のコネも利用しさらに成長させていく。タクシンが立ち上げた携帯電話事業のAISは、現在もタイ国内で最大のキャリアで、ラオスカンボジアにも進出し東南アジアの一大通信事業者にまで成長している。94年に外務大臣、次の政権で副首相に就任する。98年にタイ愛国党を設立し、資金力を背景に地方の有力議員の引き抜きを進めていく。選挙戦では地方の農民層に向けた政策を掲げて大勝する。05年総選挙でも議席過半数獲得し大勝する。


 タクシンの強権的な手法や利益誘導が国民の反感を買う。政治的中立を保ち続けていたプミポン国王も03年にタクシンへの苦言を表明している。06年に反タクシン運動が大規模化する。(なお92年の「暗黒の5月事件」で民主化運動/反スチンダーの指導者だったチャムロンも参加している。)タクシンは下院解散・総選挙で応じたが、野党が選挙をボイコットする。選挙の結果(野党が参加していないので当然だが)タイ愛国党が圧勝する。この結果に対しプミポン国王が「1党のみ参加の選挙が民主的とは言えない、正当性を裁判所が判断するように」と発言し、憲法裁判所は選挙結果を無効と判断したことで、総選挙がやり直しとなった。
 一方タクシンは軍との関係も悪化させていた。軍部の人事を親タクシン勢力で占めようとして反発を生む。元陸軍司令官で80年代に首相だったプレム枢密院議長が軍への影響力を維持しており、軍の内部でタクシン派とプレム派の対立が高まり、クーデターの噂が出るようになる。06年9月にタクシンが国連総会出席のためニューヨーク訪問中にクーデターが発生、タクシンはそのまま亡命生活に入り、タクシン政権が終わる。
 06年クーデター後、元陸軍司令官のスラユットが08年1月まで首相を務める。


 07年に憲法裁判所が06年総選挙での選挙違反を名目にタイ愛国党の解党を命じ、メンバーは「人民の力党」へ移る。(憲法裁判所もエリート集団として反タクシンになっている。)
 07年12月の総選挙で、人民の力党(タクシン派)が勝利し党首サマックが首相に就任する。サマックは料理が趣味で(首相就任前から)長年に渡ってテレビの料理番組に出演していたが、憲法裁判所は憲法の「首相の副業禁止条項」を名目に、「料理番組で出演料を受け取ったのは違憲」としてサマック内閣を総辞職させる。次にソムチャイ(タクシンの妹の夫=義理の弟)が首相に就任するが、憲法裁判所は07年総選挙で不正があったとして人民の力党の解党命令を出し、ソムチャイ首相を含む党幹部の5年間の公民権停止の判決を下す(司法クーデター)。タクシン派は新たに設立した「タイ貢献党」へ移る。


 司法クーデターの結果、軍部とエリートに支援された反タクシン派の民主党が政権掌握し、アピシットが首相になる(08年12月~11年8月)。アピシットは国民の不満をそらすためにナショナリズムを全面に押し出し、領土問題を抱える隣国カンボジアへの武力紛争を引き起こす。また政権批判を王室批判と結びつけ、10年のデモでは国軍を投入し一般市民90名を死亡させた(暗黒の土曜日事件)。(なおこの事件でロイター通信の日本人カメラマンが亡くなっている。)


10年代:タクシン派vs反タクシン派(つづき)

 2011年総選挙でタイ貢献党(タクシン派)が過半数議席を獲得、インラック(タクシンの妹)が首相に就任する。
 インラックはタクシンの傀儡とも揶揄されたが、(タクシンとは違って)協調的な政権運営を進め、国民融和や貧困対策で一定の成果を挙げる。13年からタクシン派と反タクシン派双方のデモ参加による逮捕者を恩赦する法案を審議していたが、タイ貢献党が免罪の対象にタクシンを含めたことで、民主党が反発する。タイ貢献党強行採決に反発して、反タクシン派の活動が活発化する。
 タイ貢献党恩赦法案を取り下げたものの反タクシン派のデモが収まらず、インラック首相は13年12月に下院を解散する。14年2月に総選挙が実施されるが、反タクシン派は激しい選挙妨害を繰り広げ、全選挙区のうち2割で立候補そのものが受け付けられない事態になる。タクシン派も大規模な集会を開くなど両派の対立が激化する。(当時の世論調査で「内戦の可能性がある」の回答が7割に達するほど対立が深刻化した。)
 14年5月に憲法裁判所が、インラック政権直後の高官人事を「縁者登用であり違憲」と認定し、インラック首相と9名の閣僚が失職する(司法クーデター)。しかしタイ貢献党は首相代行を立ててタクシン派の政権を存続させたため、同月に軍事クーデターが起こりタクシン派のインラック政権は3年で終わる。インラックはその後、軍に一時身柄を拘束され、首相在任中の「米買上げ制度で国家に損失を与えた」という名目で公民権の停止と禁錮5年の実刑判決が下されるが、その前にドバイへ亡命する。


