やしお

ふつうの会社員の日記です。

「間違っている」という指摘の位置づけ

 誰かが何かを「間違っている」と主張してる場面はネットでも職場でも学校でもテレビでも無数に見かけるけど、そのたびに、いったいどういう意味で「違う」って言ってるのかなといちおう考える。それは「正しい」には「無謬である」と「妥当である」の2種類あると(今のところの)ぼくは思ってて、そのどっちについての指摘だろうかと考えてるってことなんだ。
 そう考えて何がお得かっていうと、「なんかピンとこねえ反論だな」と思ったときにどの辺でピンとこないのかを探ったり、何を根拠に言い返してみるか材料のありかのあたりをつけたり、どういう態度をとればいいのか決定するときのヒントにしたり。それに傍から見てるだけのときでも、自分が指摘する側にいるときでも、その指摘がもともとの主張に対してどういう位置づけのものかがはっきりすれば、すっきりするしね。

2つの「正しい」

 「正しい」には「無謬である」と「妥当である」の2種類あると思ってるんだ。
 「無謬である」っていうのは、論理的に正しい、演繹的な手続きに誤りがないってことで、狭い意味で(というかふつうの意味で)「正しい」といえばこっちのこと。
 「妥当である」ってのは、その主張の前提が、ものごとを説明するのに適してるということ。何かの主張というのは、たどりにたどっていけば、その根元には主観的に導入された前提というものがある。(導入した本人は「これは自明だろ!」「だれだってそう思うに決まってる!」と思い込んでたりはするかもしれないけど。)
 ある主張なりがあって、その内側について正しいというのが「無謬である」、外側から見てそれ自体が正しいというのが「妥当である」ということだ。


 ちなみに「正しい」にはこの2つがあると言ってるのは、相対主義的なモデルで考えているとそうなる、という意味でだよ。誰にとっても、いつの時代でも、無条件に間違いない真実(神とか?)はない、あるとすればそれは客観的なものではなく無意識にせよ主観的に選択されたものでしかない、という考えを(これまた主観的に)導入すると、主観的な前提(公理や公準、仮定)がまずあって、そこからいくつもの結論たちが客観的に導かれて存在している、そうした前提と結論の体系がいくつも(排他的だったり包含したりしながら)存在している、というモデルになる。そういう見方をしているときに2種類の「正しい」があるよね、という話なんだ。いろんな「正しい」を集めてきて分類してみたら2種類でした、という帰納的な意味ではなくって、どちらかというとモデルの側から演繹的に見てみたら2種類だったという話。

2つの「間違っている」

 「○○だから××」という主張があったとする。ごく大雑把に言って、「だから」が成立しないからその主張は間違ってる、というのは「無謬である」に対する指摘で、そもそも「○○」が成立しないからその主張は間違ってる、というのは「妥当である」に対する指摘だ。客観的な論理について「それは間違っている」という前者と、主観的な選択に対して「それは間違っている」という後者。
 そして前者の意味での「間違っている」という指摘、「だから」の不成立に対する指摘はけっきょくいつだって、省略された部分に関する指摘なんだ。主張した側と指摘した側のいずれかがその省略部分を、省略ではなく自明のこととして扱えば、それはもはや「無謬である」ことの争いから「妥当である」の争いへと転化するからだ。
 それから、後者の「妥当である」への指摘、前提に対する「間違っている」という指摘は、この先見ていくけれど、指摘を客観的にやろうとすれば常に元の主張の外側にある別の何かを持ち出さないといけない。そうでなければ、「理由なんかない、お前は間違ってる!」と主観的にひたすら言い続けることになる。

桶屋論争 その1

 例えば「風がふけば桶屋がもうかる! イェーイ!」みたいなこと言ってる人に、いろんな人が「いやそれはおかしくね?」って言う。


 それが「風が吹くことと、桶屋がもうかることの何が関係あるんだ」という指摘なら「無謬である」についての確認だ。前提と結論の間の説明が不十分だという指摘。
 こう言われて、「風がふけば、砂ぼこりが舞い上がって、砂が目に入って、盲目の人が増えて……」と間の部分を説明して、さらに「砂が目に入ったからって盲目の人が増えるなんて変じゃない?」と相手に再度指摘されて、という風に間をどんどん詰めて確認していく作業が二人の間ではじまれば、建設的なことだよね。それで最終的に「風がふくとむしろマックがもうかることがわかりました(ニコニコ)」みたいな感じで別の結論にたどり着けばいいじゃない。
 お仕事(研究職でもメーカー勤務でもなんでも)してるとよくある場面だよね。


