やしお

ふつうの会社員の日記です。

岸田秀「日本近代を精神分析する」

 『ものぐさ精神分析』所収の「日本近代を精神分析する」が、あらためて読み返してもやはり示唆的で面白かったのでまとめてみた。


 日本は精神分裂病的であり、内的自己と外的自己が分裂した状態にあるという。
 鎖国時代は外国(中国やオランダ)との付き合いを一方的に絶交できる幼児的な関係だったが、外圧により突然開国を迫られる。築いてきた価値観を今すぐ否定せよという。しかし自分の価値観を否定することは容易くない。そのジレンマの中で日本は、これまでの価値観は内的自己に押し込め、外圧に屈する現実は外的自己として立てることで対処した。そこから精神分裂病的な状態がスタートする。
 それは尊王攘夷論や和魂洋才(和魂=内的自己と洋才=外的自己)として幕末期、明治期に顕在化した。それまで細々と続いていた尊王思想が急に一般化したのは、天皇の歴史によって内的自己=旧来の価値観を補強するためである。


 内的自己=自分固有の価値観の否定はつらい。そこで内的自己を別の対象に投影し否定することで慰める。その対象が朝鮮である。西欧が植民地を家畜扱いして差別したのに対して、日本の征韓論朝鮮人を徹底的に日本人化した上でこっそり差別した点に表れている。
 またここには「攻撃者との同一化」(フロイト)も見られる。欧米→日本という攻撃者→被攻撃者の構造を、日本→朝鮮とスライドさせる。幽霊が怖い子供が、自分で幽霊の格好をして怖さを紛らわせるのと同じである。
 自己同一性(外的/内的自己の統一性)を破壊された者は、他者の自己同一性の破壊に対して鈍感である。朝鮮の植民地化が「かえって朝鮮のためになった」と本気で考えている人がいるのはそのためである。


 そうして慰めながらも、分裂は構造的に進行してゆく。
 現実との接触を失った内的自己は、純化・美化され妄想的になる。皇国史観が日本古来の文化を強調し中国や朝鮮の影響を過小評価するのは、分裂病者が実の両親を認めず神の子や皇帝の落胤を自称するのと同等である。
 妄想的になった内的自己は外的自己を「本当の自分ではない」と否定するようになる。外的自己が「敵の同盟者」のように見えて実際以上に他者を驚異的に見せてゆく。


 このように進行する分裂に耐え切れず、仮面を外して「真の自分」として生きようとするとき、精神分裂病は発症する。これがアメリカへの宣戦布告である。
 外から見れば狂っていても、現実感を失った内部から見れば真剣な、自己を取り戻す戦いである。特攻隊なり総玉砕なり精神戦になるのも、非国民として外的自己を排除するのも当然である。これは一部の支配者の強制ではなく、国民の側に心理的に受け入れる準備があったからできたことである。


 精神分裂病は、現実を無視して内的自己を押し通す=徹底抗戦=発病期か、外的自己を立てて内的自己を守る=全面服従=病前期かの極端な選択肢しか取り得ない傾向にある。中間がなく突然切り替わる。
 戦後、アメリカに対する態度がまるで転回したのはこのためである。国際社会に認められようと努力し、外国の評判を気にするのも外的自己を立てている以上当然である。


 戦後の経済成長は一種の内的自己と外的自己の妥協である。戦後「戦死した仲間に申し訳ない」と仕事を頑張る人が多かったが、それは戦時中の努力と経済活動での努力を同一視しているためである。戦争という露骨な発露なしに、あくまで外的自己を表に立てつつ内的自己を表現したのである。
(なお集団心理、国家心理を個人心理と同列に語る妥当性については「国家論」というエッセイで別に論じられる。)


※こうした話を見ると今、反中・反韓と同時に再軍備が論じられるのも発病期に向けたフェーズのように見えてくるね。


ものぐさ精神分析 (中公文庫)

ものぐさ精神分析 (中公文庫)

蓮實重彦『映画はいかにして死ぬか』

 80年代前半の講演を収めた本書の第1講「映画はいかにして死ぬか」では映画の歴史性について語られる。1895年に映画が誕生し、1950年代に崩壊の兆しを見せ始め、1973年に崩壊に自覚的になお撮ろうとする人たちが登場した、という話である。最近読み返したのでまとめてみた。


 音を獲得した20年代末から50年代始めまでの20年間で「古典的なハリウッド映画」の安定した形式が成立した。それを支えたのは、何となく映画業界に入り込み、業界の中で鍛えられて一家をなした人たち、例えばフォード、ウォルシュ、ドワンといった監督たちである。日本で言えば溝口、小津、マキノといった30年代を支えた監督たちが対応する。体質的に映画の語り方を学んだ人たち。


