やしお

ふつうの会社員の日記です。

「この眼前の、絶望的な40年の差」への補足

「この眼前の、絶望的な40年の差」id:Yashio:20121116:1353088610


 ちょっとお出かけしているうちに、上のエントリにいっぱいはてなブックマークがついて、そのコメントやエントリのコメント欄で「それはちがうんじゃないかな」という指摘がありました。


 言われてあらためて思ったのは、
・別に「だめなおじさん」を引き合いに出す必要はない
という点で、たしかに差分を強調するためにたははのおじさんを召喚したのは、安易で貧しい身振りでした。また何かを書くときにはその安易な方法、<俗情との結託>としか言いようのない方法はつつしもうと思いました。
 つつしむというか、構造なり何なりがその安易さに落ち込んでいないかの検証が足りなかったということだと思います。(その検証は結構しんどい作業だったりするけど、もちろんどんなブログだろうとどんなツイッターだろうと容赦なく<言論・表現公表者の責任>がかかってくるのだから、やらないとしょうがない。)


 ただ一方で、それは誤解だよーってところもあったので、こういうふうに考えてるんだ、ってあらためて書いてみたい。(書き方が下手だからだと言われれば、そのとおりです。)


・そもそも「すごいおじさん」を職業において目指す必然がない
(・仕事でそれを目指さなければならないと思い込んでるあなたもすごいおじさんも社畜です)
(・ワークライフバランスが言われて久しいのにね!)


 これについてはエントリの中の、

もっとも、すごいおじさんを目指さなきゃいけないなんて強制はどこにもないわけだから、他人にとやかく言う筋合いの話じゃなくて、自分でかってに目指してりゃいいのかもしんない。

無限遠に向かう運動をつづけていくんだ。確信が持てて運動を続けられることそれ自体が歓びだから、たとえ他人からはかなり手前にとどまっていると見なされたとしても、もはや関係がなくなる。

といった部分でそこを担保したつもりだったけど、そういった「ちょいと壁に貼り付けました」みたいな護符には何の効果もないということが改めてわかりました。
 本当に嫌味じゃなくて、現実的にそういったところが読まれることはなく、かなり強調して壁一面に護符を貼り付けておくとか、全体でにじませて押し出すとかいう工夫をしない限り読まれはしない、という認識ができたということです。
 「壁一面護符」について言えば、「だめなおじさん」のフォローを何か具体的に、それこそあちこちで言われてる「でも趣味ですごいかもしんない」とでもいっぱい言えばよかったかもしれない。「全体でにじませる」について言えば、頭で言った<俗情との結託>がどうしてもきいてるんだ。
 そう自分の側で直せると思ってた方が建設的なので、そう考えています。


あとは
・「だめな」というレッテル張り(おじさんの、職場における振る舞い以外の存在をことごとく消滅させている乱暴さ)が不愉快


 今のところこれは可能じゃないのかなと思ってるの。ある面において、客観的に「そうあるべき」が導かれさえすれば、だめ/すごいの弁別は可能だと思ってる。
 ただし、(この「但し書き」が本当に重要だと思ってるんだけどね!!)これが可能になるのは、徹底して相対主義的なものの見方ができているときだけだよ。
 あらゆる体系は、その体系そのものとして完全に客観的であったとしても、その足元において逃れがたく主観的である、という認識。
 体系・システム・ネットワークが各要素・ノードをつなぐ論理・エッジにおいて完全に客観的に正しかったとしても、その前提/公理が主観的に選択されざるを得ない以上、究極的に絶対的なものはあり得ない。
 といった認識を持っていれば、「今」自分はある一面で見て、その自分が選択した体系の上で、正しい/正しくない、すごい/だめ、と言うことが可能である、ということ。根本的に、完全に手放しで「である」と言うことは不可能で、「である」と言い得るのはどこかの点で主観的に何かを選択(意識か無意識かにかかわらず)しているからだ、という認識。
 5年前に書いた(id:OjohmbonX:20070617:p1)のエントリが、その辺のことをもう少し丁寧に書いてて、今のぼくもそんなに認識はかわってない。(なんか貧しいので手を加えたくはなるけど)


 そうは言っても、そんなことを先の記事で読み取ってね、そんな考えを私と自動的に共有してくださいね、というほうがむりなので、前に書いた改善策(?)あれこれをしなかった自分がへたくそだっただけだ。
 ある体系を主観的に選択した上での「だめ」だとは読まれず、完全に手放しで「だめ」と断言している、と読まれたってしょうがなかった。書き方がわるい。
 もう一段念のためにいっておくと、「すごいおじさん」の方にしたって、ある一面で「すごい」と言い得るだけの話なのはもちろんだ。(実際、仕事の質という点ではこのすごいおじさんはとんでもないことになってるけど、スピードがやや犠牲になっていてその面ではふつうのおじさん。)



・だめなおじさんを許容していない


という話については、たしかに先のエントリからは全くわからないので、改めて書いてみます。
 おじさんについては一方で、実際「これぐらいはたのむぜーおじさーん!」といった用件で自分のしようとしてたことを止められたりするとすっごいイライラする。(お前だって他人をイライラさせてるはずだ、自分のことを棚にあげるな!っていう指摘もありましたが。)でも他方で、生物多様性……というほど大げさじゃないけど、こういうおじさんがいていいと思ってるんだ。(断っておくけど「いてもいいですよ」っていう許可じゃなくて「いてもいい/いなくてもいい」その決定は私にも誰にも(会社にも社会にも)及ぶところではない、現に存在している、それだけだ、という見方ができるという意味。)
 この「一方でいらいら」の方は、ある体系(ここでは仕事とか職場とか)を採用したときに真偽を決定できること、に対応していて、「他方でいていいと思ってる」のは、特定の体系を離れたときに、その真偽は決定できないこと、に対応している、と理解しています。


 大雑把にはこんなところで、あと
・でもお給料はおんなじなんでしょ? 君もそのうちそれが分かって絶望するよ?
みたいな下世話なコメントに対しては、「運動それ自体が歓び」ってぼくは勝手に思ってるので、ほっといてくだしぁ!!です。もちろん「運動それ自体」は仕事に限らないしね。




 きっと明日になればはてなブックマークのトップは英語の勉強法か早起きするとはかどる話になってて(ほんとうにぼくは大好きだよ!)、だれもあのエントリのことなんてすっかり忘れてしまうのだから、わざわざこういったことを書くほどのこともなくだまっていればいいのかもしんない。
 でもこれは、ひとつひとつのコメントに対する律儀な返答ではまるでないし(ヒントにさせてもらったよ)、「不快な思いをさせて大変申し訳ありませんでした」という嘘を言うためでもなく、1日たってあらためて、なるほどそういうことか、もっとこうすればいいかもしれない、と思ったところを記録してみたかったというものです。