やしお

ふつうの会社員の日記です。

読んでびっくりしたこの7冊(文芸以外)

 2011年以降に読んだ本の中で、とにかくびっくりした、目からウロコが落ちたっていう体験をさせてくれた本のまとめ。小説・批評・哲学を加えると数が増えすぎるのでそれ以外から7冊。


【音楽】金子一朗『挑戦するピアニスト』
【文学】佐藤信夫『レトリック感覚』
【宗教】中沢新一『チベットのモーツァルト』
【数学】長沼伸一郎『物理数学の直観的方法』
【社会】宮崎学『法と掟と』
【心理】岸田秀『ものぐさ精神分析』
【映画】蓮實重彦『映画はいかにして死ぬか』


【音楽】金子一朗『挑戦するピアニスト』

 著者は中高一貫校の数学の教師が本業ながら、参加者数が日本最大のコンクールで40代になってグランプリを獲得した人。社会人の自分はプロを目指す若いピアニストたちには技術的にも費やせる時間もかなわない。ではどこに優位性があるのか。それは曲の解釈の深さとその意識的な提示である。
 というわけで本書ではピアノ曲をいかに解釈するか、そしていかに演奏で実現するかということが極めて実証的に、具体的に示される。


 中学生くらいのとき私は、クラシック曲の演奏は演奏技術の優劣(ミスタッチがないとか指がよく回るとか)で決まるのだろうと漠然と考えていた。しかしその後、技術力で優劣がただ決まるわけではなく、演奏を通してその曲の新たな面を見せるような、創造的な行為なんだろうと理解し直した。ただ、具体的にそれがどういうものかまでは知らなかった。
 そうした「そんなこと考えて弾いてたのね」を本書では目の前に見せてくれて面白い体験だった。


 例えば「メロディーと伴奏」型の曲はソプラノラインとバスラインの音量のバランスを取りながらその中で内部の音を表現していく必要があるといった話がされる。実際に楽譜や作曲家をいくつも例示しつつどのようにそのラインを捉え、音量のバランスを取るかを見せてくれる。さらに他に対位法タイプの曲、和音タイプの曲があり、さらにそれらが組み合わされたときにどう把握しどう弾くか……。そうした複数の面が絡み合いながら、同時に意識して曲が実現されていく。読んでいるだけでも、目の前で職人芸的に組み上がっていくようで、スペクタクルな体験。


 曲を仕上げる手順にしてもなかなか独特で、他人の音源を聞かない、楽譜を複数の版でそろえる、必ずしも楽譜には従わない、といった方法をとっている。それがどのような点で合理的か説得的に見せてくれて、また演奏などの身体的な行為で、かなり言語化が難しい事柄についても定性的な表現で解説していく。
 著者が一から疑い直して検討して実践して改良していった方法論、この積み重ねを、惜しげもなく見せてくれる。


 読者レベルとして私は、楽譜の読み方、メロディー、和音、調などの概念を知っているが、和声学はわからないしコード進行は一つも知らないという程度だったが十分に楽しめた。たださすがに「メロディーって何?」というレベルだと読むのがつらいと思う。


 余談だが、YouTubeで著者の演奏の映像に「数学の金子きもいww」みたいなコメントが付いているのを見て、そうそう中学生の教師への態度ってこんなだよねと思ってなつかしかった。


挑戦するピアニスト 独学の流儀

挑戦するピアニスト 独学の流儀


【文学】佐藤信夫『レトリック感覚』

 直喩、隠喩、換喩……といったレトリックの技法に関する話が紹介される。といっても教科書ではない。それぞれの定義と実例を挙げて事足りるなら他愛なく静かな解説書だが、ここで展開されるのはそうした穏やかさとは無縁の、定義を問い直すというダイナミックな運動である。


 まず最初に、レトリックが文章をただ装飾して華美にするだけの、本質的な機能ではないといった通俗的な観念をしりぞける。そうではなく、レトリックは心情的な正確さを求めるものだという。「美しいです。」とだけ言って美しさが他人に伝わりはしない。「俺の妹が可愛い」に対して「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」(緩叙法)がどれほど心情的に正確な印象を読み手に喚起させるかということである。
 そうした問い直しから本書はスタートする。(妹の話は出てこないが。)あたかも最初から自明に存在するかのように語るのではなく、いったいそれは何なのか、どこから来たのかという起源への問いを発しながら進む態度を冒頭から見せてくれて、我々をわくわくさせてくれるのだ。


