やしお

ふつうの会社員の日記です。

被害者意識を掻きむしる気持ちよさと陰謀論

 陰謀論に染まらないためには、被害者意識とそこからくる怒りを上手にいなしていくことがとても重要なんじゃないかと思っている。その被害者意識は苦しさばかりではなくて、ある種の気持ちよさもあるせいでハマると抜けるのが難しい。
 陰謀論ほど極端でなくても、保守主義リベラリズム、反差別主義や差別主義など、方向性や結論が真逆でも、何かしら「強硬な主義者」になるのは、似た機序が働いているのではないか。もっと日常的な場面で「自分は被害者/お前が悪い」という考えに囚われる時も、仕組みとしては同じかもしれない。
 一方でその機序のおかげで現実に何かが改善されることがあるのも事実で、そうした面とどう折り合いをつけていくのが良いのだろうか。
 といったことを最近思ったのでメモしておこうと思って。


ネトウヨと被害感情

 なんで人が急に「ネトウヨ」や国粋主義者になってしまうんだろう、と以前から不思議に思っていた。
 「ネトウヨ」は、「日本はすごい」という物語を信じることで、「日本人である自分」の自尊心を満たすことなのだと単純に思っていた。しかしそれだと、社会的・経済的に恵まれていて、十分に自尊心を満たせているように見える人や、知的水準が低いわけではない人なのに、突然「ネトウヨ」になってしまう現象をうまく理解できない。
 そうではなくて、「日本はすごい」の以前に、「日本は被害を受けている」という認識がまず先にある。「他国によって我々は虐げられている/脅かされている」という被害者意識がまずあって、それに対して公平さや正義を回復する、というストーリーになっているんだと思い直した方が、よりよく現象を説明できそうだ。
 「自尊心を満たす」という利己的な目的がダイレクトに提示されるより、「被害を受けている」という(一面で現実味のある)建前を踏まえた方がハードルが低いというか、後ろ盾を得て安心して物語に入っていける。


 この前、DHC会長が自社HPに「日本の政財界もマスコミもコリアン系に牛耳られている」と主張する荒唐無稽な怪文書を載せた事件も、「我々は脅かされている」という恐怖・被害者意識がむき出しになっていた。(これは「ネトウヨ」やヘイトスピーチというより、陰謀論だった。)


ネトウヨ」以外

 そう考えると、被害感情が入口になっている構造は「ネトウヨ」に限った話でもない。右派/左派、保守/リベラルといった立場の違いに左右されない。
 「為政者・権力者によって虐げられている」という被害者意識から、強硬な左派論者になり得る。「男性優位の社会システムで女性が犠牲になっている」という意識がフェミニズムのベースになり得るし、逆に「女性によって男性が虐げられている」という被害者意識から反フェミニズムになり得る。
 当たり前だけど、「被害感情が発端やベースになり得る」という話は、「〇〇主義はすべて被害感情に基づいている」という意味ではないし、「被害が実在しない」ことも意味しない。むしろその「被害」が大なり小なり実在するからこそ、入口になり得る。


被害者意識の痛気持ちいいサイクル

 被害者意識は「痒み」にちょっと似ている気がする。
 体が痒い時に掻くと気持ちいい。でも掻くと皮膚がダメージを受けて、ちょっとした刺激ですぐ痒くなるようになる。それで痒いから掻いてまた皮膚がやられる。「掻いちゃダメだ」と思っても、我慢する苦しみはつらいし、掻きむしる時は痛気持ちいいしで、つい掻いてしまう。そうして全然治らなくなる。
 痒い(苦しい)→掻く(気持ちいい)→もっと痒くなる(苦しい)→掻きむしる(気持ちいい)→……と炎症が重症化していく仕組み(疾患増悪機序)を、皮膚科では「痒みと掻破の悪循環」(itch-scratch cycle)と呼ぶらしい。イッチスクラッチサイクルという言葉、ホップステップジャンプみたいでなんか語感がいい。


 被害感情から陰謀論などにハマっていくのも、そのサイクルに似た感じかもしれない。
 被害感情そのものは苦しみでも、その苦しみを解消するために、何かへの攻撃や非難に転じている間は、「自分が正しい」という感覚で一種の気持ちよさが得られる。でもそこで得た快感は、「自分が気持ちよくなるためにそうした」のではなく「不公正を是正するためにそうした」と思わないといけなくなるので、さらにその正当化に資する情報ばかりを集めてしまう(より弱い刺激でも痒くなる状態みたいな)。
 YouTubeで関連動画がどんどん出てくるので「ネトウヨ」や陰謀論にハマってしまうと聞くけれど、このサイクルを円滑に回すのに役立ってしまう。