 でもみんなが大好きな論争ってそうじゃない。
 「途中のつながりが示されていない」というだけの事実を、すみやかに「こいつは途中のつながりを分かってないから、示してないんだ」と断じて、さらに「お前は間違ってる」と叩き始めるんだ。2段ジャンプでフルボッコだよ。
 数学の問題集の解答なんかで、途中式が書いてなくて(それか答えしか書いてなくて)うぇーん、なんでそうなるんだよーってなることあるじゃん。数学の問題集だったら、ちゃんと正しい途中式があるけど省略されてるだけなんだって好意的に解釈して、読み手が自分なりに途中式を導こうとしてくれる。でも普段見かけるいちゃもんはそうじゃない。
 やっぱりどうしても「俺の方がわかってる!!」と言いたくてたまらない人がいっぱいいるんだ。2chでもヤフコメでもツイッターでもはてブでもYahoo知恵袋でも、もういっぱいいる。おなかいっぱい。
 特に常識なりポリティカルコレクトネスとは少しずれた主張がされた(結論が導かれた)場合なんかに多いよね。自分の思い込みはこれ磐石なものであって、その思い込みをちゃんと検証したことなんてないけど、もう数十年お付き合いしてきた考え方なんだからそれが間違ってるなんてありえない、ってことで2段ジャンプをかまして叩きまくるんだ。「とにかく桶屋がもうかるわけなんかない!!」
 もちろん、指摘した側が自分なりに「省略された間の部分」を検証し直した結果、「いいえ。マックの方がむしろもうかります」みたいに2段ジャンプの間に階段をきっちり作って言ってくれる人もいる。


 たのしい論争はまだまだ続く。「お前は間違ってる!」を無視される場面がつづくんだ。
 もともときっちり途中式を検証してるんだけど、紙幅の都合か、面倒くさかったか、書かなくてもこれくらい分かるだろと推断したかで省略された場合、書き手にとってはそこを改めて説明するなんてあまりに億劫だし、それより自分はもう次に進みたいし、なにより、せっせと説明してあげても思い込みを最初から検証せずに声をあげる人はどうせ分かりゃしない(ことが多い)と経験的にわかってもいるので、無視するという。
 で、無視されたほうは「ほら、やっぱり間違ってた!」とお得意の2段ジャンプを見せて悦にいる。反論はされなければならないというジャンプ、反論しないこと=反論ができないことだというジャンプをして、「間違ってる」に到達。まったくすてきな光景だよ。


 さらに味わい深いのは、本当に途中式の検証できてなくて反論できず、それを隠蔽するために無視してる場合もあるということで、そうなると結局、もし真偽の判定をしたければ、個々人でしっかり検算するしかないんだよね、という優等生的な結論になるよね。
 それにつけても「桶屋がもうかる!!」「いいや違う!!」とただ言い合い続けてる不毛さ。ちなみにこれはもはや「妥当である」についてのやり取りだ。「妥当である」の部分への指摘はややもするとこの不毛さに陥る。それを回避する方法については後述。

桶屋論争 その2

 「風がふけば桶屋がもうかる! イェーイ!」→「風はふきません」
 という「間違ってる」の指摘は、「妥当である」の側の指摘だ。
 他にも「桶屋とか21世紀にいねえだろ」みたいな指摘も「妥当である」にまつわる部分。ここでは「風がふく場合がある」、「桶屋というものが存在する」といったことが前提されている。それら前提がそもそも成り立ちませんよという指摘。
 こうした前提は、まずは主観的に導入された仮定であるから、「風はふく!」「ふかない!」「ふくもん!!」と言い合っていても、ただお互いの主観をぶつけ合うばかりで、落ち着く先もなく不毛に消耗するだけだ。この不毛さは日常的にも結構、片一方が「はぁ……何言ってんの。風なんかふくわけないだろ。常識だろ」などとうんざりしていて、もう一方が「だーかーらー。なんでだよ。根拠を言えよ」「自分で考えろよ。常識だろ」なんてやりとりに終始している場面で見かけることがある。
「桶屋はある!」「ない!」「いいや、あるね。俺達の心の中に……」「!?」


 もし客観的にお互い分かり合えるような方向に行きたければ、もともとの主張の外部にある体系を用意して、その体系によって争っている前提を評価するしかない。別の体系、物理学とか地形学とか占星術(?)とかとにかく何かを持ってきて「こうこうこうだから、風はふかないのだ」と言わないといけない。
 ただし、その導入した外部の体系(の前提)をお互いが「妥当である」と主観的に納得する必要はある。それは結局、どれほど「外部の体系による評価」を繰り返して根元の根元へと掘り下げていっても、いずれどこかの地点で主観的であるほかはないからだ。そしてその主観を共有できなければ、分かり合えたという錯覚には至らない。

桶屋論争 その3

 「風がふけば桶屋がもうかる! イェーイ!」→「イェーイじゃねえよ。浮かれてんじゃねえ」
みたいな否定も「妥当である」のほう。元の主張についての価値判断は、先述した通り、元の主張を要素として包含するような外部の体系によって可能である。
 桶屋がもうかることが、肯定されるべき事態であるのか、否定されるべきものかは「この条件で桶屋がもうかる」という命題からは導かれないので、それを判断できるような別の何かを導入してこなければならないってことだ。


