やしお

ふつうの会社員の日記です。

無職に怒る親

 無職の子供に働けって怒る親、当人は本気で(この子のためを思って怒っているのよ)とか思ってたりするかもしれないけど、違うんじゃないかという気がする。


 もともと人間の子育てって本能でやってるわけじゃなくて社会通念や制度に突き動かされてやってる。例えば母性や父性は自然に存在する訳じゃないんだけど、「そういうものがある」って通念をはびこらせないとみんな育児放棄しちゃう。(あたしは母だからこの子を守るのは自然なことなんだ)って思い込ませてあげる仕組み。これは他の動物に比べると人間は自立するのにあまりに時間がかかるというとこからきてる。本能だけでやるには長すぎる子育てを、なんとかそれでもやらせないと滅びちゃうからっていうんで生まれた装置だという理解。
 そうした装置(社会通念)のひとつとして親孝行がある。よく考えると、親が子供を育てるのはともかく、子供が親に報いなければならない必然はなんだかよくわからない。それでもこうした社会通念が存在するのは、「子供を育てると報いがありますよ」っていう期待を親にもたせて子育てさせるためなんだ。そして「俺は親に報いたんだから、俺の息子のお前も俺に報いろよな」と世代間で伝搬してゆく。


 そういったことを考えると、親が働けって怒るのもよく分かる気がする。ほんとならもう報いがあってもいいはずなのに、これじゃあ約束が違うじゃないかっていう気持ち。しかもだんだん自分は寿命がせまってるっていうのに、早く働いてお返ししてくれなきゃ、っていう焦りがさらなる怒りを生む。
 そんなことない、別にお返しがほしいわけじゃない、別に子供に仕送りしてほしいわけでも介護してほしい訳でもなくて、単に子供の将来が心配なだけなんだ、無償の愛なんだ、ってゆう。その無償の愛ってなんだろう、ってゆう。
 (怒ってでも)相手をなんとかしたいっていうのは、何かしらの願望や期待を相手に押し付けることなしにはありえない。私が思う「こうすべき」を相手の上に成就させられればそれは、広い意味で報いなわけだよね。直接物質的な報いでないとしても心理的な報いである。
 そうした無償の愛みたいのが何か自然で本能的なものだと信じられて、だから私は正しいことをしている、という気でいることはよくあることだ。
 でも本当に自然で本能的な、動物っぽい状態というのは、子供が自立したらそれは「自分の子供」から離脱して全く別の個体か、せいぜい同じ群れの一員くらいの位置付けでしかなくなるってのだと思う。


 あるいは子供を完全な他人と見做して、その他人が寄生してるから何とか排除したい、っていう目的のために頑張って怒ってるってケースもあるかもしれないね。この無職のクソをあたしの人生から取り除きたい、経済的にも精神的にも負担を減らしたいっていう。それは全く利己的なことであって、もちろんそれは(この子のためを思って怒っているのよ)ということではない。


 別に、どんな文脈、意図だろうと親が無職の子供に怒るのはいけないことだ、なんて言いたい訳じゃない。
 ただ、いずれにしても自分自身のためなのに「あんたのためにしてやってるんだ!」っていう思い込みで迫ってくるのは本人にとっても相手にとってもつらいよねってこと。せめてあくまで利己的な振る舞いにおいて自分は怒っている、という意識さえ持てればお互いもう少し楽になれる気がするんだ。利己的な範疇の話なら、自分の価値判断に従って妥協点を見出すのもまだ易しいけど、利他的な範疇の話というのは、これはもう(自分が信じる)相手にとっての利を相手が実現してくれるまでは際限なく苦しみ続けないといけないからね。「自分のせい」だと思えば自分の振る舞いを変更するのも容易だけど、「相手のせい」だと思ってる限りは自分を直そうという気にはなかなかならない。
 わけもわからず怒ってる/怒られてるよりは、どういうつもりで自分が/相手が怒っているかわかってる方がまだしもマシなんじゃないかと思って。