やしお

ふつうの会社員の日記です。

「人間観察が趣味」と言われてモヤッとするあの気持ち

 このまえ会社の後輩に「人間観察が趣味なんです」と言われた。冗談めかしてではなく断言されて、その場は「へえ、そうなんだ」と平然さを装って答えた。しかし言われた瞬間に感じた心のざわつき、かすかな苛立ちはいったいどこから来たのだろうかと考えている。



 まず「観察」のこと。
 ここでは「観察する私」と「観察されるお前ら」の間に線が引かれている。「私」が特権的な位置に立つことを前提しているのである。実際には「観察する私」は同時に「観察される私」であって、一方的に「観察する私」でいられるという特権性を成り立たせる根拠はない。


 もしそうした話を彼女にしたところできっと「私だって誰かに観察される可能性があるってことくらいわかってますけど」と言うのかもしれない。しかし本当にわかっていると言えるのだろうか。
 自分は一方的な観察者でいられるのだろうかという、特権性への疑いを本当に持ち得ていれば、口を噤むか、せめて「私、人間観察が趣味で、まあ、誰だってそうかもしれませんが……」と歯切れを悪くするかして、断言への恥じらいを見せずにはいられないのではないか。
 この恥じらいは、相手に見くびられることへの嫌悪を前提している。自分の発言の前提に気づかない程度に頭の悪いやつだ、などと相手に思われたくないという感情。
 それだから、ああして特権性の否定なしに断言できるということは、特権性への疑いを持たなかったか、相手に蔑まれることへの恐れとはそもそも無縁である(他人にどう思われても全く気にしない)かのいずれかだと思われる。しかし「人間観察が趣味」と、他人がどう見えるかをことさらに問題にする性向の人が、後者のように他人からどう見えても構わないと思えているとは考えづらい。前者(特権性への疑いを持ち得ていない)の可能性が高いように思われる。


 しかしここで私が問題にしているのは、彼女が特権性に意識的であったかどうかではなく、彼女が特権性を(自覚/無自覚にかかわらず)示したことに対して、どうして苛立ちを覚えずにいられなかったかという点に関してである。
 そうした特権性を突き付けられる=「私の方があなたより有利な立場にいます」と相手に言明されることで、つい苛立ちを覚えてしまうのは、自分も相手に「私の方が有利な立場にいる」と隙あらば突き付けたくてたまらないということを意味しているのかもしれない。相手に先を越された不公平感からくるフラストレーションが、この苛立ちではないかと考えている。
 もし本当に自分自身が特権的であろうとなかろうと構わないのであれば、相手とのそうした相対関係は問題にならない。こうした苛立ちが語るのは、自分自身が損得勘定から免れ得ていないという事態なのかもしれない。


 この損得勘定=自分が特権的であろうとすることと、先に見た「相手に蔑まれることへの恐れ」――自尊心と呼び替えられるかもしれないが――はほとんど似ているようでも、そこには差異があるように思われる。「人よりよく思われたい」という前者と、「人によく思われたい」という後者との間には、具体的に比較対象を措定するか否かという差異がある。
 ここではそれらがどこから来ているかということは問わずに、それらをどう採用するかについてのみ考える。結論だけ言えば今の私は、まずは前者のみを否定したいと考えている。それは単に、前者が感情の消費を伴う割にはそれほど有益さをもたらさないように思われるからだ。
 具体的な比較対象を措定した上で、その他者より自分が得することを目指そうとするとき、相手の得を阻止する方が、自分が得をすることより安易な方法であることが多い。自分と比べて出た杭を叩いて同じ高さに揃える作業に汲々とするか、そうできずに苛立ちにさいなまれるかするような状況を免れたいと願っている。
 ここでは損得勘定の淵源を問わない以上、そこから免れ得るかどうかは不明である。またそうだから、今の私の選択が正しいもしくは妥当であるとまでは言わない。他人が両者ともを採用したとしても、両者ともを否定したとしても構わない。今のところひたすら個人的な選択である。



