やしお

ふつうの会社員の日記です。

くそガキとその保護者への寛容さ

 さわがしい子供に対して、自分がとくべつ不寛容だったとは思わない。ファミレスで走り回っていても、電車で泣きわめいていても、ことさら不愉快な顔をしてみせたりはほとんどしてこなかったと思う。それでもたまに、そんな子供を放置している保護者に、かすかに非難めいた視線を送ったことが何度かあったかもしれない。そのぐらいのことは正当なことだと思って自分に許していたんだ。
 でも最近、そんな視線を送ることすらする気にならなくなった。実際にくそさわがしいガキのお守りをしてみると、とてもそんな気になれなくなったんだよ。


体裁がオフになるプロセス

 この前実家に帰ったときに、姉とその息子二人とショッピングモールへ行ったんだ。
 到着するなり弟3さいが泣きわめく。彼の主張はこうだ。兄ばかりがDSをして自分はぜんぜんやってない、ずるい! しかし彼はここにくるまで一度だって「ぼくにもやらせて」なんて言ってない。ずっと兄の横からにこにこDSの画面をたのしそうに見つめていたのに、ついた途端にこれだ。
 母親がモールの入り口で無理やり子供用カートに詰め込んでも這い出してくる。大声で泣き叫びながら。それを母親がまたなだめすかして詰め込む。這い出すの繰り返し。周りの人たちがそれを見てる。微笑を浮かべる人もいれば、眉をひそめる人もいるし、何かささやきあってる人もいる。そのときぼくは兄5さいの手を引いて、それを遠巻きに眺めてた。
 ぼくは怖かったんだよ。あの視線の中に入るのが怖かったの。
 はっきり覚えてるけどあのときたしかに、とりあえず兄弟を引き離しておくことが得策だとかあれこれ思ってそうしていたけど、あれは無意識に、自分自身に向かって言い訳をしてたんだなと今となっては思うよ。


 でもそんな回避が通用し続けるわけがないんだね。
 手を引いて歩いてた兄5さいが「ねえみてみて」ってゆったかと思うと、ぼくの手と壁の手すりを支えにして、柱を蹴上がって、ちょうど逆上がりみたいな感じでくるんっと回ったんだ。わー、すごい。そんなことできるんだねー。でもショッピングモールの柱をけるのはやめようね。というぼくの設定した禁止は、彼にとって破るための遊戯の制約でしかなく、そこから壁に近づこうとする彼と阻止しようとするぼくの遊びが不可避的にはじまってしまう。でもねえ5歳児。重いのよ。うれしそうに本気でうでを何度も引っぱるけど君、おじさんはいたいのよ。そうやって体力が削られてゆく。
 そして脇をとおりすぎる人の視線も受ける。


 おじさんもがんばっていろんな工夫をしました。
 カートを押してどこかへ走り去ろうとする弟3さいを、なんとか人のいないコーナーに追い詰めてみるとか、走り回ることを忘れさせようと、幼稚園の話をいっしょうけんめいするよう質問をくりかえしたり、周りに影響を与えないような遊び、たとえばじゃんけんして勝った方が相手のほほをつねるあれに没頭させたり。
 ほんとうになにか、楽しそうにきゃっきゃしてる彼らを見ると、ずっと見ていたいという気にさせられるものだけど、それはそれとして、おじさんの体力と気力は摩滅してゆく。


 それでついに、母親がいない時に兄弟二人がカーペット敷きの通路にふざけてころんと寝転がった時、ああ、この二人を引き上げるのは重いだろうなあとか、ここはそんなに人の邪魔にはなってないよなとか、なんかしらんがかわいいなとか、あれこれの思考がいっせいに立ち上がってきて、思考が停止、もういいやってなった。
 そこから先はもうほどほどに相手をすることにして、もう人の視線も気にしなくなったんだ。
 フードコートにきて二人があさっての所で遊んでても放置。姿が見えなくなるか他人の直接邪魔になってなきゃ放置だよ。ばばあがあからさまに「あんなふうに放っておいて!」の顔してても知らない。モンスターアンクル? もう上等です……


 そんなわけで「さわいでる子供を放置する保護者」を思いがけず体験してみて、ああ、これは体裁が突然ぱちっとオフになるということなんだなと思った。そう考えると今までも似た体験はあってそれは、例えば体調が悪いとき。
 限度を越えて気持ち悪かったり足が痛かったりするときって、もう恥も外聞もなくなる。駅だろうが道だろうが、他人が不審に思おうが格好悪かろうがもうギリギリで手すりにつかまってちょっとずつ移動したりする。そうそう、あの気分に似てる、疲れたり弱ったりすればいつもは保ってるのが当たり前の体裁がいとも簡単に解除されてしまう、壊れる前に体裁がオフになるんだな、とか思いながらどこかへ走り去るご兄弟を追いかけた。


