やしお

ふつうの会社員の日記です。

読書感想文 - 消費社同人『THE LAST WANNABIES』

 第15回文学フリマ(2012/11/18)に出品された小説集『THE LAST WANNABIES』各編の読書感想文です。

   http://d.hatena.ne.jp/harutabe/20121117/1353088070


 お題などの縛りのない10人分のハイアマチュアの作品――エンタメ寄りのもの、純文学寄りのもの、あるいはそういった区分が無効なもの等々――を一度に見られておもしろかったです。
 なお年末のコミケ出品と通販もされるようです。
   http://d.hatena.ne.jp/harutabe/20121224/1356348393


・完/未完を超えて 「ノブの話をしましょうか」 明石暮子
・日常の奪還 「右腕フードプロセッサー女」 朝飯抜太郎(id:sasuke8
・全的にだじゃれである 「軽演劇台本「手・股・鼻」」 urbansea(id:urbansea
・媒介者としての振る舞い 「ファック・ザ・システム」 kubomi(id:kubomi
・突き放されること 「勇気一つを友にして」 のりしろ(id:norishiro7
・個人的な夢 「僕のノーザンライト」 握力(id:wonder88
・ひたすら零れ落ちる 「望郷軌道」 harutabe(id:harutabe
・テクニカル・エレメンツ 「チリヌルヲ」 花小金井ロドリゲス(id:llena
・距離を詰める色情狂 「イン・ブルーム」 cattyman(id:cattyman
・記憶の担保 「タイムマシンの熊」 犬紳士(id:Lobotomy
・お断り



完/未完を超えて - 「ノブの話をしましょうか」明石暮子

 「この作品は未完である」とここでは直接/間接に主張される。
 直接的には、第一章1で「最後の話は、まだ閉じない。」とだけ書かれることや、末尾に括弧書きで「(未完の大器)」と書かれていること。あるいはさらにその後に「読者への挑戦状」として「正しい次回予告を選べ」と3つほど選択肢が用意されること。
 間接的には、いくつもの事柄を未完結のまま残すこと=伏線を回収しないこと(「動く死体」、史実にはない人物「ステイツの女」、斎藤義龍による父・道三の殺害、その後の信長との関係……)、あるいは各種の戦闘の場面などが丁寧に描かれて、この作品が放置されることへの予感を許さないこと。またエピグラフを置くという行為も大きさを予感させるのに寄与しているのかもしれない。
 こうして未完であることが表明される。


 未完だというこの主張について例えば、実際にはもっと長大な構想がありながら、何らかの事情によってその一部しか語り得ず、その言い訳として種々の直接的な主張が付加されたと考えられなくはない。しかしそういった読み方が刺激的とは思われないからここではそれを破棄し、何か積極的な理由があると考えることにする。
 まずそもそも、未完とは反対に、完結するとはどういうことなのだろうか。宙吊りにされた出来事をすべて何らかの形に落ち着かせれば、すべての伏線を回収すれば、完結の要件を満たすのだろうか。しかもそれを、物語に限らずあらゆるレベルで遂行し尽くした時にようやく完結は訪れるのだろうか。そんなことが可能だとは思われない。何かが宙吊りにされ、そして解決されるということ自体が、ある体系を読み手が(意識しているか否かにかかわらず)主観的に措定した時にのみ可能となる。そしてあらゆる体系に対応させた「完璧な」小説が存在し得るとは思えない。(現実的にというより、原理的に不可能ではないかと思っている。)
 先に挙げた、本作が未完に見える間接的な理由にしても、読み手との間で広く共有されていると期待される体系にとって「伏線が回収されていない」と見えるだけの話でしかない。


 そういう意味で、原理的についに完結など訪れはしない。完結していると感じられてもそれは、「そのように見える(ように書かれた)」に過ぎない。完結は常に装われたかりそめのものでしかあり得ない。その嘘を告発し、「これは未完である」と正直に認める本作の振る舞いは道徳的と言えるかもしれない。
 ところで、その一方で未完という事態は可能なのだろうか。本作が「これは未完である」と表明していることに疑いはいれないとしても、事実これは未完なのだろうか。
 あれこれ宙に吊ったまま放置されている事態に対して外側から「それは未完だからだ」と説明で包めば、それもまた一種の、了解された体系における解決でしかあり得ない。未完であるという宣言もまた、装われたかりそめの姿に過ぎず、その実態は完結の一種である。実のところ、未完を表明することは、完結を導くことと同程度に欺瞞である。
 完/未完を問題として俎上に上げた瞬間、未完であると結論付ければ固着され、完結であると断言すれば擦り抜けてしまう決定不能性に直面するだけなのだ。終わりはただ、言葉の持続が断ち切られて、その先には言葉が書き継がれていないという事実でしかない。


 例えば相撲を見て「デブぢゃん。」と太った男共がぶつかり合う光景の異様さをあえて指摘してみるといった素振りもたまには有意義だろう。まるで誰もがそれを当たり前のこととして何の疑いもなしに見ている中にあって、しかもそれを、見事な相撲を取りつつある当の力士が「やだー。あたしデブぢゃん?」と呟いて取組を放棄し、見る者をはっとさせることも全く無益とは言えまい。
 しかしそれが力士として最も刺激的な挙動であるとは思わない。諸種のルール=主観的に措定された公理を愚直に受け入れた上で、それら制約の中で可能なことを追求してゆく過程で、豊かさが張り詰めて原理と隣り合わせの限界をふいに露呈してしまう瞬間に、まさに触れたいのだ。要するに私は、あの珍妙で魅力的な信長のバトル、その行く末を見たかったという極めて幼児的な欲求について語っているだけだ。


日常の奪還 - 「右腕フードプロセッサー女」朝飯抜太郎(id:sasuke8

 基本的には我々と同程度の世界を基盤としながら、この世界では「噂になった怪物は実体化する」というルール(以下ルールA)が付加される。あるシステムにルール(公理)が付加されれば、そこから自動的に帰結の群が導かれることになる。それら帰結の群れとの戯れがここでは演じられる。
 そのハイライトとして、本編の主要人物であるツキノと衛の関係が終盤で明らかにされる。ツキノという存在が、実はルールAに則して衛によって生成されたものであることが明らかにされるのだ。しかし、その衛も実は、ツキノによって再生成された存在がであることが明らかになる。ただしその再生成はルールAからの直接の帰結ではない。彼らのシステム(ルールAを含んだシステム)を前提として、新たに衛が付け加えていたルール「怪物・右腕フードプロセッサー女は、粉砕した物を再生成することができる」(ルールa)によるものである。
 ここでは、人は一方的に生成する側ではいられない、ルールを付け加えた者はそのルールによって罰せられる、という関係が示されているわけだが、では、ルールAを付け加えた作者自身に対してもこの関係が適用されないだろうか、しかも、あからさまにメタ的な言及をすることなしに、この作中でその実現がふいに訪れはしないだろうかという身勝手な期待を抱いたところで、その期待ははぐらかされ、この世界にはただ日常が取り戻される。