 第二次世界大戦直後に世代交代が進んだが、大学を出て映画以外で積んだ教養を評価されて登用された監督たちが登場した。
 彼らは前の世代より教養も知識もあるしハリウッド的な楽天性を再生産するわけにはいかない。しかし新しい作品をプロデューサーに認めさせる実績もない。そこで既存のジャンルを利用しつつ社会批判を盛り込みながら、かつ演出の手腕がずば抜けていないといけない。それがロージーの「緑色の髪の少年」、レイ「夜の人々」、オルドリッチ「アパッチ」、ポロンスキー「苦い報酬」、フラー「拾った女」といった作品である。


 しかし彼らは50年代のハリウッドの危機にさらされることになる。それは赤狩り、テレビの興隆である。
 大学出身の彼らは左翼知識人との付き合いが多かれ少なかれあったために赤狩りの餌食になる。亡命するか、亡命する経済的余裕がなければ仲間を裏切るしかなかった。
 またテレビの興隆で映画の集客力が薄れ、優れたB級映画の職人監督たちがテレビに流れることになった。ハリウッドが持っていた二流三流の映画を量産して資金を回収する反復、再生産の場が崩壊した。
 またテレビとの差別化のためシネマスコープヴィスタビジョンなどの大型スクリーンを開発、たとえば「クレオパトラ」などの超大作を撮り始めることになる。超大作は人件費が高騰、スタジオに大きなセットを組めなくなり、人件費の安い他の国に出かけることになった。ここでハリウッドはスタジオ・システムの終焉を迎える。
 最初はメキシコに行く。風景が似ているため西部劇がよく撮られたが天候の変化が激しいという欠点があった。次はスペインで郊外にハリウッドと同じスタジオが作られる。50年代終わりから60年代始めに、あの大学出の監督たちが動員される。例えばレイの「北京の55日」における北京はスペインである。肉体的にもアメリカでの撮影と比較して辛く、才能のある監督たちが使い潰されていく。
 こうしたスタジオ・システムの崩壊は10年ほど遅れて70年代の始めに日本でも起こることになる。


 スタジオ・システムとは、各制作会社が専属の俳優・監督・技師を抱えて会社の特色をもった作品を量産する体制のことである。これが崩壊すると言うことは、映画の技術者も失うということである。
 例えば雨ひとつとっても、雨はそのまま撮っても雨に見えないという困難がある。例えば雨の向こう側から照明を当てて雨を黒く浮かび上がらせるなどの必要がある。雨の降らせ方ひとつにも会社ごとの方法があったが、それが失われていく。
 雪の降らせ方であれば、今村「楢山節考」、ダンテ「グレムリン」、コッポラ「コットン・クラブ」といった作品にはもはやそうした技術は失われており、例えば山中「河内山宗俊」は、ただ紙吹雪を降らせてあるだけであっても、その降らせるタイミング、見せ方などの技術によって風景を異化する力を備えている。


 フランスのヌーヴェルバーグが一段落した後の72,3年、50年代の歴史に対して自覚的な監督たちが登場する。スペインのエリセ、西ドイツのヴェンダース、スイスのシュミット、ギリシャアンゲロプロスアメリカのイーストウッドなどである。
 ヴェンダースがレイを自作に俳優として登場させ、シュミットがサークのドキュメンタリーを撮り、エリセがアメリカからは失われたかつてのハリウッド的な技法(映画の構成、気候の捕え方、地平線の位置といった基本的なところから)を駆使して「ミツバチのささやき」を撮り、イーストウッドが雨や雪と共に消えた「若者を支える老人」を登場させる。
 彼らは「50年代アメリカをアメリカ人は忘れている」という意識を背負った映画監督なのである。それが外国人であったり、西部劇のスター俳優であったりする。スタジオに大きなセットを組むなどはじめから考えていない。映画は日々いろいろ失っているがそのことに自覚的であることが倫理的なのだ。


 「映画はいかにして死ぬか」は「映画はこうして死んだ」ではない。死の予感がいたるところにある。映画は永遠のものではなく、きわめて歴史的な体験なのだ、という意識を欠いて映画を語ることは、抽象的な言説しか生み出さない。


映画はいかにして死ぬか―横断的映画史の試み 蓮實重彦ゼミナール

映画はいかにして死ぬか―横断的映画史の試み 蓮實重彦ゼミナール