 ここまで「観察」がどのような前提を含み、どのような含意を持って彼女から発言され、またどうして苛立ちが起こるのかを見た。
 同様に「人間」についても「観察」と同型で苛立ちを誘引していると考える。
 「人間」とは具体的な「この人」や「あの人」や「あなた」ではない。そうした個別性を全て消去して「人間」と一括りにされる。その一方で、それらを観察する「この私」の個別性はあくまで保存される。ここでも「他の誰でもないこの私」と「他の誰でもかまわないお前ら」との間に線が(「観察」での特権性に依拠して)引かれることになる。
 大切にしていた「他の誰でもないこの私」を、「他の誰でもかまわないお前ら」に押し込められた挙句、その押し込めた当人は平気な顔で「他の誰でもないこの私」を保持しているという不平等に苛立ちを覚えるのである。ここでその苛立ちを成り立たせているのは先に見た通り、自分だけが損をする/相手が一方的に得をするのは嫌だという損得勘定による。「他の誰でもなくこの人」という性質を、認めるにせよ破棄するにせよ、そこから自分自身を特権的に適用除外して考える前提は許せないというわけだ。



 ついでに「趣味」という言い草もなかなか薫り高い表現である。私の人生には本質的に影響しない/ただの楽しみである/やろうとやるまいと別に構わない、そうした雰囲気を醸成するのに有益である。



 人間、観察、趣味のいずれにしても、「私」をあくまでも安全な位置に留めているという特権性に対して苛立ちが起こるらしい。
 そこで、「人間観察が趣味なんです」に対する指摘の逆張りの表現を考えると例えば、
「私はあなたと見つめ合いたいんです、人生かけて!」
などという発言が考えられる。たしかに苛立ちは消失するとしても、ドン引きである。
 また、周囲から専ら観察対象であると見なされているような人、例えば出川哲朗氏が、
「人間観察が趣味なんだよね〜」
などと言い出したとしたら、我々は苛立つどころか笑い出すだろう。そもそも特権性を認められていない人が自身の特権性を主張し始めたとして、我々は危機を感じることもなくその滑稽さを笑って済ますのである。(そうして一方的に出川氏を観察する特権を我々が有していると信じ込んで安心している隙に、出川氏が我々を冷厳な眼で観察しているという可能性を忘れてはならない。出川氏は、我々を、見ている。)
 このように発言内容をずらして特権性の誇示を消去するか、発言者からあらかじめ特権性が奪われている場合を見て、たしかに特権性の誇示の消失と連動して苛立ちも消失することを確認した次第である。



 今回さしあたって、「人間観察が趣味」という言い草には特権性が前提されており、それを突き付けられることで損得勘定が作動して苛立ちを引き起こすらしいことが分かった。
 その過程で発言を要素に分割して、その一つ一つを論じてきた。するともはや、全ての要素がかけがえもなくよってたかって苛立ちをもたらしているように思えて「人間観察が趣味」は完璧な表現のように見えてくる。人間、観察、趣味、どの要素が失われてもあの苛立ちを支えるには不十分に思えて、もはや揺るぎなく完璧に思えてくるのである。
 その完璧さはもちろん、結論として「苛立ちをもたらす」を最初に据えた上で、そこへ至る道を見出しているのだから当然と言える。自らの観察の仕方のせいで完璧さが幻想されるだけであって、それを真に完璧であると信じこむのは倒錯である。


 しかしこの際せっかくなのでその倒錯に乗って、「人間観察が趣味」の強度をさらに増してみたい。「わたし〜じゃないですか」という表現を利用する。これは相手に(そんなこと知らんがな)と思わせて苛立たせる技術としてすでに広く一般に認知されている。そうして
「わたし人間観察が趣味じゃないですかぁ☆キャワッ」
と強度の高い発言を目の前にしても、
「ヤバーイ俺もだよぅー☆キャワッ」
などといっそ平然と、無心で返せるようになりたい。自尊心も損得勘定も放棄してしまいたい。
 迫りくる30歳を見つめながら、私はそうした願いを抱くのである。無益。