 しかし日常を取り戻すという推移も、それはそれとして極めて真っ当である。超常的なルールに関する説明が作中で語られている以上、最終的に日常に至る推移は正しいと言い得る。
 超常的なものに説明を施すということは、我々の日常なり常識なりを措定した上で、それとの差異を語るということである。そしてそこに差があると直接示すということは、その差を問題視するということである。逆に、明らかに不審物が転がっていたとしても、語り手がそれを無視し続けるならば読み手は「この世界では、これはこういうものなのだ」と受け止めるよりほかない。
 例えば「ノブの話をしましょうか」について言えば、超常的なもの=不審物(名器や名刀を食うとパワーアップする能力等)の説明は一切されないから、我々は、この世界はこういうものとして読むほかない。
 しかし語り手が「ここに不審物がある!」と騒ぎ立てれば読み手は、それをどのように処遇するかを問わざるを得ない。あなたがそれを問題と見なした以上あなたはその解決を示せ、あなたはあなたが見せた差を埋めねばならない、という要求である。
 そして超常的なものについて、その解決は、日常を取り戻すことでしかあり得ない。その方法としては二種類あって、非日常を解消して日常へと戻るか、非日常を日常化するかである。これはつまり、ゼロ(基準)に対して+αが与えられているとき、再びゼロに戻るには、+αを除去するか、0+αを新たに0として定義し直すほかないというわけである。
 ここでは主に前者の措置によって日常が回復されている。ルールAについては解消させて+αを除去、ルールa(とツキノの右腕がフードプロセッサーであること)は語られないことによって+αの問題視を取りやめることでゼロに至る。
 このように、示された差をゼロに戻す作業を怠らないという点で、本作は極めて道義的であると言える。


全的にだじゃれである - 「軽演劇台本「手・股・鼻」」urbansea(id:urbansea

 ひたすらだじゃれが繰り返される。何一つとして読む者に笑いをもたらさないだじゃれが、ここではただ繰り返されるばかりで、他に何のたくらみも目的も持っていないように見える。
 世界がふいにずれてしまう時、そんな事態に接した時に、人は唖然として笑ってしまう。あるいは期待が裏切られるかもしれないという期待を裏切り、全くの予定調和が完璧に演じられてしまう、その全くずれないというずれに笑いを漏らしてしまう。ここではそうしたずれは感知できないほど極めて小さく抑えられ、笑いとは全く無縁にひたすら、ただ言葉の類似が消費され続けるだけだ。
 音でただ似ているだけでしかない言葉を、意味もなくただ併置すること。それがここで見られるだじゃれである。
 ところでこの作品は「軽演劇台本」と題され、脚本の形式をとっている。しかし本作のどこを読んでも、演劇でしか表現し得ないこと、そこまで肩肘張った言い方をしないにしても、せめて演劇でなければ表現し難いような、演劇の方が表現形式として有利であるような要素は見出し得ない。例えば小説という形式でも表現できることが語られているに過ぎない。これはただ、演劇の形式に似せているだけである。
 そして演劇という形式に似せる意味、その必然もまた、いささかも示されはしない。演劇の形式を選択した意図について、何らのほのめかしも作中には存在しない。
 必然性を完全に欠如させることと、ただ無償に類似すること。それは先に見た、誰も笑うことのないだじゃれの形式そのものである。
 作品の表面のレベルで繰り返されるだじゃれと、作品の形式のレベルで演じられるだじゃれ。この作品は二つの異なるレベルで同時にだじゃれを体現している。この一貫性を見出さない限り、本作は、つまらないだじゃれを本気で面白いと思い込んだ者が、会話文とほんの少しのト書だけで書ける演劇という形式の表面上の安易さを選択した帰結としか読めなくなってしまい、それは読みとしてあまりに貧しく悲惨である。そうした誤解を生む可能性を事前に排除する作業=言い訳を放棄してでも、だじゃれへの一貫性に献身した姿を本作に見出した方が、まだしも建設的であると思う。


媒介者としての振る舞い - 「ファック・ザ・システム」kubomi(id:kubomi

 本作で視点人物となる資格を与えられているのは美香、亮一、慎平の三人である。そのうち亮一と慎平の二人による、社会に対してのある「企て」の顛末が、この物語を推進するサスペンスとして機能してゆくことになる。
 この二人はまず「いない人」として登場する。本作は同窓会の場面から始まるが、その場において消息の不明な人物として亮一と慎平の二人の名前が語られることで登場を果たす。このとき、視点となる三人のうちで美香のみは同窓会に出席している。
 一方、その後はじまる「企て」は二人が実行するばかりで、その間美香が姿を現すことはない。
 この二つのフェーズの移行にあたって、亮一と慎平を引き合わせる役割を果たすのが美香である。ただし彼女が意図してこの二人を引き合わせる訳ではない。全くの偶然から、本人の意思とはかかわりなく美香は二人を結び付けることになる。(もちろん、彼女や彼らのいる世界の側から見て偶然なのであって、物語の論理から見れば必然でしかないが、ここでは差し当たって彼女にとって偶然であることが確認できればよい。)つまり美香とは、あえてその不在が強調された二人を、故意を全く欠いたまま結合させてしまい、そのかわりに自らを退場させる存在である。
 そうして美香はただの一時的な媒介者として消費されるのだろうか。幽霊を口寄せするのと引き換えに、自らが幽霊となって消えてゆくだけの存在なのだろうか。
 そんなはずはない、いつかどこかで決着のようなものがつけられるはずだ。そういった期待が一種のサスペンスとして機能し始める。もちろん他方で、先に書いた通り、誰の目にも明らかなように「企て」の決着への欲求が主要なサスペンスとして機能している。だからここでは、二重のサスペンスが進行してゆくことになる。いったいどのようにしてそれらの決着はつけられるのか。


 果たして美香は再び現れる。慎平が会いに行くことで彼女は再登場することになる。そこで慎平は「企て」を終結させる意思を美香に伝える。この終結の表明は、慎平のモノローグなどでの処理も可能だったはずだが、そうではなく、あえて美香が召喚された上でなされるのである。
 これについて慎平は、美香と「最後に会いたかった」からだと言う。また慎平は「企て」終結の理由も明らかにする。そもそもこの「企て」は美香がすべき復讐の代行だったのだと彼は言う。そしてその復讐の代行が完遂されたために、「企て」は終結せられても構わないという。
 彼にとってそれらは切実に必要を感じる事由だと我々も了解し得るが、同時にそれとは全く別の理由、彼の意思とは全くかかわりのないレベルでの要請によって、美香はここで召喚されていると見るべきだ。というのも、慎平が語る理由はいずれも欠かすことのできないほどの理由ではないはずだからだ。美香に会いたかったと言っても、例えば「でも巻き込む訳にはいかないから」等々理由をつけてモノローグでの処理に持ち込まれてもそれはそれで自然だろうし、終結の理由に至ってはこの後慎平の口からより重要な、本当の、とでも言うべき理由が語られるのだから、復讐の代行などはほとんど付随的でしかない。
 それでもなお、美香が登場しなければならないのは、形式面での対称性に身を捧げるためである。現れた二人を結合させて「企て」を開始させた媒介者は、「企て」の終結と二人の退場もまた媒介しなければならない、という対称性である。(なお「企て」の後、亮一は留置場へ入り、慎平は失踪することで、再び不在へと移行している。)
 「企て」の推移に関するサスペンスと、美香の不在にまつわるサスペンス。この二重のサスペンスはこうして、その始まりと終わりにおいて交錯するのである。
 ここで何より重要なのはその際の美香の振る舞いである。開始において全く本人の意図とは無関係に二人を引き合わせる役目を演じていたように、終了においてもそれは同様である。そもそも再登場が慎平の意向によることは先に見た通りであり、さらに理由として慎平が挙げた復讐の代行にしても、美香の依頼によるものではなく慎平の自発的な遂行である。美香は主体的にきっかけとしての作用を果たすことなく、ひたすら口実として利用されるばかりなのだ。そして慎平によって登場させられたとき、美香はただちに「企て」について「私を巻き込まないでほしい」と口にしている。これはあくまで主体的なかかわりを拒否し、ただ媒介者としてあるだけだという宣言にほかならない。
 ほとんど無意識に、まったく自然に、完璧な統一性で媒介者としての身振りを演じきってしまうこの美香という存在に、私は思いがけなく感動を覚える。