 そしてそのわくわくは、個別の技法の章に入っても止まらない。
 まず直喩、「○○のような××」という形式について。一般的に直喩は××に類似した○○を置く表現だと思われている。「りんごのように赤い頬」である。しかしそうではないという。直喩は、作者と読者の間であらかじめ共有された類似性に基づいて成立する訳ではなく、直喩によって類似性が創造されるのだという。例えばもし「男子中学生のシャツみたいな女」などと言われた場合、これまで存在しなかったシャツと女の類似性が無理やりそこに立ち上がらざるを得ない。直喩にはそうした暴力的な側面が備わっているという。「りんごのように赤い頬」といった教科書的な例示だけ考えていてはこの直喩の暴力性を見落とす。
 このように今までの認識を転倒させてくれると、まさに目からウロコの体験があって、心底この本を読んで良かったなという気分にしてくれる。


 価値の転倒はその後も一貫して続く。
 次の隠喩の章では、「隠喩の方が直喩よりも粋で気の利いた表現だ」という通念が打ち砕かれる。直喩と隠喩の特質の違いを明確にして位置付け直される。換喩の章では、これまでの伝統的な定義が、帰納的なアプローチでも演繹的なアプローチでも不全に陥っていることが明らかにされる。定義しようとすると換喩はすり抜けてしまうのである。実はこの現象が、換喩が人間の認識のあいまいさを表現する性質を持つために起こるものだということを見せてくれる。その後の提喩、誇張法、列叙法、緩徐法の各章においても、さまざまな方法で慣習的な価値感を壊して鮮やかに新しい形を与えてくれる。


 真の分類という行為は、特徴の抽出とカテゴライズに終始しないこと、起源の問い直しにおいて新たな形を与える行為であることを、まさに目の前で見せてくれる本なのだ。


レトリック感覚 (講談社学術文庫)

レトリック感覚 (講談社学術文庫)


【宗教】中沢新一『チベットのモーツァルト』

 ネパールやインドでチベット密教を修行した著者が、密教の認識や方法について現代西欧の思想と平行・交差させながら語っていく。それは見識を深めるとか広げるとかいった話ではない。むしろ我々の現実認識がどのように固定されているか、そしてどのようにそれを解体するかという話だ。


 私の個人的な話だが、20歳位のときに絶対主義的な見方から相対主義的な認識へ切り替わるという経験があった。
 それまで数学や物理学は真実を記述する普遍的な理論だと漠然と思い込んでいた(絶対主義)。しかしそうではなく、数学も物理学も道徳も法体系も、どこかで前提(仮定、公理)を主観的に採用せざるを得ない点でいずれも主観的であり、完全に客観的な真実は存在しない。それだからある命題を否定する理論と肯定する理論がどちらも正しいという事態はあり得る(相対主義)。
 この認識の転換が起こったとき、それまで衝突し合っていた「真実」たちの位置がきれいに収まっていった。大袈裟な言い方だが、世界がすっきり見えて景色がすっかり変わるという体験をした。


 「孤独な鳥の条件」ではそうした相対主義的な認識が語られる。
 ラマ(密教の師匠)が弟子に瞑想の修行を通じて超現実を体験させておきながら、それを否定するという。今までの現実はウソで、瞑想で見たものこそ真の世界だという考えを否定するのである。瞑想での経験を絶対視することは、それまでの現実の絶対視と同じで絶対主義でしかない。そうではなく、どちらも存在すると認めて相対主義的に捉えなければならない。それを強制的にわからせるための修行と問答だという。


 しかし本書は相対主義に留まらず、さらに踏み込んだ態度を要求している。相対主義は、他の「現実」を認めつつどれかの「現実」を選ぶという選択の問題に帰着するが、そうではなく、緒現実の間、そうした現実の立ち現れる以前をいかに見つめるかが問題なのだ。そのメソッドとしてのチベット密教が語られている。


 特に「病のゼロロジック」ではその点が明確になる。絶対主義でも相対主義でも言語や自我が二元論を引き起こしてものを見えなくしてしまう様子と、それをチュウ(密教の儀式と理論体系)でどう解体していくかが語られる。
 チュウは身体的な技法であって私自身がその修行をすることはないとしても、相対主義を越える一つの姿を見せてもらえること自体がかなり刺激的な体験だった。絶対主義から相対主義への移行で感じた驚きの、その先がまだあり得ると知る感動がこの本にあった。