感情を解決したい欲求

 この前、献血センターの献血お願いツイートに、「私は手術したばかりなので無理ですね」「私は薬を飲んでいるので無理」みたいなリプライがいくつか並んでいるのを見かけた。「知らんがな」という話で、何も問題を解決しない無意味なリプライだと客観的には見えても、そう書かずにいられない人達がいる。
 「そうしなかった自分」に後ろめたさを感じる。その居心地悪さ、罪悪感を解消したくなる。「私は悪くない」と表明して安心する。その表明の現実的な意味や機能は関係なくて、本人が感情を解決できればそれで構わない。


 他にも、野良の子犬や子猫を見つけたというツイートに「保健所に連れて行かないで」とリプライする人も見かける(自分で保護するわけじゃない)。何か理不尽な目にあった人に「訴えて下さい」とリプライする人も見かける(自分で訴訟費用を提供するわけじゃない)。
 そうリプライした人達は、その犬猫やその人がその後どうなったかを追ったりはしない。その場で、そういう状況を知って「悲しい」「ひどい」と思ったネガティブな感情が解消できればそれでいいから、現実に問題が解決できたかどうかは関係がない。(ただ、たまに本当に能動的に解決へ向けて行動する人もいたりして心底尊敬する。)
 わざと炎上するような煽るようなツイートをして非難を集めて、その中で一線を超えて誹謗中傷してきた人を訴えて賠償金を稼ぐビジネスが出てきている、という話を見かけた。感情を解決したい欲求を利用したビジネスになっている。


 陰謀論も、この感情を解決したい欲求に支えられている。被害感情を持ってしまったら、それを解消したくなる。「こいつらが悪い」と表明して自分の感情が解決できるならそれでいい。その理屈が現実に妥当かどうかはあまり関係がない。
 痒くても、日々の保湿を頑張ったり、薬を服用したり、我慢したりするより、今すぐ掻きむしった方が楽、みたいな。そういうやり方で手っ取り早く解消するのが癖になったり、あるいはそれ以外のやり方をそもそも知らないと、そのように攻撃し続けるしかない。


感情の捉え方

 感情を解決する方法として攻撃や非難が選ばれるかどうかは、その人が自分自身の感情をどう捉えているかに左右される。感情を「自分そのもの」と見なすか、そこから分離して捉えているかの程度が大きく寄与しているのではないか。


 例えば腫瘍なんかは、自分の身体から発生したもので自分の一部ではあっても、「かけがえのない自分そのもの」と思う人はあまりいない。悪性の腫瘍なら、外科的に切除したり薬で消したり、最初から発生しないように抑制したりするし、良性なら放っておく、といった「対象物として考える」見方が普通になっている。そういう意味で腫瘍は「分離して捉える」人が大多数と言えそう。(腫瘍は役に立っているわけではないので、むしろ「胃」くらいで考えてもいいかも。)
 感情も、「自分の身体から発生した自分の一部」という意味で同じように考えて、発生するメカニズムから発生を抑制することもできるし、発生した後にどうコントロールするかを考えることもできる。
 しかし精神の働きを、「生理的な機序の結果」として自分自身から一旦切り離して考えることは、(腫瘍に比べれば)それほど一般的ではないかもしれない。それで「アンガーマネジメント」など感情コントロール法のレクチャーが出てきたりする。


 感情を客観視するなら、ネガティブな感情を抱いても、良い/悪い、正しい/正しくないという価値判断から一旦離れて、苦しみをどう解決するかという視点で捉えられる。しかし感情を「自然・当然・必然のもの」と絶対視して、「かけがえのない自分そのもの」と一体的に見るなら、その感情をまるごと受け入れるほかないため、「私が嫌な気持ちになったのだから、誰か(何か)が悪い」と考えるしかなくなってくる。それを是正しようとするなら、攻撃・非難という態度に繋がっていく。
(この時、攻撃の対象が必ずしも他者に向かうとは限らない。「私が嫌な気持ちになった原因」を自分自身に見出せば自己嫌悪になる。他人に対しても批判的だし自己嫌悪にも陥りやすい人、となってとても生きるのが苦しくなる。)