突き放されること - 「勇気一つを友にして」のりしろ(id:norishiro7

 冒頭でイカロスにまつわるギリシャ神話が語られる。迷宮の建造から蝋で作った羽が太陽に融けて墜落するまでの物語がかいつまんで説明されている。この神話の記憶は、この先視点人物たる2名、女子高校生の虎杖と男子高校生の沼田くんの振る舞いによって喚起されてゆくことになる。
 例えば、それとなく沼田くんのカンニングを虎杖が手助けする時、我々は、ダイダロスアリアドネーに迷宮からの脱出方法を密かに教えていたことを思い出す。あるいはカンニングが発覚して虎杖が女教師に罰せられる時、脱出方法の漏洩が発覚してダイダロスがミノス王に罰せられていたことが想起される。
 視点が虎杖から沼田くんに移動して以後も、冒頭の神話の記憶は呼び覚まされ続ける。
 野球部の沼田くんが「全然関係無い」帰宅部の杉田先輩を「殺したい」と無意味に思えば、無関係のテーセウスが自主的にミノタウロスを殺すことが思い出されるし、沼田くんが市営球場の中に入って行く姿は、テーセウスが迷宮に入る姿に似ているような気さえする。
 彼らが律義に神話の物語をなぞっていると言いたい訳ではない。彼らは実際、ギリシャ神話の特定の人物とパラレルな役割を演じている訳ではないし、これまでに見てきた彼らの行動が冒頭の神話と同じ物語を形成させる要素を担っている訳でも無い。彼らとは無関係な物語で演じられた身振りを、彼らはただきれぎれに、無意識に模倣しているだけなのだ。
 冒頭の神話の記憶が、彼らの行動の端々に模倣を見出させてしまう。そうしてごく簡潔に紹介されていた神話の出来事が次々と消費されていく中、まだ消費されずに残された身振りがあることに読む者は思い至る。高く翔び過ぎたイカロスが羽を失って墜落するという最後が、まだ残されているのだ。彼らはきっとそれも模倣してしまうはずだという確信を抱き、同時に、その模倣が果たされ神話が消費され尽くしたところでこの一編は退屈に閉じられることになるのだろうかという暗い予感をも覚えつつ、我々はその推移を見ていくことになる。
 日が暮れた市営球場のグラウンドに一人で立つ沼田くんは、突然登場した「女子マネージャー」に浮足立つ。彼女と手を繋げるという期待に胸を膨らませ、彼女の野球帽の縁から流れ出る黒髪の美しさにあてられたり、空気の香りが変わったなどとあられもない考えを持ち出したり、手を開いたり閉じたりしてひたすら浮ついてゆく沼田くんを眺めて我々は思わず、いけない、と溜め息を漏らす。そんなに舞い上がっては墜落が後に待っているだけだと思わずにはいられない。
 そしてついに「女子マネージャー」と手を繋いだ沼田くんが「この右手から、どろどろに溶けていきそうに幸せだ。」などと口走るのを見るに至り、もはや蝋の羽が太陽の熱で溶解するところまで来てしまった以上、墜落は不可避なのだという諦念と期待に襲われる。
 その直後、期待を裏切らずに沼田くんは墜落する。「女子マネージャー」の正体が自分の姉だと明かされ、さらにこの茶番が姉とあの杉田先輩によって仕組まれたものでしかなく、しかも二人は恋人同士であることまで知らされ、その上姉からは聞きたくもない先輩との馴れ初めまで聞かされ、挙句、お前は恋をわかっていないと姉に説教を食らう始末で、沼田くんは恥辱と怒りに塗れて絶望に突き落とされる。


 しかしこの一編はここで閉じられるわけではなかった。示された神話を消費し、イカロスの死をもって終わりに安住するわけではなかった。
 視点が再び虎杖に戻される。彼女の眼前には野球場から黒い液体が溢れ出る神話的な光景が広がっている。液体に誘われて彼女が球場に足を踏み入れると、腹部から血を止め処なく流し続けている沼田くんの姿がある。液体は沼田くんの血である。
 神話を消費し尽くしたにもかかわらずなおその先へ進むのと引き換えに、世界の相貌を神話的なものに変えるほかなかったのだろうと思う。彼らの世界を神話的な相貌に塗り替えて転換させることで、これまでの彼らの世界を対象化させる。神話の模倣を繰り返すことで進んできた物語はもはや打ち止めだとしても、これまでの彼らの世界を対象化させればなお進むことができる。つまり模倣の参照関係が、神話←彼らの世界←神話化した彼らの世界 と更新されたのである。(なお、元がギリシャ神話だったからこれまで神話と呼び続けてきたが、単に外部の挿話というだけのことで、ここでは神話の特質を云々しているわけではない。)
 それで元の世界の何が模倣されているのかと言えば、液体が身体から流れることである。かつて女教師に叱責された際、虎杖は口に水を含んで臨んでいた。苛立つ女教師に腕をつかまれて虎杖は思わず水を漏らしたのだった。腹から血を流し続ける沼田くんが彼自身の意思とは無関係にそれを模倣しているのだとして、決定的に異なるのは、これまでは外部の挿話に住む架空の人物たちだった模倣の対象が、今は目の前に存在しているということだ。そんな事態に遭遇した沼田くんが、目の前の模倣の対象に、ふと同一化を夢見たとしてもいささかも不自然ではない。
 それで沼田くんは先に姉から聞かされた、杉田先輩を好きになったきっかけ、その質問を虎杖に向かって自らが口にすることになる。しかし虎杖の返答は「なんでそんなこと聞くの?」というものであった。沼田くんは口ごもる。全く理由を欠いて無償で模倣が繰り返されることで物語を推進させてきたのだから、その疑問への答えなどあろうはずがない。決定的に物語を停止させる疑問を虎杖は発してしまったのだ。沼田くんは答えなどあろうはずもない問いに口ごもるしかない。
 そして虎杖は口ごもる沼田くんを見て涙をこぼす。身体から液体を流すこと。これ以上の模倣を禁じる一言を放ってしまった当人が、これまでのような明確な対象化の手続きも欠いて、目の前にいる自分をなお模倣し返している。その光景に直面して途方に暮れる沼田くんを残して、この一編は閉じられる。


 これはだから、意味を欠いて外部を模倣し続けた二人がついに互いを模倣するに及んで、ふと同一化が夢見られた瞬間、その不可能性が理不尽に突き付けられるという物語なのだ。
 球場で出会ってから一編が閉じるまで、沼田くんと虎杖は会話を交わし、自分たちの状況を認識し、あれこれ考えを巡らしている。しかし彼らの会話や思考や認識によってこの場面が切ないわけではない。直接彼らが語る説明によってこの悲しみが生まれるわけではない。そうではなく、いきなり突き放されることに悲哀を覚えるのである。