 ところでこの著者の諸作に対して、ファンタジックである=前提が妥当でないという批判をよく見かける。だがそれは、完全に無益ではないとしても、有効性に乏しい指摘だと思う。それらは現実に優位性を置く絶対/相対主義的な認識から発する批判だが、そうした認識を越えることを語る人の前では無力である。
 だからむしろ、十分にファンタジックでないと批判すべきなのだ。そのファンタジーの強度不足を言い立てることはできるし、実際この著者にはそうした著作がいくつかある。しかし本書に限って言えば、チベット密教というファンタジーが十分説得的に語られていて面白いと思う。


チベットのモーツァルト (講談社学術文庫)

チベットのモーツァルト (講談社学術文庫)


【数学】長沼伸一郎『物理数学の直観的方法』

 例えば、微分という操作が関数の傾きを求めるものだということは知っている。積分が関数の面積を求めるものだとも知っている。さらに微分積分が逆演算の関係にあることも知っている。では、傾きが面積の逆になるとはどういうことか? 具体的なイメージをもって説明できるか?
 そうした数式のイメージを本書は与えてくれる。


 数学が専攻でない理工系の学生は、数式の意味や目的を理解しないまま教わり、試験の必要に迫られてただ暗記し、その後道具として使っていくうちに一応は使えるようになっていく。そして「この道具はなぜ使えるのか」という当初の疑問は忘れ果ててしまう。
 しかし最初から教師がこの「道具が使えるわけ」=数式の直観的なイメージを、厳密さを捨ててでも伝えてくれれば、学生はわけもわからず頭に叩き込む苦痛を味わわずに済むはずだ。
 そんな本があればいいなということで、本書を著したという。
 著者は高校時代に、数学と物理に関しては教科書と参考書は目次しか見ない、授業から学ぶことも人に聞くこともならない、という変態的な誓いを守り、自力で定理の類を導いていたそうで、そうした姿勢が本書を支えているようである。


 加藤文元という数学者が『物語 数学の歴史』(中公新書)の中で、「『数学すること』において、最も重要な行為は『計算する』ことと『見る』ことである。」と言い、この「形式的側面と直観的側面」を「一つに統合することが西洋数学の悠久の目標」であったと書いている。
 本書はその統合の、有用で身近な一例だ。


 10章にわたって、微積分、テイラー展開行列式固有値……と数式のイメージを明快かつ簡潔に見せてくれる。私自身は専攻が電気工学だったため、特に「ベクトルのrotと電磁気学」の章が面白かった。
 演算子rot(ローテーション・回転)がどういう意味で「回転」なのか学生の時は定義式を眺めてもさっぱりわからなかった。その疑問を放置して試験をやり過ごしたのに、まさかおっさんになってから、水車のイメージで確かにrotが回転の算出になっていると鮮やかに理解することになるとは全く因果な話である。その上この章では「ことのついで」といった具合に、rotのイメージから電磁気学マクスウェル方程式において、電場と磁場がお互いを前進させあって、電磁波(光)の全体が前進していく様子、さらにその前進速度c(光速)の定義のイメージまで描写されて唖然とさせられる。


 なお最も長い最終章は、本書の当初の位置付けからは逸脱し、行列の概念を用いて世界を認識するという思想的な話になっている。モデルそれ自体への疑いの態度に欠けるため読んで興奮を覚える内容では必ずしもないとしても、「部分に分けて考える」というありふれた思考の前提がはらむ限界を、行列のイメージで見せてくれて面白い。




【社会】宮崎学『法と掟と』

 日本はなぜこれほど「空気を読む」ことが強制されているのだろうかという疑問を考える本。
 大震災でもちゃんと列に並んでてえらい、電車とホームのすき間に落ちた人をみんなで電車を押して助けてえらいと称賛するその口で、あんな原発事故があったのにもっと怒らないのはおかしい、みんな紺かグレーのスーツきてたりみんなマスクしてたりして変などと非難される。外国人や日本人自身によるこうした「日本人性」の指摘は、文脈の違いで肯定・否定が変わるだけで、根本的には「空気を読む」ことを強制する雰囲気の強さから説明できる。そんな現状認識が、本書を読んだ後では素直に納得できる。


