やしお

ふつうの会社員の日記です。

めんどくささの果て

 独居でない高齢者のミイラ化した遺体なんかが見つかって、「死体と一緒に過ごせるとか頭がおかしい」とか「年金不正受給だ許せん」とかいうコメントを(ヤフーニュースなんかで)見るたびに、それはそうだけど、そのトーンで言うほど大それたことじゃないんだろうなと思う。
 もっと単純に、めんどくさかっただけなんじゃない。死亡の届けを出したり何だり、も少しさかのぼって、親を病院に連れてくことのあれこれが。
 やらなきゃなーと思っていたまま、ほんの少しのハードル(めんどくさい)のせいで伸ばし伸ばしにしてたら時機を過ぎて、そのまま放置ってよくあるから何となく気持ちはわかる気がするよ。っていうとコメントの人たちは「でも『普通』の人ならちゃんとやる」とか「親の死体は『普通』放置するレベルじゃない」とか言うのかな。


 自分が元気な時なら、世間の目やその後の自分の信用なんかを気にできる程度に元気な状態だったら、ハードルは高く見えずに越えられるかもしんない。その元気な状態を「普通」と呼ぶなら、たぶん親の死を放置した人たちの普通はその「普通」じゃなかったと思う。
 だってうちの母親60だけど、いっつもしんどいってゆうよ。50歳くらいならなんでもなかったあれこれ、外出だったり料理だったり、今はすぐ疲れるからやらなくなったみたいな話をよく聞く。
 あとすっごい眠いときあるじゃん。もう絶望的に眠くてベッドに倒れるときって(歯ぁ磨かないと気持ち悪い)とか(風呂入らないとべたべたする)とか(いま寝ると夜寝られなくなる)とかあれこれ思っても、その全てを放棄して、もう、いい、って寝る。それか無理やり朝起きた時の、頭ふらふらする感じ、もう何もできそうにない状態。あるいはインフルエンザにかかって悪寒がする状態。
 たまに思うのは、ひょっとして年をとるとあれに近いとまでは言わなくても、あの5分の1くらいの状態が恒常的にやってくるのかもしれないってこと。そうならたぶん、生きるだけの生活を最低限維持するだけの振る舞いしかしなくなる気がする。


 そういったあれこれに思いを巡らせると、何か明確な意志をもって遺体を放置したというより、ただもう気力が湧かなくて、知らない警察の人に電話したりあれこれ対応するのが面倒臭くてそのまま置いておいたら、臭くなってきちゃったけどやっぱり今人に見せたら「なんで放置したんだ」って責められそうと思って黙ってることにしたし、それで生活は続いているので続けてたら、役所の人がきて所在を聞かれたけど、ほんとのこと話すと面倒だとおもってとりあえず、「親戚に預けた」「親戚の所在は知らない」とその場限りの嘘をついてみたらバレて、なんか逮捕されてた。っていう感じじゃないかしらと思うの。
 総計で最もハードルが低くなるルートを選択できるのは余裕があるから可能な方法であって、まず目の前のハードルの低い側を選択する、この繰り返しをギリギリでこなすだけの状態の人もたくさんいる。別に体力気力の衰えだけでなくて、どうしても考えることができないという人だっていっぱいいる。


 そりゃまあ、親が死んだときに「っよーし! ぜったい隠蔽するぞ! 不正受給だ!」と決意、積極的に放置してた人もいるかもしんないけど、それよりかは短絡的に楽な方を選択し続けた結果だった、の方がまだしっくりくるよ。
 そう考えると、今の高さのハードルを越えろって元気のないかもしんない人に求めるよりか、ハードルの高さをもっと低くできないか考えた方が建設的かもね。なんか……「いいね!」ボタン風の「死ぬね!」ボタンがあって親が死にそうになったら気軽に押せて黙って業者が親を処置してくれるとか……? わかんない……


 もちろんヤフコメにもう一歩の想像力を求めるなんて、マックによりよい接客を求める以上にお門違いのことだから、ぼくはぜんぜんそんなこと求めてないんだ。ヤフコメにはこの調子でさらに想像力のない発言を繰り返して欲しいし、やっぱりマックはもっと接客態度がルーズでいい。
「で?」(ご注文をどうぞ)
ビッグマックセットをひとつ」
「ん」(お飲み物は何になさいますか)
「ホットコーヒー」
トントン(レジの値段表示を指で叩いてる)(650円です)
「ん!」(350円のお返しです)「右ィーッ!!」(にずれてお待ちください)
 くらいの。




【補足】
 これ書いた後でふと思い出したのは、自分の祖母と叔父のこと。
 祖母と叔父は田舎で二人暮しだった。母や僕は墓参りついでに3〜6ヶ月ごとに訪ねるだけ。
 それまでも祖母の認知症が少しずつ進んで寝たきりになっていたのは知っていたけど、7年ほど前にある日尋ねたとき、ほとんど意識もなく、床ずれが悪化して骨が露出する寸前にまでなった祖母が見つかった。
 このまま医者に見せずに亡くなったら変死扱いで大変なことになる、みたいな説得(?)を母が叔父にして、祖母は入院することになった。それからは母も僕もそれなりの頻度で、意識がはっきりしたりしなかったりする祖母を見舞うことが1年ほど続いてから、祖母は亡くなった。
 叔父はたぶんもともと人付き合いが好きな方ではなくて、祖父の戦争の年金(?)と祖母の年金で暮らして仕事もしていなかったから仕事上の付き合いもなく、母や僕にも遠慮がちに話すようなタイプの人だった。その一方で田舎は狭くてすぐに、どこそこの誰それが何したどうしたという話が広まって煩い。そんなこんなで救急車を呼ぶこともせず、誰にも特に相談しなかったんじゃないか、と母は言うけどほんとのとこはわかんない。
 ただ、その話をするときに母は叔父を責めるようなことは一度もいったことはないし、たとえば僕も叔父を責めようという気は全く起こらない。それは、さしあたって大事が起こっていないからそのまま流すという態度を自分たちも取っていたから、という後ろめたさも手伝ってるのかもしれない。


 そんなこともあって、高齢者ミイラ発見のニュースを見ても、人ごととはとても思えないし、上のような経緯を想像してしまう。
 きっとヤフコメの人たちなら「実際にお祖母さんを苦しめたのはお前たちじゃないか」と詰るんだろうなと思うし、それは事実その通りなので言い返す言葉もない。ただ、手放しで責めることが出来るのは幸せなことだなと思うばかり。
 ここ最近、自分の母親や父親がどうにかなったときに自分はどうするんだろう、ということをたまに考える。本当に今の生活を捨てて、会社を辞めて地元に戻って介護、という選択ができるんだろうかと、ぼんやりとはっきりの中間くらいで考えることがある。
 今のうちに十分に調べて、取り得る選択肢を挙げ、その中から「総計で最もハードルが低くなるルート」を各場合について選択しておき、ときが来たらただ選んでおいた処置を機械的にこなす、というのがいいんだろうねと思いつつ、そこまではまだできてない。
 本来、親の介護にせよ子育てにせよ血縁者に帰する理由はなく、社会が負う筋のもの、と思っていても現実そうなる見込みもないので、せめて(親の感情を内面化する作業も含めて)自分が最大限満足できそうな選択を、自分自身がある程度元気な状態のうちにせいぜい準備したいな、ってこと。