 クーデター後は陸軍司令官のプラユットが首相を務め、現在(2020年8月時点)も続投し丸6年以上が経過している。
 従来はクーデターが発生し、プミポン国王がそれを承認すると、一旦は国民が受け入れるというパターンだったが、この時はクーデター後もタクシン派の抗議デモが続いた点で異なっていた。軍政はデモ参加者や軍政を批判する学者・ジャーナリストを相次いで拘束し言論統制を強めていく。軍政は当初「1年程度で民政に移行」と内外に説明していたが、約束を履行しなかった。
 06年クーデターでは(軍出身者とはいえ)文民に政権をすみやかに譲渡して、その結果再びタクシン派政権の成立を許した「反省」から、14年クーデターでは軍が立法府を消滅させ立法・司法・行政の三権を握り、実権を維持し続けた。


 軍政は一旦起草した新憲法案を廃棄・再作成するなどして憲法制定を遅らせる。軍政の維持を盛り込んだ新憲法案は16年8月に国民投票で6割の賛成票を得て通過する。(この国民投票では、賛成以外のキャンペーンを禁止し、批判者も逮捕した。)
 しかし憲法への署名前の10月にプミポン国王が死去し、次のワチラロンコン国王(ラーマ10世)の即位を待ったことでさらに遅れた。(軍政は国王の死去を待っていたのではないかと疑われている。)新憲法は17年4月に署名・発行される。


 19年3月に8年ぶりの総選挙が実施され、タイ貢献党(タクシン派)が第1党、国民国家の力党(軍政支持)が第2党となり、軍政が選挙には負ける。しかし17年憲法では、下院(500議席)だけでなく上院(250議席)も加えた投票で首相が選出されるルールに変更されており、その上院の議員は軍政が任命するルールなため、首相は軍政のプラユットが続投、軍政による連立政権が発足した。
 ちなみにこの総選挙では、ワチラロンコン国王の姉であるウボンラット王女が、タクシン派の政党(タイ貢献党ではない)で首相候補になったものの、国王の命令で首相候補になることが禁止され、さらに憲法裁判所の命令で解党されるという騒動が起こっている。(ウボンラット王女は米国人と結婚し王族からは離脱している。)




 ここまでが幕末~現在までのタイの政治的な流れだけど、もう少し現状を理解するための前提知識として国王、軍、都市と地方の対立などを確認しておく必要がある。


ワチラロンコン国王

 プミポン国王が高い尊敬を集める一方で、ワチラロンコン国王の皇太子時代の振る舞いについては日本でもネガティブな報道がされたりしてきた。


 4度の結婚と3度の離婚を経験しており、またタイ王室としては100年ぶりの側室を持った。

  • 1人目の妻:いとこの王女。離婚後も王族の地位を維持している。
  • 2人目の妻:女優。1人目の王妃と婚姻中に愛人関係となり子供5人を設ける。離婚後は子供と共に国外追放され米国に居住。
  • 3人目の妻:ナイトクラブのダンサー。14年に離婚する過程で親族が次々と汚職を名目に逮捕され、本人はタイ国内の出身地で居住(幽閉されている?)。
  • 4人目の妻:CA。19年5月に結婚。
  • 側室:陸軍看護師。19年7月に100年ぶりの側室の地位を与えられるが、3か月後に「不実」を理由に全ての称号が剥奪される。