現実が改善される側面

 少し前に車いすユーザーのブログ記事が炎上した。「降車駅での車いす対応を乗車駅で当日に依頼したら、鉄道会社が対応してくれなかった(ただし隣駅で対応してくれた、また帰路では前日に連絡してその駅で対応してくれた)」という話だった。これに対して「鉄道会社は現状できる範囲で対応してくれてるじゃないか」「車いすユーザー側も事前連絡するなり配慮すべき」という批判と、「健常者であれば不要な配慮を『するのが当然』はおかしい」という擁護とがあったように思う。
 この話を見た時に、ローザ・パークスのことを何となく思い出した。50年代のアメリカで、公共交通機関の白人用の座席に座り続け、逮捕され罰金刑を受けた黒人女性だった。バスの前側が白人席、後ろ側が黒人席で、その境界を運転手が変更できる。白人の立ち客が増えたため運転手が境界を変更(白人を座らせるために、座っていた黒人を立たせようと)したが、黒人席の最前列に座っていたローザは応じなかった。


 現在の視点では、ローザ・パークスの行動はもっともで、社会ルールの方が理不尽だった、と見なされる。しかし当時は(同じ黒人からも)ルールに従え、あなたが配慮しろ、という批判も多かったのだろう。車いすの話も未来から見れば、批判を浴びたことが理不尽に映るのだろうと思った。(それが「未来」であって「現在」ではないことに当事者が怒りを抱くのも当然だとも思う。)理不尽さに配慮しないことが現実を変えていく一助になったりもする。


 ローザ・パークスや、この車いすユーザーが、「被害者意識に基づく強硬な主義者」だったとは言えない(判断する材料がない)。しかし被害者意識からくる抗議であっても、こうした形で不条理な現実の是正に繋がることは現にいくつもあったりする。


問題を分離する

 「被害者意識が結果的に何かの役に立つ」ことはあり得る。しかし「このように役に立つから被害者意識を持つべきだ」と言うのは転倒している。「Aの結果でBが成立した」としても、だから「AはBの必要条件である」とは必ずしも言えない。

  • 被害感情を持つこと
  • 被害感情に囚われること
  • 被害が現に存在すること
  • 被害の原因や構造を是正すること

などは、(無関係ではなくとも)別個の話になっている。
 これらを混同して、例えば「全てのフェミニストは被害感情に囚われているから強硬なんだ」「だから女性差別は言うほど現実には存在してないし、無理やり解決する必要はない」と考えるのはロジックとして誤っている。
 あるいは「被害者意識は被害をなくすのに必要だから」と、被害感情に囚われることを正当化することも、混同の一形態になっている。


当人が苦しまずに是正する

 例えば文学作品の作者が、現実生活に苦しみながら名作を書いていた、みたいな話はよくあるけれど、それを「だから名作を生むには作者が苦しむ必要がある」と一般化するのは転倒だ。当人が苦しまずに望ましい結果を得られるなら(一般論として)その方がいいし、目指せるなら目指そうぜ、と考える。


 アンガーマネジメントは、怒りに振り回されて自分や周囲が疲弊しないようにする技術であって、「ただ怒りを我慢する」「不公正や被害を呑み込んで諦める」ことを強いるものではないのと同じように考える。「被害感情に囚われないこと」と「被害を何とかすること」は両立するはずだ、と一旦信じることがスタート地点になってくる。


 ちなみにこの考えからすると、感情と表出は別問題で一致している必要はないので、「別に感情に振り回されているわけではないが、相手への効果を考えて怒りを演出する」みたいな態度があり得ることになる。(なんかヤクザみたい。)
 アンガーマネジメントが、怒りで自分や周囲が振り回されないための技術だとしたら、そのさらに先に、感情とは切り離して怒りを表現する技術もある。その「タイムリーに適切なレベルで怒りを見せる」は、理不尽や不公正を解決していくのに重要な技術になってくる。(けど、感情が態度を引き起こすだけでなく、態度が感情を逆に引き起こす作用があるので、そこの連動を断ち切ってコントロールするのはとても難しい。)


日常的な被害者意識

 主義や思想に限らず、会社や学校や家庭などもっと日常的にも、誰かや何かにイラっとしたり利害関係の衝突が起きた際に「被害者意識」が生じることはよくある。基本的に誰でも「自分は悪人じゃない」と信じたいので、衝突が発生した時に、咄嗟に「自分は悪くない=被害者だ」と思おうとするのは自然なことだろう。