体裁オフを非難するしくみ

 子供がさわいでて親が放置してる。直接だれかに被害が出てる訳じゃないのにその親を他人が憎悪するっていうのは実感からすると、損得勘定の話なんじゃないかなと思ってんの。
 私は体裁を保つのにこれだけ分のエネルギーを費やしてるのに、あんたも同じだけ(かそれ以上)費やさないと私だけ損してるみたいじゃない! っていう。(そう考えると「まじめな人ほど不寛容」ってのもわかりやすい。)
 電車の中で化粧をするなとか物を食べるなみたいな話もそうかもしんない。
 このとき当人の意識としては、いろいろ正当な理由を動員して正義をまとわせていく。音や匂いが不快というような、ひょっとしたら、よくよく考えると当人にとって許容できないレベルでもない理由を無意識に拡大させてその上、「みんなの迷惑なんだから」と対象を周囲に広げてみるとか。それか昔の日本人はこうじゃなかったと、根拠の有無はいったん忘れて過去にまで広げて言ってみるとか。


 そうそう、まえ通勤のときにおじさん二人がけんかしてるのを見たことある。お前は足を広げて座りすぎる。いや、そんなことはない。いいや、そうだ、周りの人はお前ほど広げていない!と「周りの人」代表で対面のぼくが指さされて(え、まきこまないでよ)って思った。
 隣のおっさんの足が密着して不愉快という理由を越えて、もろに「お前もみんなと同じように抑制しろ」の主張が出てる。まだ「足が当たって気持ち悪いので閉じて下さい」って言ってる方が素直でいいや。おっさんたちが朝から喧嘩なんかして……どうせなら
「もう少し足を閉じろ」
「えっ。すいません、てっきり押し返してくるものだから私に気があるのかと思って私もがんばって広げてました」
「おま……!(赤面)」
「(赤面)」
みたいなおっさんのロマンスを見たいでしょ? ぼくは見たくないですね! 朝からそんなの見たくない。(夜ならいいよ)


 保護者の話に戻れば、しつけの問題とみなすってこともあるよね。子供がさわいでるのは親が悪いんだから親を責めてもかまわない。
 実は案外、子供を現に持っている/育てたことのある親の方が容赦なく他人の親に対して不寛容だったりするんじゃないかなと思ってるの。「私はちゃんと子供をさわがせたりしなかったんだから、あなたもちゃんとやりなさいよ(不公平だわ)」の精神、損得勘定でなじるような視線を送るのかもしれない。
 子供がさわがしい/おとなしいの違いに、「親のしつけ」がある程度大きなファクターとして作用しているかもしれないけどそれで全部なわけじゃない、遺伝だかその他環境要因だかわかんないけどいろいろある。自分の子供はたまたまおとなしくて、あの子供はたまたまさわがしい……
 そんな認識を持てれば非難することをやめられるかというと、そういうわけでもなさそう。根本的には損得勘定を契機に発動している以上、そこの理解はあまり関係ないらしい。その先、イライラの止め処もない拡大を防止するという点では有用かもしんないけどね。親のしつけの問題だと反論もなく思い続けられたとすると、損得勘定で発動されたイライラがそのまま他人の親へ向かい続けて増幅させ続けることができちゃうし。


 これは自分の話なんだけど、ちょっと前まで会社の寮に住んでたの。
 もともと整理したり物がきっちりしてる方が好きなのでトイレのスリッパを揃えたり、食堂のいすを閉まったり、浴場の扉を閉めたりきちんきちんとしてたんだ。そうすると誰かにそれをむちゃくちゃにされてるとイライラするんだよ。これはたんに自分が好きでやっていることなんだと、社会正義のためにやってるんじゃなくてただの趣味なんだと、どれだけ自分自身に言い聞かせても、ぐちゃぐちゃにされてるとイライラしてしまうのをやめられなかった。イライラした直後に自分に言い聞かせてそこで押しとどめることしかせいぜいできなかった。


 という実体験から、人を非難する理由から正当性を剥ぎ取る作業をどれだけしても、イライラが発動すること自体を抑えられないらしいと考えていたんだけど、そこが悩みどころだったの。イライラするのもしんどいし、何よりそのイライラが自分の中で正当化されていないわけだから「自分は正しくないことをしている」ということになってしまうので辛い。せいぜいイライラを表に出さないように抑えて自己嫌悪は免れるけど、その作業が疲れることに変わりはない。なんとかイライラを最初から発動させずにおくことはできないかな……と考えてたら今回、とりあえず保護者部門に関してはそれに成功したのでおやおやあ?と思ったんだ。


