やしお

ふつうの会社員の日記です。

本のカバーや帯を捨てない人になる ならない

 小学生のとき、本のカバーはごみだと思ってた。ほかの商品のパッケージと同じようなものだと思って捨ててた。
 でも友達に、
「君んちのマンガ、みんなカバーないね」と言われて
(え。しまった、普通はとっておくものなんだ)
とびっくりしながら、びっくりしてないような顔して
「うん。普通はつけとくんだろうけど、ぼくはこういうスタイルっていうのかな、捨ててるんだよね。まあ、どっちでもいいことだけど」
みたいなこと言って、それからは捨てずにつけておくようになった。


 中学生のとき。カバーをつけたままだと読みにくくて嫌だった。でも発見した。カバーの背の部分を本の背に合わせてかっちり折れば、本を開いた時もあんまりふわふわしない。それにジャンプの単行本だと、背の部分にちっちゃい絵が入ってて、並べた時に背がぴったり平らになってるときれいなんだ。
 すごい。完全に正解だと思った。もってたマンガを全部そうして(主にるろ剣。コナンはもうカバーを捨ててたのでどうしようもない)、それからは買うマンガみんなそうした。
 友達がきた。
「なんか君んちのマンガ、手に刺さるんだけど」(背の端がとがってるので)
と言われた。ぼくは
「そうだね」
と言った。折るのをやめた。
 読むときはカバーをいちいち外すことにした。


 高校生のとき。本の帯は捨てるものだと思ってた。たしかにカバーはきれいな絵が入ってたりして商品の一部なんだって考えにはもうなってたけど、帯はだって、つけたままだとびろびろしてハイパー読みづらいのはもちろん、紹介文や謳い文句が入ってるんだから、かんぺき販促のあれだ。捨ててた。
 本屋でバイトしてたとき、レジでお客さんのもってきた本の帯がもう破れてたから、あらやだと思って外して捨てようとしたら
「どうして外すの!」
とあわてて言われたから、ぼくは頭がぼんやりしちゃって
「はぁい」
って言って付け直した。
 それからは買った本の帯をなんとなくとっておくようになった。(つけておくと邪魔なので別にしてとってある。)


 自分の中できちんと理屈がつくと、もうそれが正解にしか思えなくなる。当たり前だと思ってそうしてたのに、でも外から簡単にこわされて、ふつうを目指してあっさり廃棄されてしまう。このくりかえしはまだ、たぶんあちこちで続いてる。
 こんな調子でおじいさんになったらいったいどうなってるんだろう。相当ふつうに漸近してるんだろうか。


 そんなことない。あらゆる場面でふつうを選択してるわけじゃない。
 どうも「ふつう」を知ってる上で自分なりに考えたところ、「ふつう」とは違う結果が導かれたときには、その「ふつう」でない方を選択できるらしい。
 でも「ふつう」を知らないまま自分で考えた結果を実践してるときに、いきなり「ふつう」を突き付けられるとそうはいかない。その瞬間、過去に「わかってなかった」自分が生じてしまう。それを壁に塗りこめて忘れるために、「ふつう」を選択する。あれは間違っていたのだ、と言ってしまう。そうして自分を救済する。たとえもともと考えた結果の方が「ふつう」より合理的であっても、それを隠蔽する理屈を立ち上げて自分を言い含めるんだ。
 自分を救済する措置のせいで、合理的にはなりきれない。まるでアレルギーみたいだ。本当は害なんてなくても、それを害と見なして自動的に攻撃が起こる。そしてただ本人が、無意味に苦しむ結果になるばかりなのだ。
 いや、べつに乗り越えられないほどアレルギーは強く働いているわけではなくて、バイアスがかかってるってだけだ。ただ自分では「ふつう」を選択したことについて、正当な理由をもっていると本気で考えていたとしても、実はバイアスがかかった上でのことかもしれないと気をつけないと、乗り越えられない。


 そんなわけで、みんながふつう持ってる杖がどんなか知った上で、でも真剣に考えた結果、ふつうの杖じゃなくて内田裕也みたいな杖(アマゾンで買った)を持つことにしたタイプのおじいさんになれれば、もし友達に
「ずいぶん派手な杖ですね」
とか言われても
「シェケナベイベー」
って胸を張って言える。