 ところで、よく見かけるのは、ぜんぜん「イェーイ!」とも何とも言ってないのに、喜んでるこいつ、って叩かれてる光景だよ。「風がふけば桶屋がもうかる」という考えを示しただけで、「桶屋がもうかる」こと自体については肯定も否定もしていないのに、即刻「こいつは桶屋がもうかるべきだと言っている」と飛躍してぶっ叩き始める、あれだ。
 桶屋が労基法を無視して従業員を酷使するブラック企業とかだったりすると、そんな光景が見られるよね。
 なんだろ。JASRACとかワタミとかアレフ(旧オウム真理教)みたいな、叩いてOK認定されている(否定すべきと見做されている)会社や組織や人物について、一般的に肯定的に見られている結論(もうかっているとか、合理的であるとか、筋が通っているとか)を結び付けると、もう即ぶっ叩かれる。そんな世の中。本人は擁護なんかしてるつもりはなくて、単に内部の構造を示しただけのつもりでも、そんなことお構いなしなんだ。
 ちょっと前に、「雅楽の公演したらJASRACから申告してって言われた」って事実に対して「JASRAC側からすれば普通の仕事をしただけ」と言った人が「こいつJASRACの仕事を擁護してる!」みたいに叩かれてたりしてて、おぅおぅこれだよ、これこれ、って気持ちにはなった。ご愁傷様です。もちろん提示のしかた一つでうまく回避できたりはするんだろうけどね。


 一旦括弧にくくって、棚に上げて話をする、ということが可能だって認識がまるでない人たちはびっくりするほどいっぱいいる。例えば、オウムがなした殺人その他が許されない、という話は私も了解していますが、そこは一旦括弧にくくって、オウムの教義やその体系は意外に優れている、みたいな話がもしされたとして、もう問答無用で「殺人教団のことを優れていると言うのは許さない」って言説が大声で出てくるんだ。「そこを括弧にくくる」点がこういう価値体系から見たときに「妥当ではない」から、私は括弧でくくる言説に与することはできない、と言うんじゃないよ。もう即座にダメっていうんだ。文字通り、問答無用なの。
 実は誰でも、どんな話をしてもいつだって、何かを括弧にくくって話をしているんだけど、自分だって嵌ってるその構造はそれこそ「括弧にくくって」、まるで自分は手放しの正しさに祝福されてるみたいな顔して、彼らは断言するんだ。「お前は間違っている!」


 よく見かける光景を網羅性もなく思いつくまま挙げてみたけど、このへんで終わりにします。

「間違っている」という指摘の仕方/対応の仕方

 無視という手段をとらない場合、肝心なのは「妥当である」の争い、主観的な仮定についての争いに突入しているかどうかの見極めだと思う。
 「無謬である」についての争いは、それなりに大変だとしても別に不毛ではない。省略された部分を埋める作業(これは「妥当である」への指摘を受けて外部の体系を導入して前提の妥当性を導く作業も含まれる)はとりあえず客観的なものだから、お互いに了解できることとして進められる。
 しかしその作業が最終的に行き着く先は主観的な前提であって、そこへ行き着いたときにそれをお互いが共有できるかどうかが問題になる。
 共有できたらハッピーエンド。共有されなかったら「妥当である」の争い、主観的な仮定についての争いに突入する。これは徹底して不毛なものでしかない。「それは自明なんだ」「それはとにかくそうなんだ」「とりあえずこれはこうであるとする」という仮説についての争いだから、結局のところ当人がそうすると言えばもはやどうしようもない。
 相手がそう言い出した場合だけでなく、自分がそこで意識的に停止する場合でも同じ。たとえやろうと思えばまだ、外部の体系の導入による妥当性の評価ができるとしても、ここではその作業をやらない、と決意した場合でも同様だ。
 相手か自分のどちらかが「それはそういうものだとする」に到達していると判断したら、その時点で論争を停止させることが、不毛さを回避する方法だ。(意識的に停止させなくてもどっちみち停滞はしてるんだけど、出口もなくわけもわからず続けるよりかは、意識的にタイミングを悟って打ち切った方がお互いしあわせだよね、ということ。)


 そんなとき、ぼくは「なるほど」って言うよ。これは、あなたがそういう仮定を主観的に選択したことを了解しました(私はその仮定は採用しませんが)、という意味を圧縮した言葉なんだ。ここで馬鹿正直に「私はあなたの仮定は採用しませんけどね」などと言ってはいけない。そしたら相手はそれを負け惜しみだと思ってまた、主観性を不毛にも押し付けようとしてくるか、客観的に導く作業を別の主観性を導入して始めるかするに決まってるからね。せっかく打ち切ろうとしてるのに。
 だからただ一言、「なるほど」って言うの。