 スキャンダル(?)の類としては例えば下記がある。

  • 87年の来日時に自身の愛人を日本の首相や皇族との面会に同席させようとしたが、日本外務省が拒否したため激怒、予定より3日早く帰国する。
  • 96年、ASEM首脳会議がタイで開かれた際、橋本首相の飛行機が空港に着陸した後、(87年の復讐で?)皇太子は3機のジェット戦闘機で滑走路を塞ぎ、橋本首相を20分ほど機内に閉じ込めた。
  • 07年、王妃(3人目)がヌードパーティーを開き映像がインターネットに流出する。
  • 愛犬のプードルに「空軍大将」の称号を授与し、15年の死亡時は4日間に渡る葬儀を行う。
  • 15年に皇太子側近の占い師や警察官ら3名が不敬罪で逮捕、獄中死する。
  • 16年にミュンヘン空港で入れ墨の素肌をさらし極小のタンクトップ(というかビキニに近い)に腰穿きジーンズ姿で飛行機に搭乗する写真がドイツのタブロイド紙に掲載される。


 17年憲法の署名前に、ワチラロンコン国王は修正をいくつか要求している。この修正は国民に諮られることなく密室で進められる。(国民投票で通過したはずの憲法案が、発行されてみたら修正されていた、というのはすごい話だなと思う。)

  • 旧来の憲法は非常事態時には「国王の統治で解決する」とされていた。新憲法では、軍政の影響力を高め国王の影響力を排除するため「憲法裁判所が首相・議員と協議して判断」と変更されていたが、国王は元に戻すよう要求した。
  • 国王が国外滞在中でも摂政を置かずに公務の権限を維持できるように変更。(皇太子時代もドイツを始めとした海外での滞在を好んでいたため、海外で生活しながら実権を維持したいという意図がある。)
  • 事務や警護、財務を担当する王室関係の諸機関の人事権・運営権を従来の政府や軍から国王直轄に移した。(タイ王室の資産は約4兆円と推計されており、サウジアラビアUAEなどのアラブ諸国の王室を抜いて世界1位だが、この財産を国王がコントロールできるようにした。)

 

軍内部のグループ

 06年クーデターも14年クーデターも、タクシン派と軍部の対立という点では同じだが、主導した軍内部の派閥が異なるという。
 国王の護衛を担当する陸軍 第1管区 第1歩兵師団が従来の主流派で、陸軍司令官はここの出身者だった。80年代に首相を務めた元陸軍司令官のプレムは首相退任後もタイの政財界に大きな影響力を発揮していたが、タクシンから06年クーデターの「黒幕」と呼ばれており、この派閥に影響力を保っていたと考えられている。(なおプレムは19年5月に98歳で死去する。)
 しかし00年代から王妃の親衛隊である第2歩兵師団OBが有力派閥として台頭してきたといい、14年クーデターはこの派閥が主導したとされる。
 06年クーデターを陸軍司令官として主導したソンティは、その後政治家に転身してタクシン派に鞍替えしているが、これも軍の派閥交代という文脈で捉えられるのかもしれない。


 ワチラロンコン国王の妹にシリントン王女がいる。皇太子時代のワチラロンコンは国外に滞在しスキャンダルが報じられる一方、シリントン王女は自身が学究肌の人物であり、国内での教育支援に力を入れ、気さくな人柄から国民の人気も高かった。プミポン国王が入院していた当時(15年4月)は「シリントン王女を後継者として待望する声もある」と日本のメディアでも報じられていた。
 プレムはシリントン王女を推していたとされ、一方でプミポン国王の妻シリキット王妃はワチラロンコン皇太子を国王に推していたと言われている。プミポン国王の健康悪化で相対的にシリキット王妃の立場が強くなった結果、軍も王妃に近い派閥が浮上してきたのかもしれない。王妃の親衛隊OBを中心とした派閥は、ワチラロンコン皇太子を後継者として確立していき、皇太子側もそれに呼応する。
 それ以前は、皇太子はタクシン元首相と関係を構築していたとされ、01年には当時首相のタクシンからスポーツカーをプレゼントされ、ウィキリークスでは皇太子がギャンブルで作った借金をタクシンが肩代わりしたことが暴露されている。しかし14年12月には日本のメディアでも「皇太子が王位継承を軍部に認めさせるため、タクシン元首相派との関係を絶つ姿勢に転じた」と報道されている。