個人的な夢 - 「僕のノーザンライト」握力(id:wonder88

 ごくありふれた認識を、あたかも自分にだけ許された特別さででもあるかのように得々と語る「僕」への罰はいったいいつ訪れるのだろうか。小賢しい「僕」の口を閉ざしてくれる事態や人物はいつ訪れるのだろうか。冒頭から抱くそんな期待は、ついに叶えられることはない。期待への裏切りに身勝手な怒りを覚えるよりは、そんな期待を裏切ってでもこの一編は、夢と呼ぶべきものがいったいどういう相貌で現れるのかを示そうとしたのだと考えた方が、まだしも意義深いように思われる。
 笹沼の指が送られてくること、ミカの放尿を目撃すること、人々が雨や塩に変わる世界が訪れること……本作で語られるそうした出来事の超現実性が夢に似ているのだと言いたいわけではない。そもそも夢という実際の生理現象と、この一編の間にどれほどの類似性があるかを云々したいわけではなく、今から確認しようとしている形をかりそめに「夢」と名付けただけのことである。
 作中で「僕」は、「僕」の思考を下らないと一蹴する他者を持たない。麻耶が「人のふり見て」の機能を果たし得る立場に最も接近していたが、彼が滑稽さを強調するなどしてそのような役割を果たすことはついになかった。あるいは「僕」の思考を相対化するような出来事も「僕」は持たない。放尿を目撃する一件は何か決定的な一撃のように描かれていても、彼を辱めるには及ばなかった。
 いずれにせよ本作で語られる出来事や思考は、必然と信じられるほどの手続きを経ずに現れることで読み手との共有を拒絶して存在している。たとえ全く偶発的な出来事であっても物理的な因果関係などとは別の水準で、必然であると信じられるような手続きは取り得る。しかしここではそのような手続きはほとんど取られないために、個人的に所有されたリアルがただ眼前に、触接も許されないまま転がっているばかりなのだ。共有がふいに断ち切られて突き放される瞬間に、リアリティと呼ぶしかないような途方もなさを感じるとしても、そもそも共有などが許されていないこの世界は、リアリティから遠く離れた夢のようなものに見える。
 誰のものでもない「僕」の思考、その所有関係を断ち切る役割を出来事にしても他者にしても果たすことが許されていない状況は先に見た通りだが、その断ち切る契機はさらに徹底して排除されることになる。この一編を締めくくる場面は、世界中の人間も物も塩と雨になって、ただ一人「僕」だけがその中を果てしなくまっすぐ北へと歩んで行くというものである。もはやその世界に「僕」の思考を左右する存在、人も出来事もありはしない。しかもその際、塩になる直前の魅上に出会った「僕」は、「笹沼のことやら何やら聞きたい事は山のようにあった。でも僕は聞く事は一つしかなかった。『僕は門間に会えるか』」と訊ねる。他の一切を捨ててただ北へ歩むのと全くパラレルに、自ら思考の多様性をここで捨てている。人や出来事による契機だけでなく、自らの思考による契機さえも放棄しているのである。こうして他なるものの排除は徹底される。その上題名にしても、ただの「ノーザンライト」ではなく、「僕のノーザンライト」なのだ。他の誰のものでもなく「僕の」ものだという所有の表明。この態度が徹底して貫かれている光景に、鈍い感動を覚えるのである。
 作中で突然、「僕」が見る夢が文体を変えて挿入される箇所がある。「僕」はその夢を何度でも見て、いつも同一の終わりに帰着するとされている。そして悪夢に耐え切れずに叫んで目を覚ます「僕」に向かって彼の母親は「今日もうちの殿下は物狂いね」と呟く。他人との共有を許さず独占する様は「殿下」に相応しい振る舞いだろうし、共有されずに理解されない以上、他者から見ればただの「物狂い」としか見えないだろうから、この母親の一言は全く適切である。作中で示されたこの夢の形は、この一編全体と相似形をなしている。この一編が夢と呼んだものと、この一編自身が似ているから、私はこの一編を(実際の生理現象の形式とは無関係に)夢と呼んだのである。
 内的衝迫を絶対化させて見せてしまうこと、他人への共有を許さずに占有すること。それが夢のようだと言うのである。
 そんな他人の夢が目の前に転がっていたとしても、我々はそれに触れることも許されずただ眺めるより仕方がないのだから、どれほど当人にとって切実で真剣でリアルな夢であろうと、我々はこの一編を前にしてただ、「殿下は物狂いね」と無意味に呟くしかない。


ひたすら零れ落ちる - 「望郷軌道」harutabe(id:harutabe

 どの一部も、もしそれだけを取り出せば、この全体をどうしようもなく瓦解させるに違いない。そんな印象を抱かせる一編について語ることは難しい。それでももし、聡明な沈黙を捨てて語るなら、今はただごく一部だけを取り出して語っているに過ぎない、もはや全体とは決定的に異なってしまった別の全体を語っているに過ぎないという意識を抱きながら愚直に語るしかあるまい。そしてその作業を、語ろうとするものの実際の表面を丁寧に触れながら幾度も繰り返して、実際の全体へとほんの少しでも接近しようと試みるほかない。
 ついに到達し得ない無限遠へのこの運動は、いかなる対象について語る場合も同様であるはずだ。しかし実際には、ただ一度、ごく一面だけを語って、そこで浮かび上がった偽の全体が元の全体とあまりに似通っているように見えてしまうような、もはや十分な似姿を見いだし得たと思えてしまうような対象に私達は取り囲まれている。
 それでもなお、退屈と落胆を味わうばかりかもしれないとしても、対象に触れる行為をやめることができずにいるのは、そうではないような対象があるはずだという確信があるからだ。語り終えてしまったという錯覚を抱かせないような対象。どんな角度からすくっても、どれほど目の細かい網ですくっても、どうしても豊かにこぼれおちてしまうと確信させてくれるような対象。そんな対象を不意打ちのように目にしてしまう歓びの記憶を忘れられずに私達は、これがそれかもしれないという浅ましい期待を抱いて目の前の一編を読み始め続ける。
 そうして読み終えた私は、この一編がそれであると確信し、今の私に汲みきれはしないという甘美な敗北感を抱いたのだった。


 本作では意味付けるという身振りが緩く拒まれている。
 例えば主人公は自身の内面や思想を積極的に語ったりはしない。語ることで自身の行為や状況を特定の体系や因果関係、意味付けに回収させるという振る舞いには及ばない。しかし一貫して拒絶しているわけではない。意味付けの一切の拒絶もまた意味付けにほかならないからだ。そういう点で緩く拒んでいる。彼は端々で思考を語る。ただし思考を語る場合には、彼はある特殊な何か、彼にとっての現実に対して思考を示し、一般性への還元は慎んでいる。もしくは逆に世界や状況を直接説明せずそれらから遊離した思考を語る。
「……飛ばしてどうするんだよ」
「どうするってことはないけどさ。でも、面白そうじゃない?」
 木星にいる彼が、本来地球に向けて放つはずのコンテナを太陽系外へ飛ばしてみようと思いつく。その思いつきに、何か正当な理由を捏造することなくただ、「でも、面白そうじゃない?」とだけ答える誠実さがこの一編全体にゆき渡っている。
 あこがれの宇宙飛行士として地球にいる病気の子供とビデオクリップをやりとりしていく中で、ふいに子供の死を知っても彼は直接悲しみを表明したりはしない。それよりもその死を伝える子供の母親について、「まだ涙の気配を濃く漂わせていたけれど、彼女はなんというか、役目を終えました、という顔をしていて、ぼくはひどく狼狽した。」母親でさえ、その貧しさへの抵抗もなしに、息子を物語として確定させられたと信じてしまえることへのうろたえ。意味付けてしまう振る舞いへの違和感。
 あるいは末尾近くで、人生へのメタファーを漂わせた、長い長い鉄道の旅について語る主人公に対して「先輩は答えない。」「先輩は何も言わない」。こうした確定はさせないという「先輩」の様子も同様の態度からくるものだろう。


