やしお

ふつうの会社員の日記です。

本音で言うのがえらいの?

 「本音で言うのはえらい」みたいな通念がふわふわ漂っている。これまでぼく自身も何となくそう思っていたけど、よくよく考えてみたらちょっと違う。
 違うというより、「本音で言うのはえらい」はいつでも成り立つわけじゃなくて、ある制約、前提条件があるはずだろうと思い始めてる。


 ある何かについて、ほんとうに真剣に考えて何もかもを徹底して疑い直してみたところ、得られた結論が社会通念や常識とはズレたものになっている、ということはあり得る。
 例えば「人工妊娠中絶は許されない」とか「母親が実の子どもを育てる義務などない」とかいう結論が得られるような場合。
 本人としては真剣に検討したかいもあって、前提(仮定・公理)群、その前提群の妥当性、その前提群から結論へと至る演繹的な手続きの正しさをよくわきまえて、その結論の持つ限界を十分に把握している。だから、たぶんほとんどの反論に対応できるなと思っている。でも、どれだけていねいに前提や導出の過程を説明しても、まるで理解してくれなくて、「私の理解できないものは間違っている」と言わんばかりに攻撃してくる人達がとても多くいることも彼は知っている。
 世間との衝突とそこで費やされる徒労をきらって、彼は黙っているかもしれない。
 でもそんな彼が、何かたまらなく必要を感じて、ついに口を開く。世間との軋轢を生みながら、それがどういう意味で誤っているかを示してゆく。
 そうした彼の姿を見て、「本音で語っててえらいな」と思うことはあり得ると思う。


 一方で、まるで検証なしに俗情そのものや、ただ反動的なだけの話、あまりに現実を無視して妥当性に欠ける放言を口にする人というのがある。それが例えば、何か人の欲望を制約するような社会通念、あれをしてはいけない(人種差別をしてはいけない)、こうでなくてはいけない(弱者を救済しないといけない)といった制約をひるがえすような言論であって、なおかつちょうど自分がそうした制約に欲望を抑えられていたりする当人だったりすると、つい「あの人は本音を言っててえらい」なんて言いたくなるのかもしれない。
 ただ自分の欲望を代行しただけの人をえらいと言う、自分の欲望を彼の上に投影してその成就を祝してえらいと言う。
 個人的な欲望の投影が誤っていると言いたい訳ではなくて、ただ個人的であるに過ぎないことを一般化して「えらい」と言うこと、言えると信じてしまうことが間違ってるんだ。


 その発言者がどれほど発言の妥当性と正当性を検証しているか確かめること、自身の感情(欲望の代行に発する快楽)を含めて徹底して疑い直すこと。
 そうした作業が課されてようやく、「本音で言うのはえらい」と口にできるはずじゃないのかしら。
 その前提を振り切って、ただ虚しく「本音で言うのはえらい」が通念になってふわふわ漂っている。無条件にいつでも現れる雲。そんなはぐれ雲にまるきり乗っかって「本音を言う彼の言説は正しいんだ」と信じる倒錯まで目にしちゃうと、ほんとうに暗澹としたきぶんになるよ。