 本書では、日本は個別社会(職能、血族、地域等でまとまる社会)が弱いという特徴から、空気を読ませる社会や、規範意識のおかしさ、差別の構造などを導出していく。西欧では個別社会の自由を確保する形で立憲主義的な国家を誕生させたのに対して、日本では不平等条約の解消のため明治期に個別社会を弾圧して近代国家の体裁を急いで整えたためだという差からくるという。


 本来個別社会にはその社会の価値感を反映させた規範である掟が備わる。掟は全体社会=国家が持つ法という規範とは性格の異なる規範である。掟は社会の価値観を反映させる一方、法は(というより立憲主義における憲法は)本来個別の価値感には踏み込まない。それは法が、個別社会や個人の価値感の自由を保障するために成立してきたという出自による。
 しかし個別社会が弱いと、社会=全体社会と見なされ、掟を法に反映させてしまう。それで「家族を大切にしよう」といった価値感を憲法に反映させようなどという倒錯や、「幸せになる権利が保障されている」といった誤解、規範意識のおかしさが蔓延することになる。イラクで邦人が誘拐されて噴出した「自己責任」論や、表現の自由に関する裁判で「芸術だから許されるべき」と主張することもそうした規範意識の倒錯からくる。


 また個別社会が全体社会に転化する社会では空気が読めない相手への許容度が低い。
 「異なる価値観を持つ個別社会が複数存在する」という前提がないため、価値感の異なる相手を「別の社会の人間だからだ」と考えて済ますことができない。「日本人じゃない」と差別する(在日韓国人に対するように)か、「そんな者はいない」と無視して存在を否認するかのいずれかである。こうして差別や世間力の強さが生まれる。そして全体社会しかない以上、追放されても他に移動する社会がないため、追放されないように空気を読んで生きていかなければならない。こうした感覚が個人レベルで内面化されている。


 そんな話が本書では展開される。原理的な話というより、そこからいかに私達の生きるこの現実を把握するか、当たり前だと思い込まないように見るかを考えていく態度に魅力がある。




【心理】岸田秀『ものぐさ精神分析』

 本書は精神分析の手法や技法、思想を紹介するものではない。現実のさまざまな現象を精神分析的な視線で眺めて見えてくる風景を語る本である。本書の「心理学無用論」の中で「現代の心理学が、人間の心に関する日常的な素朴な問いかけから切り離されている」という問題意識を示しているが、本書自体がその実践になっている。
 思春期はなぜ訪れるのか、親孝行という社会通念はどうしてあるのか、同性愛は生物の本能に背いていて不自然と言うが本当だろうか、どうして自殺する人がいるのか、恋愛で人に惹かれるのはなぜか、性交時の前戯は種の保存とは無関係だがどうしてするのだろうか、自己嫌悪とは何か、といった「日常的な素朴な問いかけ」を考えていく。


 例えば本書の最初のエッセイ「日本近代を精神分析する」では、日本は精神分裂病的であるという視点で近現代の日本の歴史が説明される。江戸末期の強制的な開国から発症し、尊王攘夷、和魂洋才にどう現れているか、西洋の植民地と違い日本が韓国や中国を日本化しようとしたのはなぜか、日本が英米に対して宣戦する心理は何か、捕虜になった日本兵が急に協力的になったり、戦後、親米に転回したのはどうしてか、戦後の経済成長はどのように成し遂げられたのか……といった話が論じられて興味深い。(もう少し詳しくまとめたもの→id:Yashio:20130813:1376502774)


 精神分析的な視点から見るといっても、既存の概念をただ都合よく導入して説明するわけではない。心理学のタームを出して「これはそれです」とただ分類に終始して、そのターム自体は正しいという前提で論を進める「心理学者」の光景はテレビでもよく見かける。(テレビの場合は説明している時間がないということもあるかもしれないが。)しかし本書では、人間の生物学的な特徴や制約から出発して、そうした心理学的、精神分析的な概念を地に足についたものにしている。