 そうして意味付けをゆるやかに拒む彼にとって、「イライジャ」プロジェクトの推移はついに耐え難いものとなるだろう。
 彼は死んだ子供「イライジャ」の名前をつけたコンテナを太陽系外へと飛ばすことを思いつく。先に見た通りそれで「どうするってことはないけど」。すると同僚は必要な軌道計算を熱心に始め、上司は本社の了解を取り付け、イライジャへのメッセージが公募され、集まったメッセージはコンテナに積み込まれ、彼の個人的な思いつきは、徐々に公的な相貌を帯びた一大プロジェクトへと発展してゆく。そしてプロジェクト=みんなのストーリーがクライマックスを迎えようとするその直前、「投射予定時刻まで九時間」の時点で主人公は、コンテナから公の皮を剥がしてしまう。コンテナの名前を付け替え、みんなのイライジャへのメッセージも降ろして代わりに映画や音楽や書籍のデータを詰め込み、コンテナを発射する。そして、意味付けを拒んだはずの彼の思い付きが、意味に回収されていってしまったことへの違和感を表明したメッセージを、彼は地球に向けて流すことになる。
 しかしこのメッセージはいくらか主人公への誤解を招きそうにも見える。
 まず、これは公から個人へとその帰属を取り返すといった所有欲に基づくものではない。「いっとくけど、最初にこれ考えついたのは俺だからね!」という意識とは無縁である。
 また、「たかが病気で死んだだけの子供の名前が与えられていいはずがない。」という発言があるからといって、イライジャを貶めていると考えるのは早合点だ。個人よりもっと大きなものが何かあって、そちらの方が崇高なのだと彼は言っているわけでもない。
 このコンテナを回収し、積み込まれたメッセージを解読した異星人が「イライジャのことをぼくたちの神様だとでも思うかもしれない」と主人公は思う。彼はこれを拒否する。イライジャが、イライジャというある「たかが病気で死んだだけの子供」を離れて「イライジャ」という「神様」、意味になってしまうことを拒むのである。(なお主人公は一方で同時に、「いや、信仰だの神だのなんて、地球人類だけにしか通じないような、辺境の蛮習かもしれない。」と付け加えることも忘れていないことを付記しておく。)
 では「イライジャ」の代わりに「ホメロス」と名付け直すこと、あるいはイライジャへのメッセージの代わりに映画や音楽や書籍のデータを載せ直すことも、結局同じような意味付けに過ぎないではないか、という反駁についても無効である。形式だけ見ればその通りだとしても、細部への盲目に根差した虚しい空論でしかない。「ホメロス」と名付けた理由への説明はされず、ただ「ふさわしい」と言われるばかりで、主人公が以前別のコンテナに詩人の名前として「コウタロウ」と名付けて飛ばしたことと緩やかに呼応している程度だ。また詰め込まれたデータはメッセージではない。「一次任務はミームの播種」と主人公がコンテナにプログラムしたように、特定の対象、特定の異星人に向けたメッセージなどではない。対象を欠いた曖昧さを帯びてコンテナは飛ばされる。
 仮に名無しの空のコンテナを飛ばすといった、徹底した意味付けの拒否、ひたすらナンセンスであることをこの主人公が標榜したとして、繰り返しになるが、それは所詮、意味付けの貧しい一変奏でしかあり得ない。ここでの主人公は、穏当に理由を欠いた名前を付け、曖昧に対象を持たないデータを載せることで、あの貧しさをゆるやかに拒絶しているだけなのだ。どこかへ飛んでゆくコンテナと、「たかが病気で死んだだけの子供」のイライジャの両方を同時に、意味付けの貧しさから免れさせようとしているだけなのだ。
 ところで「ホメロス」は、投射からしばらくは地球へ向かう通常の軌道を辿りながら、途中で逸れて火星へと向かい、火星でスイングバイをして……という軌道を辿る予定になっている。「ホメロス」のこの運動が実にこの一編に相応しいように思えてならない。どんどん正当化されてゆき同僚たちの手を借りて進行していったプロジェクトの軌道を、最後の最後でふいに逸らせた運動とよく似ている。一つに確定させることの貧しさ、最初に語ったあの認識が、運動へと姿を変えてこれらに現れているように見える。別に作者が意図して書いたのだと言いたいわけではない。優れた小説というものはえてして、主題的な統一を自意識もなしに生きてしまうものなのだということを改めてここで目にしているだけだ。


 ところで、この作品で描かれる距離感は極めて素晴らしい。
 あえてこう追記するのは、「これは意味付けを免れる一編である」という一つの結論=単一の意味付けに安住する態度はこの一編にはあまりに相応しくないだろう、といった認識を表明しておきたいという動機からだけではない。それに先行して、ひとえに、何か心動かされるものを目にしてしまったら、ただそれを伝えてみたい、そんな欲望に突き動かされているだけなのだ。
 この一編は舞台が木星に設定されている。しかし絶対的な位置を占めるような、他を排除して存立するような舞台ではなく、常に地球との遠い距離を持って描かれるような場所である。例えば、イライジャとのビデオクリップのやり取りの時間差や、木星の物質を積んだコンテナが地球へ向かう時間としてそれは描かれる。
 この一編の最後で、主人公は一人フライトデッキへ入る。そのメインスクリーンにはこれまでに投射され地球へ向かう途中の82個のコンテナのそれぞれの軌道が表示されている。主人公がエコーを叩く。彼らの宇宙船に近い順にコンテナが応答を返してゆく。スクリーン上でコンテナの位置がきらりと緑に光る。距離が離れるにつれ応答の間隔が間遠になる。主人公は一つ一つ、新しい順にコンテナの名前を思い出してゆく。ホメロス、マダム・アーチィ、グレタ・ガルボ、コウタロウ……。光の速さで2時間ほどを経て、最後の、最も地球に近い先頭のコンテナの輝点がメインスクリーンに灯る。それを見てもう一度彼はエコーを叩く……
 舞台である空間を具体的なイメージ、メインスクリーンの輝点として提示すること、その空間の広がりを輝点の光る時間差として描出すること、あるいはコンテナ一つ一つの名前を挙げてこの一編に流れた時間をふいに現出させること。こうした時間と空間の処理の鮮やかさが際立って素晴らしいのである。


