やしお

ふつうの会社員の日記です。

ティムール・ベクマンベトフ 『ウォンテッド』

 見る者を苛立たせずにはいない作中人物たち、なかんづく主人公の馬鹿っぷりを作中で徹頭徹尾、野放しにするという悲惨な事態は、最大限好意的に解釈すれば作り手が続編でこれを大きに相対化するため、ということになるが、常識的に解釈すれば作り手も馬鹿だからである。
 途中式を省いて現象のみいくつか列挙すると以下の通り。
・多少肩がぶつかった程度で情けない顔をして"I'm sorry"を連発していた主人公が、訓練を経て殺し屋になり、ターゲットを射殺した後、余裕たっぷりににやにやしながら"I'm sorry"と言う。
・自分を嘲り続けていた恋人との部屋へ殺し屋になった主人公が忘れ物を取りに戻った時、今の俺はもう昔の俺ではないのだ、馬鹿にするなと言わんばかりに、アンジェリーナ・ジョリーとの濃厚なキスを彼女の目前でする。
・映画の末尾、主人公がカメラを見据えて観客に向かって「俺は本当の俺らしさに出会えたが、あんたたちは今の生活で満足なのか?」みたいなことを語りかける。
 挙げればキリがないが、それほど愉快な作業でもないから止めにする。
 弾道を曲げて障害物の陰に隠れた標的を打ち抜く訓練をどうしても達成できない主人公に、最後のテストの時、自らが障害物となって標的と主人公の間に立ったアンジェリーナ・ジョリーは、撃ってみろと言う。そうして主人公の撃った弾は彼女の顔の脇を擦り抜け、標的に着弾し、主人公はその技を見事獲得するに至るのだが、この場面で呆気なく失敗し、ジョリーの額を弾丸が打ち抜いてそのまま死ねば面白いのに、と思ったけれど、例えば北野武ならばともかく、そうした苛立たしさとは逆方向への飛躍を期待するのは過ぎた願いというものなのだ。