やしお

ふつうの会社員の日記です。

河合隼雄『無意識の構造』

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/28729221

ユング派ではこんな風に心(意識/無意識)の構造を考えるよって理論と方法と実例を、かなりしっかり語りながらたった200p弱に収めてしかも詰め込みすぎの感を与えないっていう新書の理想みたいな本。岩波新書芥川也寸志の「音楽の基礎」に近いレベル。ただそうした形態(前提された体系から静的に説明される)の本なので目の前で新たな体系が立ち上がってくる、もしくは既存の体系が崩れていくワクワク感はないのと、体系の限界に触れる/根底が疑い直されることがない点が不満だとしても、そうした不満は本書にとってお門違いだと思われる。

無意識の構造 (中公新書 (481))

無意識の構造 (中公新書 (481))


 柄谷行人の『探求II』を読み終えた直後だったので、そこで書かれてたフロイトユングへの言及を思い出しながら読んでた。


 フロイトの理論は「感情転移」を前提にした理論で、リビドー(性衝動)っていうのも、その感情転移関係を前提にしたときに初めて出てくる概念なんだ。
 それで、神経症の患者はもともと感情転移のしわざで神経症になってるんだけど、感情転移を対話によって人工的に起こすことでそれを治療するっていう寸法なんだ。もっと言うと、正常な人も感情転移からは免れていないので、正常な人も実は多かれ少なかれ神経症だって言えるんだよっていう理論。
 ちょうどこれは、ソクラテスが対話によって知者を無知者の側に引き込んだ(みんな無知者だよ、ってことを示した)けど、精神病の人は引き込めなかったことに対して、フロイトはさらに拡大して、対話によって普通の人も神経症者なんだよってことを示したって話。それでもまだ消去されない他者が残る。それが分裂病者。
 感情転移を起こさない人というのがいる。それが分裂病の患者。そもそも「感情転移が起きないこと」によって分裂病が導かれてる。それだからフロイトの理論は分裂病に対しては無力なんだ。対話に引き込めないからね。
 それで、フロイトからの離反(例えばユング)っていうのは主に、フロイト理論の分裂病への無力さに対抗して、精神病の全般に対応しようっていう動きなの。


 ただ、そこでユングが言うように感情転移を抜きにしてリビドーを考え、フロイトの言うリビドーは性リビドーとしてリビドーの一形態に押し込める、というのは不可能だとフロイトが批判するのは(フロイトの理論から見て)正しい。
 リビドーは感情転移関係においてのみ根拠をもつ概念である、ということと、感情転移しない者(分裂病者)の存在がある、ということは、もしリビドー理論を完全無欠に成立させようとすると分裂病者は単に退行してるだけなんだって片付け方になっちゃうし、じゃあ分裂病者もきちんと「語り得ない者」として見据えようとするとリビドー理論を捨てないといけなくなる。
 ここがフロイトの理論の境界になる。フロイト本人はここに立ち続けてるように見えるけど、ユングたちはその問題をさっぱり洗い流してしまっているように見える。


 そんな話。