テクニカル・エレメンツ - 「チリヌルヲ」花小金井ロドリゲス(id:llena

 ちょっとだけ関係ない話をさせてね。
 ぼくが会社に入ってしばらくして、新人向けのソフトウェア開発の研修があったんだ。1チーム5、6人で6つほどチームがあったかな。お題としてPOSシステムの要求仕様が提示されて、それを各チームが1ヵ月半かけて作っていく研修。商品のデータベースを背後に持ってて、表側ではレジや発注、仕入れ、棚卸、集計等々の画面が動くっていう、研修用だから難しいものじゃなくて、テキストユーザインタフェースCUIでやるGUIみたいな)の昔ながらのPOSって感じのソフトウェア。で、最後に相互投票で1番を決めるの。
 ぼくの班は運良くすごくバランスのとれたメンバー構成だった。デザイン部の人が一人いたから見やすくて統一感のある画面にできたし、ぼくは入社する前に7年くらいプログラミングを(Cだけ)続けていて、技術的には当時の受講生の中で最も高かったこともあって、他のメンバーがどこかつまづいてもフォローすることができた。
 そうして余裕ができたおかげで他の班よりもドキュメントやテストにかける時間を多く取れたりして、結果的にとても質の高いものを作ることができたんだ。
 ついに相互投票。他の班の作品を見て回る。こっちのは簡単に落ちちゃうな。こっちのは画面ごとの見た目がてんでばらばらだ。それに何より、要求仕様を完全に満たしているのはうちだけだ。(他のチームは時間切れでいくつかの機能を省略していた。)どう考えてもぼくたちが1位だ!
 で、ふたを開けてみたら2位だった。もう目の前が真っ暗になったよ。この1ヵ月半みんなで頑張ってきたとかそういう気持ちを捨てて、可能な限りあらゆる視点からどれほど客観的に見ても最も優れているのは明白なのに、どうして……。その辺の態度が鼻についたんでしょうか。製品の性能に慢心してマーケティングで負けたみたいな、日本のメーカーの縮図でしょうか。
 採点発表のあとで他班からの評価がフィードバックされてきた。そのうちの1枚に、コメント欄にたった一言「ふつう」とだけ書かれた低採点の紙があった。もう……ぼくは……あんな怒りと脱力を感じたことはなかったよ……。その「ふつう」さえ実現できなかったやつが、いったい、どの口で言うんだろう!
 最終的には講師陣が相互投票の結果をいったん取り消して、ぼくたちのチームに最優秀賞、相互投票で1位だったチームには「ドキュメント賞」という謎の賞を授与して、ぼくの溜飲は下がったのでよかったね。


 この一編を読んだときにそんないやな思い出をふと思い出したよ。
 たとえば純文学みたいのを志してる青年(?)がこの作品を読んで、「ああ、一人称多元視点の群像劇か。まあ、面白いけど普通だよね。」とか呟いて安心しながら馬鹿にするんだろうなと思うと、ぼくは、がまんならない!! しかもそういう人に限って、たくらみも切実さもまるで欠いて不必要に混濁した文章を書きつけておきながら、それを一人でおれ純文学っぽい、かっこいいと思って悦に入ったりしてるに決まってるんだ。まったく愚かなことだよ!
 と、想像上の青年に苛立つのもあまりに益のない話なのでやめにして、要するに何が言いたいのかっていうと、普通に読んで普通に「普通だな」って思ったとしたら、そこには普通だと思わせるだけの技術があるんだよってこと。


 冒頭で「峰屋騒動」という明治の頭に起きた事件が提示されて、その子孫たちの復讐劇という形態をとったお話。峰屋騒動の主要な関係者が6人もいて、現代の側では台詞がある主要な人物だけで13人もいるんだ。これだけの人数に役目を与えて、それぞれをごく自然に動かして一つの顛末にまとめ上げるのは、それなりの作業だよ。
 ぼくは退屈なまじめさを発揮して、明治と現代の登場人物とその役目と相互関係を一応ぜんぶ書き出してみたんだけど、本当にきっちり対応がつけられててうれしくなっちゃった。(明治で男色だった男の子孫が、男色家であることにさらっと触れられてるのを見たときはちょっと笑っちゃったよ。)
 もちろんほとんど瑣末な役割しか演じない人や、逆に都合よく使い過ぎじゃないかと思う人もいるよ。視点人物になる三人の前に登場しつつ彼らと、相争う二勢力とを結び付けるという、相互関係の網においてアンバランスに枝の数が多い女が二人いたりもする。でもそんなアンバランスが何だって言うんだろう。彼女たちは、視点となる三人それぞれの物語の中で異なる人物として振る舞っていたのに、あるタイミングでふいにその影を重ねて、関係の網と網をつなぎあわせて、まるで突然大きな部屋へと連れてこられたみたいに、一気に視界が広がるのを体験させてくれる。そんな快い驚きを見せてくれるんだから、いいじゃないの。
 そんな驚きを、いろんなところで現出させるための工夫があれこれ凝らされていて、その一つが、三人の物語の配置の仕方と時系列の操作なんだ。ここでは三人の物語が、それぞれの視点で交錯して語られていく。そうするとてっきり、同じ時間に起こってるお話だと思うでしょ。でも違うの。実は各視点で時間が違ってるんだ。それでたとえば、今見ている人物Bの身に起きた出来事が、人物Aの視点でずっと前に見た出来事であると知って、急にリンクしたりする。どのタイミングで人物同士の関係が明らかにされると最も効果的であるか(びっくりするか)を計算した上で時間の配置も決められている、という工夫がされているんだ。
 それから時間処理の工夫で言えば、そうした構成のレベルに限らずそれぞれの場面にだってあって、例えば、アクションのシーンでいかにてきぱきとさせるかといった工夫がある。描写を重ねたり、間に思考を語ったりすればそれだけもたつくわけだし、さりとて単に「○○した。」の一言じゃ緊迫感もない。読まれる時間を考慮しつつどの程度描いて、どの程度描かないか、スピード感のための塩梅が、例えば追っ手を振り切るためにUターンする場面だったり、運転手の男が突然臼井を殴る場面に発揮されるわけだね。
 そうそう、事故で首がちぎれるところが主観で描かれる場面もあって、そこは本当にあっさり「ぼくの首は(…)千切れた。」と処理されてて、ああなるほどねと思ったよ。ふつうここの処理は結構考えちゃうところだよたぶん。そういう死の瞬間に向かうときは時間が引き伸ばされるんじゃないかとか、その長さを出すためにここは言葉を重ねた方がいいんじゃないかとか、そんな瞬間に本当に自分の身体についての認識が得られるんだろうかとか、体が離れていくのをぼんやり見ているように描けば実際に近いのかもしれないとか、でもそれだと分かりにくくならないかなとか……。そんなあれこれをばっさり捨てて簡潔に処理。このいさぎよさ。そんな熟考より速度が大切なんだという捨象。
 この一編ではみんなうじうじ考えたりしないで口か体をずっと動かし続けてるんだ。視点になる三人のうち他の二人を排除して最終的に視点を占有することになる男は、特にそれが際立ってる。二勢力の対立が第三勢力も加わって鼎立の様相を帯び始めたとき彼は「おれが突っ切るのはその透き間だなと思った」と呟く。擦り抜けるために立ち回り続けること。動きを止めないこと。実にこの一編全体の態度を体現しているね。
 ついでに言えば、この男は視点を占有するほどの存在にもかかわらず、ごく曖昧な存在として位置付けられている。関係者とは遠い親戚とされるし、本名も明かされることはない。まったく、そういう面でも擦り抜ける存在としてふさわしく描かれるってわけなんだ。


 そういう「驚き」や「速さ」に奉仕して費やされる言葉は小説とは無縁だ、などとあの非実在文学青年は口にするかもしれない。それとも、そのための塩梅に終始してそこからの飛躍に欠けるすがたは、芸術家ではなく職人のそれでしかないなんて言うのかな。たぶん正しい。でも、だからなんだい? そもそも目指されてさえいないことを非難するのはお門違いさ。
 ぼくはそういった技術に終始する人やその作品がぜつめつすればいいだなんてこれっぽっちも思わない。技術と呼ばれるものが、ある何事かを実現するために考え抜かれた方法だとして、それが方法化される一瞬前には、彼が小説に縁のあると考えている何事かと通底した相貌を垣間見せているのかもしれない。それを見ようともせずに「ふつう」であると受け流す態度の凡庸さこそがあまりに「ふつう」でしかないというのに、そうした意識を欠如させたまま平気で安全なところから見下す態度が、たまらなくぼくたちを苛立たせるんだ。


