やしお

ふつうの会社員の日記です。

文句を言うための文句

 文句言うためだけに作ったとしか思えない文句をぶつけられてすごくイライラするみたいな場面ってよくあったりしない?


 たとえば妻が夫に非難がましく
「トイレのペーパー、残り1個なんだから新しいの買ってきてよ。」
なんて言ったりする。それで夫はもやもやする。
(残り1個になったのって一昨日からなのに何で今言うんだろう。)
(いつも気づいた時点で自分で黙って買ってくるのに何で今回は文句言ったんだろう。)
(もともとそんなルール取り決めてるわけでもないのになんで公式みたいな言い方するんだろう。)
(買ってこなきゃいけないってことくらい俺が分かってるってことはこいつも分かってるはずなのに、何であえて言ってきたんだろう。)
等々。
 もやもやしても妻の言う「残り1個になったら新しいのを買ってくるべきである」はもっともなので、上手く反論できずに黙る夫。
 その夜、夫は寝る前にもう少しお茶を飲もうと思って湯のみを取ろうとするも、テーブルの上に見つからない。
「お茶ならもう片付けたけど?」とうろうろしている夫を見て妻が言う。
「何、なんか機嫌悪いの? はっきり言えばいいのに。」
「別に? お茶片付けただけじゃない。」
「でもいつもだったら片付ける前に一言聞くじゃん。」
「聞かなきゃいけないってルールなんてないでしょ。」
 そうして不毛な口論が始まるんだ。


 正しさを突きつけてぐうの音も出ないようにして、相手に復讐する、溜飲を下げるみたいな行為。文句自体は筋が通っていて正しいんだけど、文句を言うかどうか、その選択は主観的なんだ。そうした恣意性を隠蔽する欺瞞にさっきの「夫」は苛立っている。
 でもこれ、「妻」の方が意識してわざとやってるわけじゃなかったりする、ってのがやっかいなんだよね。はっきり別の理由(たまたま感情が荒んでたとか、夫が飲み会に行って良い物食べて帰ってきてなんかムカつくとか)を意識した上で、戦略的に(?)正しさを突きつけて苛立たせようとしてるんじゃなくて、そうした意識もなくしていたりする。文句自体は正しい(筋が通っている)ばかりに、「文句を言うこと」も同じように正しいと思い込んで文句を言っていたりするんだ。
(ちなみに寓話でたまたま夫婦にしただけで特に性差を云々したいわけじゃない。「やっぱ女の方がずるいよね」なんて言いたいわけじゃないし実際、おっさんでも子どもでもこうした意識的/無意識的なずるさを発揮するときは発揮するしね。)


 それで、一貫性を欠いていたとしても気づいていないことが多いんだね。
 さっきの例で言えば、「ペーパーが切れかかってることに気づいたら買う」っていう慣習や、「お茶を片付けるときに相手に確認する」っていう慣習が彼らにはあるんだけど、「妻」は「夫」を非難するために、前者は慣習をルールにすり替えたような物言いをして、後者は慣習であってルールではないという言い方をしているんだ。
 他にも一貫性ということで言えば、いつもと違うことをあえてしている点とかね。


 実体験で言うと、母親がそんなふうに感情を害している時に文句を言うための文句を言うことがたまにある人だった。
 子供の時は、その文句というか説教に筋が通っていて正しいから反論もできずに黙ってた。でも大人になって、これは相手の土俵に上がる(相手がその文句で前提しているものを自分も前提する/共有する)から反論できないだけだってことに気づいた。前提から帰結するその筋道がどれほど正しかろうと、そもそもその前提の妥当性や、その話をすること自体の正しさ(一貫性や客観性)を確認しないといけないんだ、っていうことがようやく分かるようになってきた。もう一段階メタレベルで見たときにどうか、っていうことだね。
 それで22歳くらいのとき何かで母親と口論になった際に、構造的にあなたの物言いは卑怯だ、こうこうこういう部分を無視した上で話をするのは卑怯だ、みたいに一生けんめい説明したら、母親が泣き出した。
 あんたの言ってることは理解できないし、理解しようといまさら努力できないし、この歳でそんな風に子供に怒られたくない、って言われて母親に電話口で泣かれて驚いた。そうか、この人の限界ってこうやってあるのか、ということがようやく分かった。きちんと説明すれば相手に分かってもらえると自分が今まで信じてたってことに一番びっくりした。