 ここで感情をほとんど無意識に「所与の条件」と見なせば、「私は被害者/相手は加害者」が固定されて、それを補強するような(都合のいい)情報や理屈を集め始めてしまう。
 そうではない情報や考え方がそばにあっても、「私は被害者/相手は加害者」が結論として固定されていると、当人にとってその「結論を覆す情報」は存在できないので、認識されることなくスルーされてしまう。「被害者は私」が「真実」と見なされるなら、それに反する情報は「嘘」にならざるを得ない。外側からはどう見ても無理筋でも、当人にはそれが正しいし、そうでしかあり得なくなる。
 被害感情を持つ→被害者であることを補強する情報・理屈を選択的に収集する→さらに被害感情が強固になる、といったサイクルが働く。


 それで相手を責めて、責められた相手も反発する。相手が非を認めないからさらに被害感情と怒りを募らせて、責める材料をもっと集めて攻撃する。ますます解決から遠ざかる。諍いのよくあるパターンだ。ひどい場合は関係が不可逆的に破綻する。本人も周りも苦しくなる。
 これも、感情を自分と切り離して見るという概念を知っていれば、多少は回避する可能性が増えそう。(当たり前だけど、それだけで回避しきれるという話ではなくて、被害の質や量、相手との関係性、認知症やホルモンバランスや睡眠不足など生理的な影響、経済的な不安などなど、要因はどれだけでもあるので「一助になりそう」くらいの話。)


サイクルにハマってしまった人への対応

 ダイレクトに自分が非難・攻撃の対象じゃなくても、自分の周りの誰かがこのサイクルにハマってしまうのはかなり辛い(親が陰謀論者になるとか)。無視する、距離を置くのが一番いい気もするけれど、家族とかだとなかなかそう割り切れない。
 色んな反証を提示して反論するなど真正面から対抗すると、余計に悪化していく。相手にとって「我々が虐げられている」は「真実」なので、それを否定しようとする言論は全て「真実を(まだ)分かっていない人の発言」もしくは「虐げる側の人物の詭弁」にしか見えない。「お前はまだ真実を分かっていない」と説得されるならまだしも、「お前は虐げる側の人間だ」と見なされて自分が攻撃対象になると大変な状況になってしまう。


 「反論してはいけない」という条件を前提するなら、完全に同意するフリをする→少しずつ「そもそもどうしてそう思うのか」まで誘導していく→被害感情の根元を自分で見つめるようにする、と遠回りのようなプロセスをゆっくり踏んでいくしかないのかもしれない。
 でもそれは、外部から見ると、自分も陰謀論者の一員になったようにも見えてつらい。それから自分が「全くそう思わない」ことを「そうだね」と同意するのは、大きなストレスになる。それにこのプロセスの間、陰謀論を補強する新たな材料から相手を遮断する必要もありそう。こうしたやり方は本来、カウンセラーなり精神科医なりプロの仕事だろうし、素人が取り組むのも危なそう(結果的に自分も陰謀論者に陥るかもしれない)だけど、その人をプロのもとに連れて行くのがまず難しい。




 「被害感情が一種の気持ちよさを伴っていて、そこにハマると(頭が良い人でも)客観的な妥当性を無視して他者を攻撃し始めてしまう」みたいな機序があるのは、たくさんある人間のバグ(仕様)の一つなのかもしれない。
 陰謀論にハマりたくないしハマってほしくない、と心底願っているけれど、それには「どうしたらハマっていくのか」を考える必要があって、(そのうち考え方が変わるとしても)今の時点での「こうかしら」をまとめておく意味もあるかと思って。

Windows10のTeams/Skypeで、AirPods Proを使用する際に音が聞こえない問題の対応

 AirPods Proを使って会社のPCでTeamsやSkypeの会議をしようとしたら、「マイクは使えるけど音が聞こえない」か「音は聞こえるけどマイクは使えない」のどちらかの状態にしかできなくて困っていた。結論としては「AirPodsProのノイズキャンセリングを切って、外部音取り込みモードに切り替えると、音も聞こえるしマイクも使える」ということだった。
 誰か同じ症状で困っている人がいるかもしれないし備忘録を兼ねたメモを残しておこうと思った。

症状

 TeamsやSkypeのオーディオ設定で、

  • スピーカー → ヘッドセット(AirPods Pro Hands-Free AG Audio)
  • マイク → ヘッドセット(AirPods Pro Hands-Free AG Audio)

を選択すると、「音声は聞こえないが、マイクは使用できる」状態になる。
(特に何も考えずに接続するとこの状態になる。)