距離を詰める色情狂 - 「イン・ブルーム」cattyman(id:cattyman

 本書の末尾の、各作者の一言のページに「勃起させたら俺の勝ちだ!という気持ちで書き上げました。」と書かれている。確かに都合よく色情狂の女子高校生が主人公となって性行為を繰り広げるのだから、嘘をついているとは思わない。しかし彼女はひたすらそれに専念している訳ではない以上、それ以外の何かがここでは書かれている。その一つが、距離についてではないかと思った。


 性行為に及んでいない際の彼女はとにかく何かに苛立っている。無意味な板書をする古典の教師、急に大人ぶり始めた同級生の女の子たち、合宿でストリップショーを始める陸上部の先輩に苛立ち、「くだらない。」と切り捨ててゆく。それから付き合っている蒔田先輩についても「ただの人」、「低俗な存在」と心中で蔑んでいる。
 そんな彼女が、中学時代の部活の顧問の小野寺先生にだけは執心している。陸上競技のトレーニングと称して「私のランニングパンツに舌を這わせる以上の事をしてくる事がな」い小野寺先生に、彼女は「より強い刺激を求めて」あれこれ誘っている。しかし小野寺先生は「絶対にそれに応じることはなかった」。
 まるでこの小野寺先生との関係を特別なものにするために、彼女の種々の苛立ちの対象が存在しているようだ。ある一点を浮かび上がらせるために、それ以外の諸々を逆に沈み込ませておくというような。
 彼女は小野寺先生を欲望する。それは、今の地点に対して、ある望まれる地点を設定して、その距離を縮める運動を問題にするということである。一方でその他については距離を最初から生じさせない。例えば蒔田先輩について「私は蒔田先輩を好きではないなとなぜか思うようになった。行為を重ねる度に大きくなるそうした違和感は、気が付くとほとんど嫌悪に近いものになっていた。」という。違和感を違和感のままに留め、そこから考えるなり何なりするといった運動を、例え目標地点を見出さないままであっても始めたりはせず、彼女は違和感を嫌悪へと直結させる。それは距離を見出さないということである。すべてを距離ゼロに抑えておいて、たった一点、小野寺先生との関係だけに距離を設定し、その距離の克服を主題化する。
 そして設定した関係の距離は、ここでは物理的な距離へと変換されている。「いつか私の望んでいるような事をしてもらえるだろうか。根性がついたと認めてもらうにはどうしたらいいだろう。1500m選手として記録を伸ばすには……。」小野寺先生との関係の距離は、県大会の1500m走という具体的な距離に変換されているのである。その経緯に一通りの筋は通っている。もともと100mの選手だった彼女に1500mへの転向を勧めたのが小野寺先生であり、また先生が彼女の股間をランパン越しに舐める行為は、1500mに必要な「根性」をつけさせるトレーニングと称して行われているのだから、1500mで「根性」がついた私を見せれば、直接舐めるなり性交するなりしてもらえるのではないか、という筋。しかしこうした理由付けなど、しようと思えばどうとでも可能なものである。実際筋が通っていると言ってもその間にはいくつもの無根拠な飛躍が存在するし、仮にそれらの隙間を限りなく精緻に埋めたとしても原理的にその公理において恣意的である。だからこれは、どれほど彼女がこれ一つと無意識に信じていようと、無数の可能性の中から恣意的に選択された変換でしかない。それはちょうど、他の全ての関係を嫌悪で距離ゼロにして小野寺先生との関係だけを無意識に、しかし恣意的に彼女が選択したことと同様である。
 数ある可能性の中からあえてこの変換が選択されたのは、関係の距離を詰めることが主題化された物語にあって、目に見えて達成すべきものとしては、具体的で物理的な距離を詰めることが相応しい、という価値判断が物語に働いた結果ではないかと思う。
 ところで彼女はもともと100m走の選手だった。彼女は100mについては「頭の中を空っぽにして全力で駆ける」「この単純な競技が自分の性には合っているような気がした」と、一方で1500mについては「ペース配分だとか、戦略だとか、難しい事を考えながら1500mもの距離を延々と走るなんてどこがおもしろいのだろう」と当初考えていた。しかるに本編で彼女が目標にした県大会予選1500mでは、途中まで「難しい事を考えながら」走っていた彼女であったが、最後の300mでは「頭の中を空っぽにして全力で駆ける」=「根性」を見せて予選を突破する。これは、どれほど理屈付けようと最終的には、この距離を詰めるという行為の選択自体は恣意的でしかないことと実にパラレルな事態である。
 そうして1500mで「根性」を晴れて見せられた彼女は、小野寺先生に「私の望んでいるような事をしてもらえ」たのかと言えば、そうではない。それどころか「例のトレーニングはもう必要ありませんね」と言われる始末である。当然である。関係は、距離が前提されて存在するものであって、距離が解消された関係は、消滅するか新たな距離を設定して別の関係として生きるほかない。そうした関係の距離の性質からすれば、縋って懇願する彼女を「もうよしましょう」と拒絶する小野寺先生の態度は全く正しい。距離を極限までゼロに漸近させる運動それ自体にある悦びを忘れて、それをただの手段と錯覚した彼女の蒙昧さへの、これは手痛い罰である。
 その後彼女は、関係の解消という罰を今度は自分が下す番だとでも言うように、「出来るだけひどいやり方で蒔田先輩と別れようと決意」する。ただしその際、「最後に三つだけ先輩の言うことを聞いてあげようと思うの」と「言葉が勝手に口をついた」。これは要するに距離の再設定である。この3つのお願いのうち2つ目までを彼女が聞き届けたところで、この一編は閉じられる。彼女は、関係の距離を設定し続けなければならないという頚木から結局免れはしなかったものの、距離をゼロにするという轍を二度は踏まなかった。


 そういった意味でこの一編は、「勃起させたら俺の勝ち」といった話としてのみ読まれるべきではなく、二元関係における距離の性質について主人公が無意識のうちに自覚するという、一種の教養小説としても読まれるべきだと思う。またそれが描かれる際に、関係の距離を物理的な距離に変換して、退屈な思考に陥らせずに文字通りの運動として見せる点で秀作だろうと思う。


 それからまるで余談でしかないが、本作を読む中でふと仏教の「初転法輪経」を思い出した。その第1部で仏陀は、官能にふける快楽も、自分自身を痛めつける苦行も否定して中道を説く。王子としての享楽、その後出家してからの苦行、どちらをもってしても悟りには至らない。いずれの両極端をも厳しく否定して、中道を見出して仏陀になったという。ちょうど本作の主人公が、性の快楽に励み、それから1500mの苦しみを耐えたりしていたから、ひょっとしてこの女、成仏でもする気か……? と思ったが、そんなことはなかった。よかったね。


記憶の担保 - 「タイムマシンの熊」犬紳士(id:Lobotomy

 熊を素手で殺すと決意した男と、タイムトラベルを駆使して対抗しようとする熊好きの男と、祖母の家にある熊の剥製の謎を追う少女が視点となって、熊にまつわる顛末が語られる。
 途中からゲータゲタ笑い転げながら読んだけれど、ここが笑えたあそこが笑えたと説明するのはあまりに無体だ。想定された何かからのズレによる不意打ちが、人に笑いを催させるとして、あらかじめその飛躍の途方もなさを説明によって殺害することがあまり益のあることとも思えない。この一編に仕掛けられた数多くのズレがもたらす不意打ちに打たれてこれから笑い転げるかもしれない人の喜びを前もって奪うような、野蛮な振る舞いには及ぶまい。
 そうしていまさらネタバレを自身に禁じた者には、この一編の楽しさそのものとはやや縁遠い何事かを、一般性をまとわせて口にするくらいしか残されていない。


