やしお

ふつうの会社員の日記です。

「正しい日本語」を使う意味

 「正しい日本語を使え」派と「伝わればいーじゃん」派がある。
 原理主義的になんでも「正しい日本語を使え」というのは愚かだし、「伝わればいーじゃん」で押しきるのもまた浅はかな態度だ。


 原理主義的「正しい日本語を使え」派が愚かなのは、「正しい日本語」に対する疑いがないからだ。
 そもそも規範的な言語とは、ある言語から共通する要素を抽出して体系化したもののことだ。その体系からはみ出している言葉に向かって「正しくない」と否定するのは、物理学で理論に合わないという理由で現象を否定するような倒錯である。理論に合わなければ理論を拡張するか、せめて理論の限界を認めることだ。
 残念ながら、規範的な言語を定めたところで、その瞬間には現実の言語はそこから逸脱している。言語はうなぎのようにつかみどころもなく常に手からすり抜けてしまうのである。またそのために、規範的な言語は現実的には一意に定まらない。


 一方で「伝わればいーじゃん」派が浅はかなのは、「伝わること」に対する徹底性に欠けているからだ。
 多くの場面で最も伝わりやすい言葉とは結局、みんなが最も共有していると思われるあの「正しい日本語」になる。「伝わればいーじゃん」と言うなら「正しい日本語」を使っていればいーじゃん、という選択を否定し得ない。


 こうした「対立するどちらの態度もおかしい」という事態が起こるのは、論の前提と限界を無視してすべての場合に押し通そうとするからだ。「正しい日本語」は、目的に応じて使えばよい。
 その目的は伝える相手にひっかかりを与えないという効用にある。ひっかかりとは何か。
「プロジェクトの進捗どうなってる?」
「アッチャーマージデ? 50%くらいですね」
「遅れてるな」
「まだ取り返せますよマージデ」
という部下の口調が気になって報告内容の理解が阻害される事態が「ひっかかり」である。こうしたひっかかりを与えず、不必要な箇所で相手に意識させずに透明化するために、「正しい日本語」を使用する意義がある。敬語を使えといった言い分も同様である。
 それだから、もしお互いの間で透明化が十分に進んでいれば「正しい日本語」でなく「マージデ」を使っても構わない。


 これは例えば、「芸人は噛んではいけない」と同じようなものだ。オチという目的を際立たせるために聞き手に語りを意識させない。ただしここでも「噛むこと」がお互いの間で了解されていれば(出川)、「噛んではいけない」というテーゼに固執する必要はない。出川を収録後に舞台裏へ呼びつけて「噛むな!」と怒るなど愚かな振る舞いである。


 こうした透明化を目的としたテーゼはいくらでもある。
 小説作法(?)で「取材をする」、「表記ルールを守る」、「作品内で矛盾があってはいけない」等々。映画なら「イマジナリーラインを守る」、「顔がかっこいい/きれいな俳優をつかう」などがある。
 作品内でリボルバーの拳銃を再装填なしに10発も20発も撃てば、気になってストーリーに集中できない読者がいるから、あらかじめ拳銃のことを取材すべきなのだ。


 しかしここでも出川的例外はある。
 例えば金原ひとみの小説『アッシュベイビー』では全編通して日本語がバカっぽい。精確で鮮やかな日本語を使うべきといった通念が廃棄されているが、これは一人称一元視点として内的整合性を優先させた結果である。主人公の思想と語り口を一致させるという目的があってのことだ。
 あるいは小津安二郎は自身の映画でイマジナリーラインを一切無視している。これは構図の美しさを優先させた結果である。(ただし空間上の役者の配置をクリアに示すことでイマジナリーラインを無視してもさほど繋がりが悪化しないつくりになっている。)
 クリント・イーストウッドの映画『グラン・トリノ』では主人公もヒロインも顔がへちゃむくれである。しかし映画が終わるときには観る者にいい顔してるなあと自然に思わせてくれるだけの演出を備えている。


 彼らを「日本語が正しくない」式に非難するのはまったく無意味である。その目的と起源を忘れてルールを押し付けるのは愚昧な態度でしかない。