やしお

ふつうの会社員の日記です。

自炊のひみつ、ンーハハチャー

 よくわかんないけど一人暮らしはじめて3ヶ月がたった。自炊をはじめて3ヶ月。食事がまずかったことは一度もない。
 ずっとどうしてだろうって思ってた。なんで自分でつくる食事はまずくならないんだろうって。
 たぶんこれが一番おおきいんだろうなってのは、自分の料理は他人の料理と違って自分で作ってるってことだ。あたりまえだ。自分で作っているということは、完成までの過程を知っているということだ。そして口に運ぶ時点では、過程から想定される範囲の味がそこにあるというだけで、驚駭はもたらされない。


 ちょうど今日つくったチャーハハンのことを考えてた。さいごに香りづけのために醤油をまわしいれる。ここまではいつもどおり。今日は色気をだして、お酢を入れてみた。入れすぎた。ちょっとチャハーンンがべちゃべちゃしてる。食べた。まずくない。考えたとおり、ただすっぱいだけだ。
 もしこれを他人にチャーハンだよって出したら?
「っぁーんだ、これぇ!?」
ってなるに決まってる。すっぱい!まずい!ってなる。


 ある種の「うまい」「まずい」って、口に入れる前までの諸情報から推測した味と、実際に口に入れたときの味との落差から生まれるのかもしんない。もうどうやってもまずいの領域に到達している物体は、もうまずいわけだけど、許容範囲の中でもややまずい側にいるものについては、その前の立ち位置との距離の大きさによって「まずい」「まずくない」に分けられてしまうんだ。


 たとえばチャラい男子が「おっぱいもみたい」って言ったら? ふつうだよ。でも普段まじめな男子が「おっぱいもみたい」って言ったら? 急に変態に見える。これだよ。許容範囲の中でのやや変態の側の発言については、その前のまじめ度からの距離の大きさ、コントラストで変態かどうか決定されてしまう。もちろん、「老人ホームの外壁に精液をかけると興奮するので週末はいつもしています」とか言いだしたらだめだよ。チャラいもまじめもない。完全に変態だよ。もうどうやっても変態の領域に到達している発言だからね。


 まじめにチャーハンの顔してるのに、なんかちょっとすっぱかったら、まずい!ってなるかもしれない。でもぼくにとっては、目の前でちょっと許容量を超えたお酢を吸ってる姿をすでに目にしてるわけだから、これは変態のチャーンだってわかってる。それでちょっと変態みたいな味がしてもべつに何とも思わないんだ。自分で作れば事前に想定する味と実際の味との差が大きくなることが少ない、それで他人の料理よりまずいと感じる頻度が低下するのではないかしら。
 もちろん許容範囲の中には収めてないといけない、っていう前提はあるけどね。チャハー!


 あとは、コスト(手間)をかけた分、まずいなんて認めたくないっていう心理なんかもあるのかもしんない。


 ところでまだ3ヶ月の経験しかないけど、まずい側に振れてくときってのは素人目にもはっきりしてる(明らかに色がおかしくなっていくとか、べちゃべちゃしていくとか)のに、うまい側に振れるときってのは見た目にはよくわかんないときが多い気がする。普通においしいときと、すっごくおいしいときの見た目の差が少ないイメージ。こう、見た目にはっきり表れない程度の、ごく微妙な分量やタイミングの細かい差がつみあがっておいしいが成立してる感じ。それでいつもの普通のンハーンハーだと思って食べたらやたらおいしい!ってなることがたまにある。
 おいしさを寄ってたかって成立させているその細かな差異たちに自覚的でないから、今度は「うまい」方向に大きいベクトルを享受できるんだ。
 それで「まずい」側の機会は減り、「うまい」側の機会は増え、全体に「うまい」側にバイアスがかかったように見えるというか。


 でもそう考えると、腕があがってそれら細かな差異に自覚的になるにつれ、おいしさの驚きを得る機会を次第に失っていくことになる。「うまい」方向のベクトルは徐々にその大きさを縮めてゆき、いつかは大きさゼロに達して感動は消滅する。でも悲観することはない。必ず世の中には自分の想像を超えて、うまい側に位置してベクトルに大きさを与える存在が尽きることなく存在し続ける。そんなーンャーがある!
 そういうこと言い出すと、旅にでることになる。中華一番!の世界。国士無双を表現したチャーハンとかが出てくることになる。そんなのいやだ。だってまだ引っ越して3ヶ月なのに、なんで旅にでなきゃいけない! 中国から会社には通えないでしょ? ぼくはまだ川崎市に住みたいの! もう。なんなんだよ……