  • スピーカー → ヘッドホン(AirPods Pro Stereo)
  • マイク → ヘッドセット(AirPods Pro Hands-Free AG Audio)

を選択すると、「音声は聞こえるが、マイクは使用できない」状態になる。


回避方法

 AirPods Proを、ノイズキャンセリングモードから外部音取り込みモードに切り替えると、

  • スピーカー → ヘッドセット(AirPods Pro Hands-Free AG Audio)
  • マイク → ヘッドセット(AirPods Pro Hands-Free AG Audio)

の設定で「音声は聞こえるし、マイクも使える」正常な状態になる。
※ちなみに「ノイズキャンセリングはOFFだが、外部音取り込みもしない」モードもあるが、それでどうなるかまでは確認していないので、単にノイズキャンセリングがOFFなら行けるのか、外部音取り込みまでしないといけないのかは分からない。


 あとノイズキャンセリングがONでも普通に使えている人もいるのかもしれない。自分の環境では、ノイズキャンセリングがついていない他のBluetoothのヘッドセット(マイク付きイヤホン)でも、同じような症状が出て使えなかったりしたので、PCやイヤホン側の仕様の組合せとかも要因になっているのかもしれない。ただとりあえず自分はそれで解決したので、それ以上深入りして調べたりはしていない。


 ここでは偶然同じような症状に陥っている人に、「とりあえずノイズキャンセリングを切ってみる」とか「外部音取り込みモードを試してみる」というトラブルシュートのヒントを置いておこうと思っただけ。


分かったきっかけ

 SONYのワイヤレスイヤホン・ヘッドホンのサポートのウェブサイトで、
パソコンのビデオ通話でワイヤレスヘッドホンを使う | Sony JP

  • ビデオ通話用アプリでは、「ヘッドセット」を選択するのが正しい。
  • 「スピーク・トゥ・チャット機能」が有効だと、ヘッドセットからの音声が消音されることがある。

というのが書いてあった。
 それで「スピーク・トゥ・チャット機能ってなに?」と思ったら、SONYの一部製品で採用されている「相手の音声をマイクで取り込み聞きやすくする機能」とのことだった。それでノイキャン機能が関係ある場合もあるんだ、と思って試してみたら、たまたま合っていた、という感じ。

本気でハマっていた何かを、「やめてない」という気持ちでやめていく

 ネットで漫画やイラスト、小説やブログを書いてた人が、ふっとやめてしまってさみしい、というのはよくある。外側から見ると急にやめちゃったようにしか見えないけど、内側から見るとむしろ「別にやめたわけじゃない」という認識なことが多いんじゃないかと思っている。
 はっきり「やめる!」と決意してやめた人は少数派で、「まだやってる」の気持ちは持ち続けたまま、実績としてはやめた状態がずっと続いていく。


 自分自身のケースだけど、以前はてなダイアリー/ブログで創作(お話)をせっせと書いていて、その後カクヨムに移った。2005年5月くらいから始めて、2019年3月に終わっている。まる2年以上更新してなければ、外側からは「やめちゃったんだな」としか見えない。でも本人は「別にやめたってわけじゃないけど……」と曖昧に思っている。
 このズレが、熱心にやっていたことを急にやめてしまうケースに割と共通しているんじゃないかと想像している。


 07年にTwitterが流行って、当時はてなダイアリーを書いていた人たちも軒並み始めていた。その後みんな、はてなダイアリーを書かなくなっていった。自分だけ取り残されたみたいで悲しかった。「ちょっと待ってよあなた百傑だったじゃん!」みたいな気持ち今もある。これも同じような感じだったのかもしれない。
 はっきり「やめる」と宣言してやめる人もたまにいる。自分が追ってた人だと一人、「もはや匿名ダイアリーの方がリーチする時代になったのだからやめる」と言ってはてなダイアリーをやめた。14年8月のことなので、もう7年近く前のことだった。
 しかし明確にやめると言ってやめた人は少ない。特にやめる気があったわけでもなく、何となく足が遠のいていった結果なんだろう。


 自分自身を振り返ると、小学生の時は模型にハマり、中学生の時はパソコンにハマり、高専生(1~3年くらい)の時は絵画にハマって、高専(4年~専攻科)と社会人初期に純文学にハマっていた。どれも時間と熱意をかなり傾けてやっていたのに、最後は曖昧に離れていった。どれも離れた当初は「別にやめたわけじゃない」と思っていた。同じことをずっと繰り返している。