 それからその限界を認めて、母親の言説の中にずるさを見つけても指摘せずに、ほとんどカスタマーサティスファクションみたいな、お客様満足みたいな接し方に切り替えて以来、わりと良好な関係を維持できてる。
 今は母親が例えば、アパートの上の階の人が夜中に起きててどういう仕事をしているのかわからない、みたいな話をするその口で、ここは田舎だから近所の人達が私達アパートの住人を監視して噂をしあってて嫌だ、なんて話をするときでもぼくはもやもやしながら「そうだね。」とだけ言うんだ。
 母親はぼくを大人になったと褒めてくれるけどそれは単に、相手に分かってもらえるという期待を消失させただけなんだよね。
 それ以来、母親に限らず誰かにそうした期待を全面的に持つということはもうなくなってきている。但しそれは相手の理解力への失望を必ずしも意味するわけじゃない。底の底まで話す手間を省きたいとか、自分自身にそれほど上手く話す技術を認めていないとか、相手の行動の変化を期待する場合に思想を伝えるより環境を変える方が手間が少ないとかいろいろな理由で、相手にダイレクトにそうした期待を持たないってだけだ。(全面的に期待はしないってだけで、人によってもちろん期待のレベルが変わる。)


 文句を言うために作られた文句、相手を苛立たせるための正しさ、そうした文句や正しさを召喚した別の要因(感情など)の隠蔽もしくは忘却を憤慨するという話だけど、一方で、「正しさ」を別の何かが召喚させるという構造自体を自分自身が免れているのかというと、そんなことは絶対にないと思うんだ。
 何か映画か漫画か小説について「こういう理由で面白かった」と客観的に説明するってことはよくある。そのとき本人はその判断の「正しさ」を信じているかもしれない。でも、面白い/つまらないを判定するものさし(価値体系)を使って語った時、他のものさしではなく、そのものさしを使って判定した、という恣意性は消えない。彼が作品に接した時の(あ、面白いな)といった感情を信じてものさしを新たに作り出したにせよ、それとも元々持っていたものさしに固執して判定しているにせよ、文句を言った「妻」と全く同様に彼は恣意的なんだ。


 例えばドストエフスキーの小説の登場人物たちのやたら長い会話について、「会話が長くてリズムがないからつまらない」と言うこともできるし、「会話の長さが『ある何事かを意味してしまうこと』を回避しようとする運動、モノローグを免れて真にダイアローグたろうとする実践を見せてくれて面白い」と言うこともできる。どちらも筋道立てて言うことができる。
 このときさらにもう一段階メタレベルのものさしを持ってきて、「リズムがなくてつまらない」と「ダイアローグになってて面白い」のどちらがより妥当かを判定することはできる。でもその一段上のメタレベルのものさしについて、他のものさしではなくそのものさしを選んだ恣意性は残る。どこまで行ったって逃げられない。
 それは、正しさ(客観性)はある限定的な範囲でしか成立しない/ある種の主観的な仮定を前提させない限り正しさは成立しない、ということを意味している。


 文句の話や批評の話にかぎらず、何か自分が正しいことを語っている気になったとき、その正しさがいったいどこから来たのかなって疑い、(あれ、これって文句言うための文句なんじゃないか)みたいな疑いを忘れないようにしたい。他人にそれを期待するかどうかはともかく、自分自身にはそうした疑いを課したい、っていう話でした。