やしお

ふつうの会社員の日記です。

蓮實重彦『映画はいかにして死ぬか』

 80年代前半の講演を収めた本書の第1講「映画はいかにして死ぬか」では映画の歴史性について語られる。1895年に映画が誕生し、1950年代に崩壊の兆しを見せ始め、1973年に崩壊に自覚的になお撮ろうとする人たちが登場した、という話である。最近読み返したのでまとめてみた。


 音を獲得した20年代末から50年代始めまでの20年間で「古典的なハリウッド映画」の安定した形式が成立した。それを支えたのは、何となく映画業界に入り込み、業界の中で鍛えられて一家をなした人たち、例えばフォード、ウォルシュ、ドワンといった監督たちである。日本で言えば溝口、小津、マキノといった30年代を支えた監督たちが対応する。体質的に映画の語り方を学んだ人たち。


 第二次世界大戦直後に世代交代が進んだが、大学を出て映画以外で積んだ教養を評価されて登用された監督たちが登場した。
 彼らは前の世代より教養も知識もあるしハリウッド的な楽天性を再生産するわけにはいかない。しかし新しい作品をプロデューサーに認めさせる実績もない。そこで既存のジャンルを利用しつつ社会批判を盛り込みながら、かつ演出の手腕がずば抜けていないといけない。それがロージーの「緑色の髪の少年」、レイ「夜の人々」、オルドリッチ「アパッチ」、ポロンスキー「苦い報酬」、フラー「拾った女」といった作品である。


 しかし彼らは50年代のハリウッドの危機にさらされることになる。それは赤狩り、テレビの興隆である。
 大学出身の彼らは左翼知識人との付き合いが多かれ少なかれあったために赤狩りの餌食になる。亡命するか、亡命する経済的余裕がなければ仲間を裏切るしかなかった。
 またテレビの興隆で映画の集客力が薄れ、優れたB級映画の職人監督たちがテレビに流れることになった。ハリウッドが持っていた二流三流の映画を量産して資金を回収する反復、再生産の場が崩壊した。
 またテレビとの差別化のためシネマスコープヴィスタビジョンなどの大型スクリーンを開発、たとえば「クレオパトラ」などの超大作を撮り始めることになる。超大作は人件費が高騰、スタジオに大きなセットを組めなくなり、人件費の安い他の国に出かけることになった。ここでハリウッドはスタジオ・システムの終焉を迎える。
 最初はメキシコに行く。風景が似ているため西部劇がよく撮られたが天候の変化が激しいという欠点があった。次はスペインで郊外にハリウッドと同じスタジオが作られる。50年代終わりから60年代始めに、あの大学出の監督たちが動員される。例えばレイの「北京の55日」における北京はスペインである。肉体的にもアメリカでの撮影と比較して辛く、才能のある監督たちが使い潰されていく。
 こうしたスタジオ・システムの崩壊は10年ほど遅れて70年代の始めに日本でも起こることになる。


 スタジオ・システムとは、各制作会社が専属の俳優・監督・技師を抱えて会社の特色をもった作品を量産する体制のことである。これが崩壊すると言うことは、映画の技術者も失うということである。
 例えば雨ひとつとっても、雨はそのまま撮っても雨に見えないという困難がある。例えば雨の向こう側から照明を当てて雨を黒く浮かび上がらせるなどの必要がある。雨の降らせ方ひとつにも会社ごとの方法があったが、それが失われていく。
 雪の降らせ方であれば、今村「楢山節考」、ダンテ「グレムリン」、コッポラ「コットン・クラブ」といった作品にはもはやそうした技術は失われており、例えば山中「河内山宗俊」は、ただ紙吹雪を降らせてあるだけであっても、その降らせるタイミング、見せ方などの技術によって風景を異化する力を備えている。


 フランスのヌーヴェルバーグが一段落した後の72,3年、50年代の歴史に対して自覚的な監督たちが登場する。スペインのエリセ、西ドイツのヴェンダース、スイスのシュミット、ギリシャアンゲロプロスアメリカのイーストウッドなどである。
 ヴェンダースがレイを自作に俳優として登場させ、シュミットがサークのドキュメンタリーを撮り、エリセがアメリカからは失われたかつてのハリウッド的な技法(映画の構成、気候の捕え方、地平線の位置といった基本的なところから)を駆使して「ミツバチのささやき」を撮り、イーストウッドが雨や雪と共に消えた「若者を支える老人」を登場させる。
 彼らは「50年代アメリカをアメリカ人は忘れている」という意識を背負った映画監督なのである。それが外国人であったり、西部劇のスター俳優であったりする。スタジオに大きなセットを組むなどはじめから考えていない。映画は日々いろいろ失っているがそのことに自覚的であることが倫理的なのだ。


 「映画はいかにして死ぬか」は「映画はこうして死んだ」ではない。死の予感がいたるところにある。映画は永遠のものではなく、きわめて歴史的な体験なのだ、という意識を欠いて映画を語ることは、抽象的な言説しか生み出さない。


映画はいかにして死ぬか―横断的映画史の試み 蓮實重彦ゼミナール

映画はいかにして死ぬか―横断的映画史の試み 蓮實重彦ゼミナール