 ここでは視点人物3人のうち、少女がこの一編全体に果たす機能について考えたいと思う。先に結論を述べてしまうと、少女は一編全体に対する基準、特に時間に対する基準を担っており、その役割はツッコミや直喩に似ている。そういった一般性をまとわせた話を、この一編にかこつけてしてみようと思う。


 この一編では数多くのズレが生じて私たちを笑わせにかかる。ところでズレというのは、単一で絶対的に成立するような存在ではない。何かからズレること、その運動がズレと呼ばれる以上、ズレる元=基準が必要とされる。この一編ではその基準を、全体としては少女の視点が担っているように思われる。(局所的には様々なものが担っているが、それらは先に禁じたネタバレに抵触するためここでは詳述しない。)視点人物3人のうちで、熊の剥製があること、人が熊を倒すこと、タイムトラベルがあることその他を普通とは思わない唯一の人物がこの少女である。彼女が基準として存在することで、それらがズレとして機能する。
 仏間に熊の剥製が置いてあることの異様さを友人に指摘されて彼女がはじめて気づくというエピソードが冒頭近くで語られる。これは、彼女が基準として始動するのだという明示にほかならない。あるいは視点となる3人のうちで一人称が唯一設定されていることや、本編の冒頭と末尾で彼女が語り手を担うことも基準にふさわしい処し方に見える。
 そして何より彼女がこの一編に奉仕する機能として重要なのは、時間の基準としてである。彼女は時間の一貫性を担保する。タイムトラベルが導入されたこの作品では、一般的に我々が認識している時間の流れにそのまま依拠することはできない。通常であればどれほど時間を錯綜させたプロットを組んだところで、出来事の因果関係を軸にして物語内の時間の流れを確定させておくことができる。そしてその軸を元にしてズレを作り得る。(例えば「実はこうだった」という驚きを演出して見せたりできる。)しかしタイムトラベルを導入した場合には、時間軸=基準を別に用意する必要が生じる。
 この一編で、固有の身体と一貫した記憶を保持して、その基準となるのがこの少女である。他の人々(特に少女以外の視点人物の男二人)は、自分自身が所有して一方向へと流れてゆく時間についてしか直接知覚できないという制限を課せられていながら、実際には知らないところで書換えを被る。そんな彼らの演じる滑稽さを滑稽さとして機能させるために、そのズレの基準として少女は、自身の被った書換え以前の記憶を無意識に保持する。それは、ツッコミや直喩にどこか似ている。
 ツッコミはボケがボケていることを指摘し、直喩は別の何かを「のような」で接続してある対象を修飾する。いずれも生じたズレがどこからのズレであるかを明示するような形式である。その点であの少女が果たす役割と似ているように思えるのである。
 これら明示する形式の一方で、明示しないような形式としてツッコミ不在のボケっぱなしや隠喩がある。前者は後者に比べて説明的だとしばしば言われる。例えば「リンゴのような頬」という直喩より、「リンゴの頬」という隠喩の方がよりスマートな表現であるとか、よりラディカルな表現であると言われる。これと同様に、本編の少女も説明的で野暮ったい存在でしかないのだろうか。
 確かに先のてきとうなリンゴの例示で見れば直喩の分が悪いように見える。しかしこれは単に直喩にとって不利な例えを用いたからに過ぎない。直喩と隠喩は同じ範囲を取り扱う訳ではなく、直喩の方がその到達可能な距離が広い。隠喩は「のような」を省くために、せいぜい読み手が「のような」を自力で見いだし得ると想定できる程度の対象しか選択できない。他方で直喩は「のような」で繋げることで、どれほど異なった対象であろうと、どれほど読み手の納得を得られなさそうな対象であろうと、強制的に結び付けることができる。
 暗喩にせよボケっぱなしにせよ、説明の冗長さを回避できるという特長の代償として、受け手がそのズレを認識できる程度にしかズレられないという制約を受ける。一方でツッコミや直喩は冗長さを代償として、より大きなズレを生み出す可能性を享受している。
 ひるがえって本編の少女は、より大きなズレを実現させるような存在かというと、実のところ私は、ぎりぎりまだ「リンゴのような頬」の範囲に収まっているのではないかという印象を持っている。精確な分析もなしに無責任に印象を語るのだが、この少女を全体に対する基準として置くことなしに、ズレをただごろごろと置いていくやり方も可能なのではないかと思っている。
 だがそれを理由にただちに少女の形式上の必要性を否定するには及ばない。ツッコミや直喩にはまだ役割があるからだ。ボケっぱなしや暗喩に比べて読み手に課す作業量を軽減できるという効果がある。一体これは何からズレているのだろうか、そもそもこれは意図したズレとして提示されているのだろうかなどと読み手が忖度する作業を奪って、安心して吹き出せるようにする潤滑剤の機能。そういった役目を肯定して、私は別に彼女の必要性を否定しない。
 このようにして彼女は、直喩的な基軸となってこの一編全体に機能している。
 なお改めて付言するが、別のレベルや別の場面で見れば隠喩的なズレも、違う種類の直喩的なズレもまたいくらでもこの一編から、あるいはあの少女から見いだされる。作中ではそれらがないまぜになって狂宴が演じられ、読む者を抱腹絶倒へと陥れるのである。ここではただ、全体に対する彼女の形式的な機能という面でのみ見ただけのことである。


 それにしても、彼女に見いだされたような、過去を誰も覚えていなければ成立しないという事態は、小説にとって免れ難い制約の一つかもしれない。こうした記憶の担保は作中人物に限らず(直喩的)、読み手に委ねられても構わない(隠喩的)。それはさらに押しなべて言えば、何かしらの相互関係が、これまで書き付けられてきた言葉たちとこれから書き付けられようとしている言葉たちの間にさも成立しているように錯覚されなければならない、といった制約が課せられていると言えるのかもしれない。
 ふとそんなことに、この一人称を唯一許された少女を通じて思い至ったのであった。





 本書所収の各編について、気取った振り仮名や、あまりの生真面目さや、ディテールの貧しさや、効果のない混濁などを理由に貶すことは容易である。一方で、同人誌の割にという留保付きで、よくまとまっているとか、テンポが良いとか、感情移入ができるといった理由で褒めることも同程度に容易である。それは、公理を問うことなしに確立しておいた体系をただそのまま目の前の一編に適用し、見合っているかどうか審美し正否を決定するだけで済むために、あまりに容易いのである。またそれは、自らが変更を被らないという点で安全である。
 実際そういった読み方を同時にしているとしても、自分が既に持っている体系のみならず、目にしたその一編によって新たに体系を生み出すような読み方をしたいと望んで、私はこれまでのあれこれを書いた。新たな体系によって何か自らが傷つくようなスリルさえ望んで、私は読もうと思った。
 そうして自分なりに生み出した読みがせいぜい他者から見て貧しいものでしかなかったとしても、相対的に私は豊かになったのだと断言しておきたい。あるいはこれまで書いてきた各編への感想はもはや、書いてしまった後では私にとって安全なものでしかあり得ないとしても、しかし書きつつあったそのときの私は、私なりの運動をしていたのだとせめて断っておきたい。そうした運動を欠いて読む安楽さほど、作り手に対して礼を失したものはないと思うし、少なくとも読み手にとってそれほど退屈なものはないと思う。