 この(創作じゃない方のサブアカの)はてなブログも、そんな感じでそのうちやめていくのかもしれない。先月は何も書いていなくて、仕事が忙しいと単に余暇の時間が減るだけでなくて、その減った余暇の時間も疲れた頭をゲームみたいな単純作業で労るくらいしかできなくなったりする。


 どうしてやめちゃったんだろうかと考えると、
技術や知識のレベルが上がって楽しい
→だんだん難しいことにチャレンジしていく
→徐々に「楽しい」を得るための「大変」のコストが上がっていく
→別の新しいことに興味が出てくる
→そっちの方が「技術・知識の獲得初期」で楽しいので流れていく
→時間が空くと技術・知識レベルが低下してさらに足が遠のく(取り掛かる心理的ハードルが上がる)
→完全に離れてしまう
みたいなサイクルを繰り返しているようだった。(やめる時に「やめたわけでは必ずしもない」と当人が思ってる、というのはそこそこ一般的な話なんじゃないかと思っているけれど、このやめる機序・サイクルが一般的に共通している、とまでは思ってない。)


 小学生の時の模型も、最初はガンプラを組みなりに組んで、パーツを好きに他のと交換したりして、かっこいい、楽しい、それだけだったのに、塗装を始めるようになり、ジオラマを作り始めて、そこそこでかい鉄道模型ジオラマに取り掛かったところでふっとやめてしまった。
 絵は、高専の美術部(部員が2人)で油彩の人物画をずっとやり続けて、県や市の美術展で賞をもらえるくらいにはなって、水彩もやるようになって(やり直しが効かないので水彩の方が難しかった)、さらにキャンバスのサイズも大きくして単なる肖像じゃないものを、と進んだところで途中まで描いてやめてしまった。絵そのものはあげたり捨てたりして何も残ってないけど写真があった。祖母を描いた油彩画(16歳のとき)と、同級生を描いた水彩画(17歳のとき)↓ 懐かしい。今道具が目の前で揃っててももうできない。



 やめてしまっても全部無駄ってこともなかった。
 パソコンにはまった後に高専の情報系の学科に入って今メーカーで働いてるのもそこきっかけだった。絵も描くのはやめたけど当時それなりに過去の画家を知ったおかげで今も美術館や博物館を上手に楽しめるようになれた。純文学は小説を読むのに批評やエッセイもそこそこ読んだおかげで、ものを考えるベースが今も役立っていてありがたい。
 ただ、「何かしらの役には立っている」と「それそのものを辞めてしまった」は全然別の話でしかない。


 改めて「やめてしまう」機序を眺めてみると、楽しいを得るコストが上がっていく中で、そこを耐えられる、そこでやり続けられる人はやっぱりすごいし、つくづく尊敬する。大人になると、(スポーツのトッププロ選手などでない限り)その分野に対する生得的な才能の有無というより、努力を継続できる才能の有無の方が、よほど重要だと感じるようになってくる。
 生計を立てる手段=仕事にする、(偏執狂的に?)自己のアイデンティティとして規定している、あるいは本当に好きでたまらない/そうせざるを得ない切実さがある、など上がっていくコストやハードルを超えて継続するインセンティブの与え方はいくつか考えられる。しかしそれらは自身でコントロールするのは難しい種類のものだ。


 動機を強化する=大きくなったハードルを超える方向でのコントロールが難しいのなら、ハードルをほどほどの大きさに抑えて、楽しみを感じやすい状態にすれば良い、という話になってくる。
 だんだん難しいこと、大きなことをやりたくなってきて、でもそうするとハードルが上がって、中途半端に着手したまま放置して離れてしまう。それなら放置しないぎりぎりの難易度とサイズに意識的に抑えて、さらに自分にとって「やっていて楽しい」が何かをはっきりさせて、そこを失わないようにやっていけば、「やめちゃう気はないのに/できれば続けたいのに、なんとなくやめちゃう」にならずに済むかもしれない。あとは仕事が忙しくならないようにする、ワークライフバランスを整えるのは前提になってくる。


 と、ここまで書いたところで、「ほんならあんたがやりゃあええがね」と自分に言われたので、とても久しぶりにお話を書いてカクヨムにアップした↓
  RTAごんぎつね - RTAごんぎつね(OjohmbonX) - カクヨム


 別に「やらなきゃいけない」ってこともないけれど、他の人に「あの人がやめてしまうのは悲しい」と思うんだったら、まず自分でそれを回避する方法があるものか試すのが先か、と思って。