体裁オフを非難せずにすむしくみ

 今回、自分自身に体裁がオフになる状態がおとずれて「ああ、これは誰にでも条件が整えば普通に起こる事態なんだ」ということがわかりました。それで保護者を非難する気持ちが消えました。
 でもこれは、「自分が体験することで相手の立場を知ることができ、相手に寛容になれました」という中学生の作文みたいな話というよりむしろ、「相手の振る舞いを罰すると、同時に過去の自分自身が否定されることになるため、自分自身を正当化するために罰しなくなるという自己防衛機構のはたらき」の方が実感に近いよ。
(もちろん「自分の過去は棚にあげて相手を非難し続ける」という方法もあるんだろうけど、どうしても一貫性から免れられず、その方法は選択できない不自由さを今の自分は背負っているみたい。)


 要するに寛容になったのは、自分の側を引き下げたから相手への要求も下がった、というだけの話なんだけどね。損得のうち損も得も単にレベルが下がりましたという。寮でイライラしてた話で言えば、自分もぐちゃぐちゃにすればよかったんだという。ばかみたいな呆気ない話だけど、そういうものなのかもね。


 ただ、自分自身を正当化するという点で言えば、損得勘定を正義で糊塗して他人を非難することも、過去の自身にその矛先を向かわせないように他人を非難しないことも、実のところ同じなんだよね。でもこれについてはさしあたって特に解消したい問題だとはぜんぜん思ってないんだ。「自分自身を正当化する」ことなしに生きていけるほど強固にできてはいないだろうと今のところ思ってる。非難すること/しないことがどちらも同じ点から発していて、そこに到達するプロセスがそれなりに知られれば(ついでにどちらを選択するかある程度意識的に決められるようになれば)とりあえずはオッケーかなっていう。


でも体裁オフ万歳はむり。

 こういう話をするとまるでぼくが、くそガキやくそ親どもを許容せよ! と強要しているか、体裁オフを奨励しているみたいに曲解されそうだけど、そんなことを言いたい訳じゃないの。
 損得をめざとく見つけてはその不公平に苛立ってばかりいるその不毛さにずっと苛立っていて、どうにかならないかなと思っていたところ、ふいにある面で解消されてラッキーってなったから、その状況を記録しておこうと思っただけだよ。


 実際、じゃあ体裁がなくなればいいよね、っていうとそれは無理だろうよとは思ってる。
 もともと体裁って、自分が相手にとって了解可能な存在ですよのアピールってのが一つあるんじゃないかしら。
 全員が本能に従って分かりやすく生きてるわけじゃなく、生物の本能から切り離されてめいめい謎の思考をする存在たちと隣り合わせの社会の中で生きていくにあたって、相手が自分にとって安全な存在かどうか確認する方法として、格好なり言動なり何なりで「私はあなたにとって了解可能な存在です」とお互いにアピールするのが体裁じゃないかなと。そうであればこれを完全に消滅させるのは無理だろうな。


 そういえば今回の話も「さわぐ子供を放置する親」が自分の体験によって自分にとって「了解可能な存在」の範疇におさまったからイライラせずにすむようになった、という説明もできるよね。(さっきの「中学生の作文」みたいな方の理由)


 ところでよく、日本は「思いやりの精神」が発達してる、みたな言説を見かけるけど、むしろ「思いやりを強要する精神」が発達しているというのが実感なんだ。ようやく体裁の要求の一つを自分は解除できたけど、まだまだお互いへの要求、全体最適の合理性を超えた要求は強くある。
 日本においては、了解可能アピール以外にも体裁に仮託している「何か」があるために(外国では別のシステムが担保している「何か」を日本では体裁に担保させているために)これほど体裁の要求(世間の強さと言い換えてもいいのかもしれないけど)が特に強くなっている、という話もあるけどここではそこまで踏み込まない。(自分でもちゃんと整理できてないし)
 ただ、「日本は民度が高いんだ!」と鼻息荒い言説を見ると、自尊心が満たされてよかったですねとは思うし、それを「民度」と呼ぶのも構わないけれど、その「民度」がここまで高くなったしくみも考えずに手放しに礼賛するのはどうかしら、とも思うんだよ。




 といったあれこれを考えて、少しずつ体裁オフへの許容度を緩和していきたいな(だって自分もしんどいし)、ってはなし。おわり。