バンコクと地方の格差

 タイの地域別人口構成比は、およそ東北部3割、バンコク2割、北部2割、南部1割、他2割となっている。東北部や北部は農業が主な産業で、第一次産業従事者の経済活動人口に占める割合が5割。(工業製品の製造拠点は東部。)一方で産業別GDPは工業35%に対し農業は10%しかない(04年データ)。「国民の半数が農家だけど、国全体の1割分しか稼げていない」状況で、都市(バンコク周辺部や東部)と地方の間で大きな経済格差が生じている。
 首都圏一極集中は、地方都市の規模が首都バンコクに対して極めて小さいという点でも表れている。代表的な地方都市にチェンマイ(北部)、コーラート(東北部)、ハートヤイ(南部)、チョンブリー(東部)があるが、それぞれバンコク首都圏に対して人口が3%程度しかない。ちなみに日本も「首都圏一極集中」が問題視されているが、それでも東京23区930万人に対して大阪市270万人、名古屋市230万人で、第2の都市が首都の30%くらいはあるので、タイのバンコクvs地方都市の差はかなり大きい。


 タイは東南アジア諸国の中では(四小龍を除けば)経済的にも発展した地域だったこともあり、バンコクなどの中心では地方や周辺諸国に対して一種の優越感を抱く風潮が根強いという。例えばバラエティー番組で東北方言(隣国ラオスの国語でもある)を揶揄するような表現がたびたび見られるという。20年6月にGMMTV所属の俳優Krist・Singto(この2名はBLドラマ「SOTUS」でメインのカップルを演じている)が4年前20歳の時の差別的な発言が発掘されたことで謝罪しているが、問題視された発言内容の一つがラオスに対する揶揄だった。
 経済的な格差やそれに基づく蔑視などによって、地方と都市の対立軸が形成されている。


 タクシンが巨大な資金力で地方の有力議員を引き抜き、地方優遇政策を掲げて選挙に大勝したというのは、地方にそうした大票田が存在していることがベースにある。タクシン派は東北部・北部が地盤になっている。一方の反タクシン派(民主党支持者)はバンコクや南部が中心。
 首相だったタクシンや妹のインラックが「民意を問う」と解散総選挙に打って出ようとすると、野党が選挙をボイコットしたり、反タクシン派が選挙を妨害するのは、選挙では人口比率の関係でタクシン派が勝利することが目に見えているためである。
 日本人の一般的な(?)感覚からすれば、1票は1票のはずだ、正当な選挙で勝利した党を否定するのは民主主義の否定だ、と思うところだけど、ここにどうしても地方蔑視・反衆愚政治哲人政治志向の感覚があるらしい。12年の反タクシン派の集会で、学者でテレビコメンテーターのセリ・ワンモンタが「質の低い1500万人の投票より、上質な30万人の意見を尊重せよ」と発言しているが、「地方の人間の票を、票として扱うのはおかしい」という感覚があるのかもしれない。


※関係ないけど、日本でよく衆議院の「1票の格差」が問題になるけど、実は参議院の方が差がでかくて、都市部より地方の方が1票の重みが大きく、地方へ集中的に資金を投入したり政策を調整した方が費用対効果が高い。旧民主党小沢一郎が党首の時に09年参院選で大勝したのも、その選挙戦略(当時1票の格差は5倍)が寄与している。(ちなみに小沢は党にそのノウハウを共有せず、全選挙区詳細データを秘書に持ち歩かせていたらしい。)参議院で勝って「ねじれ状態」を作れれば、重要法案を通せなくして「与党の政権担当能力が低い」というイメージを与えることができて政権交代につなげられる、というのは一種のハックみたいな感じ。「政権を取るには費用対効果の高いポイント」というのがあって、(ロジックは違うけど)そこがタイも日本も地方なんだな、とちょっと思った。


反王政のレッテル

 そうしたカラクリで選挙に圧倒的に強いタクシン派を倒すため、反タクシン派は「タクシン派は反王政」のレッテルを貼った。王室への支持が高いタイではこのレッテル貼りが効果的だった。現実のタクシンが反王室でなくても、タクシンがプミポン国王の目指す「足るを知る経済」に反していたのは事実であり、プミポン国王がタクシン首相に対して不快感を一定程度有していたのは事実だったし、既得権を持ち王室に近い軍や官僚、司法などのエリートを「王室サークル」として批判していた。(憲法裁判所もその一員なので、司法クーデターを主導している。)


 プミポン国王はずっと政治的に中立な立場を保ってきたが、タクシンに否定的な態度を取ったことで政治対立と無関係ではいられなくなってしまう。08年にはシリキット王妃が、死亡した反タクシン派のデモ参加者の葬儀に参列し、従来そうした党派性に加担しない王室から考えると、この参列は驚きをもって受け止められたという。


