やしお

ふつうの会社員の日記です。

愚痴にマジレスする構造

 ブログやら何やらの愚痴に、コメント欄やブックマークで「全然わかってない」、「こいつはダメ」といったコメントしてる人見ると、なんかちょっと違うんじゃないの? という気持ちになる。


 この前これ見てて思ったんだけどね。
「意味不明な値段交渉」http://anond.hatelabo.jp/20130730124538
 営業で値引き持ちかけられて断ったら相手が怒り出したけど、えーっ俺悪くないよねえ? みたいな話。
 そんな愚痴に対してブックマークにいっぱい「お前は営業失格」とか「そこは上司に聞いてみますねで持って帰るのが当たり前だろ」といったコメントが並ぶいつもの光景。
 エントリの最後に「今、車の中でどうやって上司に説明しようか悩んでいる。」ってある。スーツ着たお兄さんだかおっさんだかが、わけもわからず(えっ、えっ、俺がわるいんじゃないよね??)とか思いながら車の中でせっせとスマホちょかちょか押してこれ書いてんだよ。そういうの想像すると、わざわざコメントで「お前はわかってない!」、「お前はダメだ!」なんて言おうって気にはもうまるっきりならないよ。




 愚痴って、自分の価値体系、概念体系と衝突する事態や人物に接したとき、自分自身の価値体系を守るために出てくる。
 みんな生まれてからずっとトライ&エラーで「あれはしちゃダメだ」「これはこう考える」と大人に怒られたり褒められたり、失敗したり勉強していく中で自分の価値体系を作り上げて、社会に適応させて生きてく。その価値体系は自分自身そのものだよ。肉体に対する精神といった意味じゃなくて、そもそもが肉体も精神も価値体系を通してしか把握されないという意味で、この価値体系とは自分自身そのものなんだ。
 でもそれが否定される場面というのは絶えず現れる。そんなとき、その場面を肯定できるように価値体系を作り換える(否定したり止揚したり付け加えたりする)か、逆にその場面自体を否定するかしていく。場面の否定の一発露として愚痴がある。「新人マジ使えねえ」とか「男子高生が電車で騒いでてムカつく」とか。
 価値体系が自分自身そのものである以上、その価値体系を否定することは耐え難く苦痛だ。だからその価値体系が揺らいだとき「俺の価値体系は間違ってない、大丈夫だ」と言いたくなるのは、生存本能と同じくらい強力で当然じゃないかと思う。
 そこで誰かに自分の価値体系を肯定してもらって、自分を救済したい。それが愚痴という形で表れる。そういう風に思ってるから「愚痴なんて言うな!」は「黙って死ね!」って言うのと同じじゃないかって気がしてとても言えないよ。


 そして愚痴に対するマジレスというか正論、「お前の価値体系が貧しいせいでその現実に対処できなかっただけだ」という指摘(例えばアドバイス)を突き付けられた時に、その相手が「そんなことわかってるよ!」みたいな態度をとることがよくあるけど、それも実に自然なことだと思う。
 だってそもそも、価値体系を防衛するために、現実認識を抑圧してる=あえて考えることをストップしてるんだから、「ちゃんと考えればわかるだろ」と言われてもそりゃあそうでしょうよ、という話なんだ。


 これは大人でも子供でも関係ないよ。価値体系の保全は一生続くからね。ただ、「原理的に完全に正しい価値体系は存在しない」とか「価値体系は常に動的なものである」といった認識を持ち始めると、むやみに自分の価値体系に固執する必要が消えて、柔軟になれる。あるいは価値体系の中で譲れない部分とどうでもいい部分の切り分けが進むことで柔軟な部分が増える。そうした蓋然性が子供より大人のほうが高いってことはある。
 それだから、大人から見ると(なんでこんなことで怒るんだろう?)ってことに子供はこだわったりするし、「子供っぽい人だな」と見なされるのはそういう傾向のある人だ。でも本人にとっては真剣だよ。なにせ、自分そのものがかかってるからね。




 もともとぼくは、自分と違う価値体系を持つ人が現実のどのような点に齟齬を感じるのかってところを見たいと思ってる。一般人のブログやはてな匿名ダイアリーなんて、誰に頼まれたわけでもないのにそれを見せてくれるんだよ。そういうの見られるだけでうれしいしありがたい。(それが愚痴の形式とは限らないけどね。)
 だから、そうした無償の愚痴に対していきなり否定しにかかるのは、恩をあだで返すような気になる。タダで物もらっといて、パンチでお返しみたいな。
 それでもしコメントするなら、まずは「あなたが今持ってる価値体系からすれば、その現実はつらいよね」という相手の状況の追認をして、愚痴の目的を達成させてあげたい。もらった分の対価は払いたい。その上で必要があれば、相手の膠着状態をちょっとくらい解消できそうなアドバイスを「こういうのもあるかもしんない」くらいな差し出し方をしたい。
 これじゃ子供に対する接し方そのものだけど、構造はいっしょだから当然だよ。


 それに「お前はわかってない」という形で愚痴を否定すると、その態度自体が愚痴の一形態になってしまうという矛盾があるしね。(このエントリ自体がそうかもしれないけど。)
 頼まれもせず社会的な価値も特にないのに、わざわざコメントで「こいつはバカだ」って言うのは、「俺の方がわかってる!」ってアピールしたいからだ。自分の価値体系を否定するような存在を見て、自分の価値体系は優れていると殊更に声を上げずにいられないのは、愚痴で見た防衛機構と同種のものだ。
 「いや、間違った意見が称賛されてるから否定してバランスを取りたいんだ」って言うかもしれないけど、その「バランスを取るべきである」という命題も当人の価値体系に回収されてしまうという袋小路。


 じゃあ「愚痴にマジレスするな」というイデオロギーで抑圧されればいいかというとそうじゃない。愚痴と愚痴、異なる価値体系の衝突する光景が眺められるのも、個人ブログや匿名ダイアリーに対する思いと全く同様にありがたいことだよ。たとえ「お前ら脳みそ洗浄して出直してきなよ!!」ぐらい苛ついても、ただ目の前から消えればいいとは思わない。戦争がなくなればいいと思ってることと、現実に存在する戦争を報道するのはやめないでほしいと思ってることは両立する。