やしお

ふつうの会社員の日記です。

国があほを助けるのは当たり前

 富士山に無装備でのぼって失敗したり、ヨットで太平洋を渡ろうとしてクジラにぶつかったり、ビニールボートで夜中に無人島に渡ろうとして転覆したり、命がヤバいマジでってなって救助してもらうみたいなニュースたまに見る。
 それでヤフコメとかで怒ってる人、どうかしてると思う。


 バカだなあって嗤うならわかる。呆れるならわかる。それか「保険くらい入ればよかったね」とかアドバイスするならわかる。そうじゃないんだよ。あいつら怒ってるんだよ。「実費で払え!」とかゆって。「税金どろぼう!」みたいな言いぐさで。権利感覚がむちゃくちゃだよ。
 それでやっちまった人の方もテレビに向かって「すいませんでした」「ご迷惑おかけしました」なんて謝ってる。具体的な対象じゃなく、世間の空気に向かって謝らせてるんだ。病的だよ。


 こういうとき「自己責任」って用語が出てくるけど、まるであべこべの意味で使われてる。
 「社会通念や道徳と違うことした人は国に頼るな自分でなんとかしろ」、そんな文脈で使われる。これは「大多数が正しいと思うこと」に従った人は優遇してあげるけど、そうじゃない人は冷遇するという意味だ。そんな馬鹿な。そもそも国って何?ってことを考えたことがあるのかな。こういう考えは、最初から国や法律や道徳がゆるぎなくあって、それに従って生きるシステムになってると思い込んでるだけじゃないか。


 「自己責任」は、たんに「自分の行為に対してのみ責任を負えばよく、他人の行為に対しては責任を負う必要はない」という近代法の前提だよ。
 ビニールボートで無人島にいこうとして転覆して死んじゃったとしたら、それは自主的に船出しちゃった子の責任であって、ビニールボートを売ったドンキの責任じゃないよっていう程度の意味。通り魔事件が起きたからって犯人に包丁売ったホームセンターの責任なんて問えないよ、っていう意味でしかない。
 この自己責任の原理は、責任の範囲を自分の行為に限定させることで自由を保障するためのものだ。そうしないとドンキがビニールボート売る自由がなくなっちゃうからね。
 さっきの拡大自己責任論は、「社会通念や道徳」といった価値観で自由を制限しようって話。真逆だ。


 国家の基本的な機能として、みんなが自分の価値感にしたがって行動する自由を最大限保障するというものがある。国家のそもそもの(理念的な)成り立ち方を考えれば当然だ。
 みんな自分の価値感にそって行動したい。でも価値感は人それぞれ集団それぞれだから場合によっては衝突する。殺し合いとかになっちゃう。それだとお互いしんどすぎるから調停する存在が必要になる。その調停者として国家がある。
 そうした成り立ちを考えれば、もし国家が価値感によって自由を保障したりしなかったりするようなら調停者失格だ。国家が、その人の価値感を問わずに自由を最大限保障しようとするのはこういうわけだよ。それを怠るということは相対的に別の価値感を優遇することになっちゃうからね。


 もちろん、仲裁をするということは、何かしらの価値感(ものさし)を立てて価値判断をするということになる。たとえば「自分の命や身体は大事だよね」っていう、かなりの程度で共有できそうな価値観をとりあえずおいて仲裁することになる。
 でも国家の価値感は、具体的に仲裁が必要な場面でのみ立ち現れるって点が大切だよ。たとえば一人でこっそり自分に麻酔かけて腕とか足とか切り落としてゆっくり死んでくのを楽しんでる人がいても、別に国家はその人に「自分の命や身体は大事だ」って価値感を押し付けたりはできない。具体的に彼の価値観が他者と衝突している=仲裁が必要な状態ではないからね。


 そうした国家観があれば、無計画があだになって遭難した人も、紛争地域でボランティアして誘拐された人も、国家が助けるのは当然だと思える。その人たちがどんな価値感を持って行動してたかとは全く無関係に、そんな価値判断は抜きで国家が助けるんだよ。
 もし国が「おまえはあほだから助けない!」「おまえは理念が崇高だから助ける!」とか言い出したらそれは「あほとは何か」、「崇高さとは何か」といった価値判断を採用して押し付けることにほかならない。たとえそれが道徳や社会通念など、どれほど大多数の支持がある価値感だったとしても、国家がそれを仲裁以外の場面で押し付けるとすれば、国家の存在意義の自己破壊だ。
 さいきんの自民党改憲案に「かぞくで助けあおう!」なんて価値観が書かれているのは狂ってるってのはそういうわけだよね。


 それで国があほを助けることへの怒りはお門違いだし、自由に対して有害だよ。ましてそれを政治家が言うなんてとんでもないことだ。国家がしなきゃいけないことと、してはいけないことの感覚がまるで欠けてる。でもそれなりの数「あほ助けるのいや!」って思ってる人(有権者)がいるんだから、そうした俗情を背負った人たちが当選する、もしくはそうした俗情を反映させた言動を政治家がするのも自然かもね。
 みんながあほに厳しくなるのはわかる。おれらは社会規範にのっとって清く正しくまじめに生きてるのに、あほはずるいよ! ってわけだ。そうしたあほの存在というのは、自分のまじめな生き方を否定するような存在だから、自分の生き方を守るためにあほを否定せずにはいられない。価値観がまさにそういう自己救済として他者の排撃に向かう側面があるからこそ、国家による、価値観によらない自由の保障があるんだよ。


 ヤフコメ見てると「あほの事故は自己責任だ!」って批判する一方で、例えば創作物の児童ポルノが規制されるかもしれないってニュースには「表現の自由の侵害だ!」なんてコメントが上位にくる。いったいどの口が言うのかよ。自分にとって都合の悪い価値観は国家に否定しろと言って、その舌の根も乾かないうちに、国家が自分の価値観を否定しようとするとやめろという。虫がよすぎる。