 タクシン派は赤シャツ、反タクシン派は黄シャツを着てデモなどを行うが、これは赤が国旗(三色旗)の民族を表す色で、黄が月曜生まれのプミポン国王のシンボルカラーであるため。(タイは生まれた曜日ごとにシンボルカラーがある。)このように反タクシン派=王室支持派となっている。ただし、反タクシン派がタクシン派を「反王室」と非難しているとしても、タクシン派自体は明確に反王室なわけではない、という点が少しわかりにくくなっている。


 14年クーデター後、軍政が不敬罪の取り締まりを強化しているのもこうした文脈による。以下は取り締まりの事例。

  • フェイスブックに王室を侮辱する書き込みをしたとして28歳の女性が禁錮28年の判決を受ける(本人は否認している)(通常の裁判ではなく非公開の軍事裁判で裁かれている)。
  • 国王への飼い犬の皮肉をネットに書き込んで摘発される。
  • 25歳の男子学生が、国王の離婚歴や素行を書いたBBCタイ語サイトの記事をフェイスブックで共有したことで逮捕される。


 軍政は国王によって正当化されており、国王は軍によって地位や権威を確立しているため、お互いに利用・依存する関係になっている。


現状

 つい最近もニュースで、タイのデモでハム太郎の歌が歌われたとか、反政府集会で王室が批判されたといった話が日本でも報道された。親タクシン/反タクシン、民主化/軍政、地方/都市、貧困層/富裕層、大衆/知識層といった対立軸があって、それぞれがある程度一致しながらも少しずつズレているし、時間的な変化もある。


 もともとの対立軸のメインがタクシン派vs反タクシン派、地方vs首都だったとしても、現在の反政府をタクシン派と同一視してしまうと上手く理解できなくなってしまうのだと思う。既に軍政がスタートして6年が経過し、民主化どころか軍政が固定化するような憲法が制定され、国王も軍政と結合している。
 かつては首都圏の知識人や学生・中間層が金権・利権政治を批判し、反タクシン派としてクーデターを肯定する側に回ったとしても、現在の状況下では反軍政としてデモや集会を展開している。国王が軍政に加担して利益を得ているため、これまでタブーだった王室批判さえ、不敬罪の恐れもある中で展開している。しかしその結果として保守派や王室を尊重する人々からの反発・衝突を生んで溝が深まってしまうというジレンマがある。(ちなみに今月(20年8月)国王の姉ウボンラット王女が王室批判を擁護するコメントをインスタグラムで発してニュースになった。)


日本の天皇制とタイの王政

 君主の権力が憲法によって制限される立憲君主制は、その制限の程度に幅がある。実権が国会に与えられるイギリス型(議会主義的立憲君主制)と、君主の行政権に対する制約が弱い(19世紀の帝政期の)ドイツ型(君主主義的立憲君主制)に大別されるという。日本には天皇が、タイには国王が存在し、どちらも立憲君主制という点で同じであっても、象徴として憲法で規定される日本の天皇はイギリス型、超越的な権力を保持したタイの国王はドイツ型の立憲君主制に分類される。


 タイは、欧州による植民地主義の時代には西からイギリス、東からフランスが迫って周辺国が植民地化される中で独立を保ち得た。第二次世界大戦でも日本が迫る中で独立を維持し、周辺諸国に比べて圧倒的に少ない犠牲者数で乗り切り、戦後もイギリスによる占領を回避し最速で国際社会に復帰した。一方の日本は、軍部の独走を許し、非合理的な意思決定の積み重ねにより国内外で大量の犠牲を出し、アメリカの占領下に置かれた。この点で比較すると日本よりタイの方が優れていると言えそうだ。
 一方で日本がこの大敗の結果ドイツ型からイギリス型へ転換し、他方タイではドイツ型が温存された。そのことが、タイでクーデターが繰り返されたり、知識層や中間層・都市住民が選挙の結果をないがしろにする態度が生まれたりする状況の一因になっているのを見ると、複雑な気持ちになる。
 日本の民主主義も「完璧」とは言い得ず、例えば選挙一辺倒でデモやロビイングといったその他の民意の実現手法が弱いとか、小選挙区制にしたものの政権選択可能な二大政党制が定着せず政権党への規律が十分に働かないとか、いろんな課題がある。それでもクーデターが起きることはなく、野党が選挙をボイコットしたりもせず、「選挙結果を民意として尊重する」前提自体は共有できている点で、民主化の定着度はやはり日本の方が高いと言える。