 一方で、読み進めるうちにやや退屈を覚えるのも事実である。しかしそれは本書にとって瑕疵ではない。
 退屈になるのは予想通りの展開が訪れるからだが、それはもはや題材の処理の仕方、本書が語る考え方が自分の身についてきている証拠である。それまで丁寧に原理となる考えから説明し続けてくれたおかげなのだ。彼の精神分析的な視点が身についたのなら、この退屈さは喜ぶべきことだろうと思う。
 実際に著者自身がこれは同じ事を語っているに過ぎないとも言っている。彼のこの「同じ事」=理論体系は修正フロイト主義とでもいうべきもので、どの点でフロイトの思想を引き継ぎ、どの点で修正しているか、またその修正の妥当性については著者の続刊「出がらし ものぐさ精神分析」に収録された修士論文と博士論文にまとめられている。学者としての出発点から一貫しているようである。


ものぐさ精神分析 (中公文庫)

ものぐさ精神分析 (中公文庫)


【映画】蓮實重彦『映画はいかにして死ぬか』

 著者はただ映画の批評家であるばかりでなく、教育者としてもかつて立教大学で映画論の講義を通して黒沢清万田邦敏塩田明彦青山真治周防正行といったその後の日本の優れた監督たちに大きな影響を与えた、ひたすら実践的な人である。(ただし本業は仏文学の東大教授。)
 「実践的」とは一体どういうことか。それは現に画面に映っているもの、現に聞こえている音を、徹底的に見て聞くことだ。キャメラの位置、人物や物の配置、物語の構造、カットが何秒持続し、どの瞬間に何の音が響いたか、あるいは何が無かったか、そしてそうした現実がどのようにつながったり遊離したりして作品として結実しているのか。またそうした作品たちが、地域や時代、作家や歴史の上でどのように関係していくのかを見ることだ。
 本書に限らずこの著者の映画に関する著作を読むと、どれほど私たちが映画を見られてはいないかが爽快なほど残酷に突き付けられる。


 80年代前半の講演を収めた本書の第1講「映画はいかにして死ぬか」では映画の歴史性ついて語られる。1950年代のハリウッド衰退と、73年のそれを引き受けた監督たちの登場という話である。(もう少し詳しくまとめたもの→id:Yashio:20130813:1376502775)
 これは歴史を図式的に構成して各時代の作品を当てはめて事足りるといった楽天的な態度ではない。歴史が単純に発展するという楽天性を捨てて、現に失われるものがある中で新しい可能性が拓かれていくのを見るという態度だ。「映画はいかにして死ぬか」は「映画はこうして死んだ」ではないのである。
 第1講は映画監督を中心に見ていくが、第2講「異邦人の饗宴」では美術監督キャメラマン、第3講「放浪の音楽家」では音楽家が、国境を越えたり影響を与えあったりしつつ現実の映画作品にどう現れていくかを詳しく見ていく。
 こうした話を観念的でなく実証的にできる人が果たして世界に何人現存するだろうかと思うと途方も無い気持ちになる。


 ただ本書は85年の刊行なので最近の映画については、現在も連載中の時評を途中までまとめた『映画時評2009-2011』や、黒沢清青山真治両監督との鼎談集『映画長話』が読みやすい。現在映画を撮るとは何を背負うことになるのか、その一端を味わえる。


 ところで全くの余談だが、私は著者のトークショーを2度見学したことがあって、(こ、これが本物のインテリか……(ゴクリ))みたいな気分を味わった。別に思想や文学、映画の教養の深さには今さら驚かないが、そうした話を口頭で展開しても極めてクリアである点に衝撃を受けた。
 ふつう我々が人の話を聞くとき、足りない情報を推測で補ったり、前後する話をスタックして再編成したりという作業を絶えず行っている。しかしそれを話し手の側が処理しているから話がクリアで、その上ユーモアも交えて飽きさせない。言葉のだぶつきもない。ライブでここまでできるのかと驚いた。
 私は大学を出ていないが、大学にはこんな先生が平気でいるのかなと思うと、嫉妬のようなものさえ感じる。


映画はいかにして死ぬか―横断的映画史の試み 蓮實重彦ゼミナール

映画はいかにして死ぬか―横断的映画史の試み 蓮實重彦ゼミナール






 どれも今さら紹介するまでもなく評価の高い本だけど、読み返す機会を作りたかったという利己的な理由から書いてみた次第。つい長くなった。今度はもっと簡潔に新書なんかを紹介してみたい。