やしお

ふつうの会社員の日記です。

自分を苦しめないように怒る

 怒ったりイライラしたりするときはなるべく、「これは正義感から怒ってるんじゃない」、「たんに利己的な理由で怒ってるだけなんだ」と思うようにしてる。そうしないとだんだん息苦しくなってくるから。


 俺は正しいことをしている、というつもりで怒ってるとどんどん苦しくなる。そうやって会社なんかで精神の健康を損ねてく人を何人か見たし、実際自分もややそうした傾向があるからよくわかる。
 例えばゴミの捨て方ひとつにしても、ちゃんと分別しない人がいて、んもーってなる。そのときに「みんなで決めたルールを守らないなんて間違ってる!」っていうのはよくある怒り方だ。正義からくる怒り。客観的な正しさに基づいているんだから、自分が怒りを感じるのは当然ということになる。ここから息苦しさが始まる。


 私個人の解釈とは関係なく、客観的に正しいという風に捉えてしまうと、怒らない自分というのが選択できなくなってしまう。「たんに自分の選択で怒ってるだけなんだよ」と思って怒るのはまだ楽だけど、当然だと信じて怒るのは選択の余地がないからつらい。
 そうやって他人に正しさを押し付けると、今度は自分自身にもその正しさを押し付けないといけなくなる。(「他人に怒りを感じた/正しさを押し付けた自分」を正当化しないといけないからね。)そうやって自分を律してより正しくあろうとすると、ますます他人の「正しくなさ」とのギャップが広がる。それで怒る。怒るとますます自分を正しくしないといけなくて……っていう正しさと怒りのスパイラルが発生する。どんどん広がってゆく「正しい世界」と「現実の世界」の乖離に耐えられなくなってくる。「正しい世界」に自分を押し込めるのがそもそもしんどいのに、その上、自分はそんな努力をしてるのに他人は「現実の世界」でのうのうと生きてて、ずるい。そうした辛さが拡大していって耐えられなくなってくる。
 よく真面目な人が鬱になるって言われるけど、こういう感じなのかなあと思ってる。


 だからそうならないように、この怒りは絶対的に正しいものではない、と思いながら怒るようにしてる。究極的にゴミの分別ルールだのを守るのはその人の勝手なんだ。俺が怒ってるのは、たんに「俺は守ってるのにあいつ守ってない、ずるい!」っていう損得勘定なだけで、「みんな守ってるのにずるい!」っていう正義感じゃない。もっと言えば、「みんながルールを守れば全体の幸福を最大化出来るからだ」といった理由だって絶対的な正義ではあり得ず、ただ自分がそれをよしと思っているという価値判断があるわけだしね。(根底としてそれは、絶対的な客観性を備えた真実などあり得ない、真実は公理の選択の上に成り立つ以上畢竟主観的なものでしかあり得ない、という相対主義的な認識からきている。)
 ほんとのところ怒りが正義感からきてるのか損得勘定からきてるのかはどっちだっていいしそこは重要じゃない。ただ解釈の仕方で自分が楽でいられる方があるなら、そちらを選択しているという態度の問題でしかない。


 これは自分の中で、自分の怒りをどう認識するかという方法の話でしかない。他人に対して怒りを表明するときは、いかにも私の怒りが正当であるかのように言うんだ。「みんなで決めた分別のルールなんだから守ってください!」って。怒りや苛立ちを感じた当初は、怒ってる自分を理屈建てて正当化する自己防衛が働くからね。でもそこから、少し冷静さを取り戻した時に心の中で(ほんとは怒ってるのは損得勘定なんだな)と思えれば、あとは相手との関係の中で現実的にどう着地点を見出すか考えられる。
 絶対的に正しいと信じて要求を突きつけると、もう引っ込みがつかなくなるからね。イデオロギー(正義)を押し付けあうことが目的の戦争なんて果てがない。それより利己的な理由(土地がほしいとか)でやってれば、まだ現実的な引っ込め方ができるってもんだよ。
 この怒りは正義の怒りだ、って本気で信じて怒るメリットは、不屈にその正義を自分と他人に要求し続けられるところだけど、同時にデメリットは、怒るのをやめられなくなるってことで、まったく裏表の話だ。


 ほんとは怒ったりイライラするのをやめられれば一番楽だけど、無理ならせめて、怒りと正しさの強要のスパイラルで息苦しくならないようにしようと思って。
 あとは「おこなの?」って頭の中で声を響かせるといいかもしれない。さらに「おこなっしー?」「おこなのなっしー?」と頭の中でふなっしーがぐにょぐにょ跳ねながら言ってくる様子を想像すると、多少は気がまぎれるかもしれない。