やしお

ふつうの会社員の日記です。

ジョナサン・デミ 『レイチェルの結婚』

 捏造された透明さから意識的に身を引き剥がす、すなわち観る者に視線を意識させずにはおかない手持ちカメラによる撮影が、ここでは、かつて阿部和重が「疑似ドキュメンタリー」として批判した種類の効果をしか挙げられない。結婚式とその準備の記録係としてビデオカメラを手にした新郎の弟のみならず、結婚式の当日には大型のビデオカメラを肩に担いだ男までがフレームインする事態に遭遇する。どうやらこれは、透明さの嘘に作り手が耐えられなくなったから、というより、別の透明さの捏造を観客に強いる身振りらしい。つまり、この視線は誰というわけではない、名前のない、結婚式の参列者の一人、集会の参加者の一人、家族の一人の視線であることを了解してくれと強いる身振り。こういった観る側の俗情に丸々依拠して憚らない容易さへ安住する刺激のなさ、映画が遂に仮構でしかあり得ないことを引き受けられない、同時にそれ故にこれが真実であると断じられない作り手の弱さに、私たちは到底耐えられない。
 せめて、これは死者の、幼くして死んだ家族の子供、イーサンの視線なのだ、という形で映画が仮構であることを断言してくれればと思うのである。
 もっとごく単純に言って、例えば映画の始め、更正施設から一時帰宅を許されたキムが父と継母の乗る自動車の中の撮影、あのクロースアップの連続はとうてい直視に耐え得るものではない。同じく手持ちカメラにより撮影された『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でトラックに乗るセルマの横顔が、車の外側にくくり付けられたカメラを手にしたラース・フォン・トリアーによって、適度な距離で撮影されたことや、『世界』でジャ・ジャンクーによって撮られたタオとアンナの完璧な長い長い無言の移動撮影を知っている私たちは、いくら何でも、と考える。


 と、悪し様に語っておいて何だけれど、この映画はそれほど何も考えずに撮られたという種類の映画ではない。例えばキムがかつて事故で死なせた幼い弟、イーサンをめぐるキムとレイチェルの不毛な言い争いの最中、全くの唐突さでレイチェルが自分が妊娠していることを明かす。周りにいた彼女らの父やレイチェルの明日結婚する夫が驚いて祝福する。キムがこういう形で諍いを有耶無耶にすることの不当さを一人訴えても父親は妊娠しているのだから、と理由にならない理由で退ける。こういった人間関係の(特に家族の)嫌らしさは、作り手に何かそういった体験があったはずだと、思わず唾棄すべき共感を伴う下種の勘ぐりをしてしまうほどよく描かれている。キムと他の人間との距離が常に揺動し続ける。施設へと帰るキムと穏やかに別れた後、レイチェルが小さくジャンプして天井にタッチするアクションも良かった。