 敗戦で憲法がリセットされて象徴天皇制になったから、という単純な理由だけでなく、その背景には日本がタイに比べると「君主が政治的な実権を握らず、形式的な権威として機能する」歴史が相対的に長いことも影響しているんじゃないか、とちょっと想像している。
 日本の歴史上で政治的な実権は、豪族(大王)→公家→武家と移っていく。中国(帝国)から中央集権的な律令制を導入したものの、そこから王朝国家へ、さらに武家政治へと移って律令制天皇も政治的実権からは離れて形骸化・権威化した。(後醍醐天皇などまれに実権を握ろうとする天皇が出てくる例外もあるが。)
 律令制の導入時点でも、神祇官(祭祀)と太政官(行政)を分離するというアレンジを加え、既に君主が行政権を手放すような萌芽が含まれていた。(君主が形骸化しながらも廃棄されずに残ったことや、帝国の制度をアレンジしたり取捨選択して導入できた特殊性に関して、柄谷行人は『世界史の構造』や『帝国の構造』で帝国システムを中核/周辺/亜周辺/圏外で捉えて、日本が亜周辺に位置したからだと語っている。)この辺のことは以前↓でもう少し詳しく整理している。
  天皇個人への肯定と制度への否定が同居すること - やしお


 ドイツ型立憲君主制だった戦前の日本でも、タイとは異なり(首相が軍人に暗殺されたりはしても)クーデターによる政変そのものは成功しなかった。二・二六事件でも政府・警察・軍・メディアなどが占拠され、天皇親政を提示されたが昭和天皇が拒絶したことで成立しなかった。そういった違いも、権威になった歴史的な長さの違いがあったりするのかもしれない。
 「君主は政治的実権を持たない」という実績が1200年ほどある国と、100年弱の国とでプレイヤー(君主や政治家や軍人や国民)の内面化のされ方に差が出てくるのかもしれない。制度なども「大昔からそう」に比べて「祖父あたりの代で始まった」だと運用の仕方や制度変更に対する感覚に違いが出そうな気もする。




 タイの映像作品だと、アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の映画が好きで3年前にまとめて特集上映された時に「真昼の不思議な物体」(00年)や「ブリスフリー・ユアーズ」(02年)、「トロピカル・マラディ」(04年)、「世紀の光」(06年)、「ブンミおじさんの森」(10年)を見てびっくりした。(感動というか唖然とするみたいな感じ。)ほとんどタイの東北部や北部の村・草原・森などが舞台になっている。アピチャッポン監督自身、東北部コンケン出身で北部チェンマイ在住。(『王室と不敬罪』には著者による監督のインタビューがあり、その中で監督はタイ軍政を批判している。)
 一方でタイのBL作品群は基本的にバンコク首都圏が舞台になっている。全然世界が違うなと思った。タイの若手俳優のバラエティ番組(旅行したり食事したりする)やファンミーティングを見ても日本とあまり変わらなさそうに見える。
 それから、新型コロナウィルスでも現時点の感染者数累計がタイは3千人と極めて低く抑えられている。(日本は5万8千人程度、東南アジアで最多はフィリピンの17万人超。)


 戦争でも犠牲者を抑えて国際社会にも最速で復帰できた、コロナも上手に抑えられている、観光にもいいし面白いドラマやすてきな俳優もたくさん出てきている、ちゃんとデモも起こって国民が声を上げている。そうした面を見るとタイっていい国だなと、漠然と思っていた。でももう少し踏み込んで歴史的な過程や政治状況までちゃんと見ようとすると、そんな単純に、気軽に外国から「いいね」と言えるような話じゃないのかもしれないと思うようになってきた。国や地域ごとに事情や背景があって、いい面も悪い面もあるよ、と言ってしまえば当たり前のことだけど、そういう一般論じゃなくて結局は個別具体的に見ないと始まらない。


 民主化すると金権・利権政治が出てきてしまう。それを倒すのにクーデターに頼らざるを得なくて、今度は軍政になってしまう。利権政治か軍事政権か、という2択を迫られてしまう。しかも代替わりに伴って国王と軍政が結びついて民主化への道が見えなくなってきている。そうした状況にタイが置かれているということも、調べてみれば分かることだったのに今まで知りもしなかった。