やしお

ふつうの会社員の日記です。

この小さなシャレオツ・マジシャンたち

 ぼくがまだ岐阜という名の愛すべきファッキン地方都市にいたころ、見たことなんてなかった。小学生のヤンキーたち。5年前、ゲボの香る街・川崎に引っ越してきてからたまに見かけるんだ。どういうわけか彼らが親兄弟といるところはあまり見たことがない。いつも同じようなヤンキーの格好の友達と一緒にいるところを見かける。


 彼らは全く見事にミニアチュアだよ。大人のヤンキーと姿形がまるで変わらない。眉も整えて、ネックレスもつけて。ただ、未発達な身体の線の細さと、傷ひとつない頬の肌の滑らかさが彼らを子供なのだと主張させて、ぼくを困惑させるってわけだ。
 ぼくは彼らを目にして、こう思わずにはいられない。オゥ、マイ・ベイビボーイズ? 何もそんな恰好をしなくても、そのままの君が金メダルだょ? そして目を伏せて、ただ通り過ぎるんだ。
 子供ヤンキーに限らず、小学生の女の子が大人を先取りしたメイクをしているという。そんな彼女らについて誰かが「どうして金に銅メッキなんかを施すのだ?」と嘆いたそうだ。気分はまるで同じだ。
 だけどぼくは、そうした考えが何の疑いもなしに正当化されるなんて大ウソだと思ってるんだよ。大人のマネなんかしてないで、子供は子供らしくしていろなんて、何様のつもりだい?


 彼らを見ると、ロラン・バルトの指摘を思い出す。子供はもともと、大人と同じ形のサイズが小さいだけの服を着ていたという。その後子供服というものが登場し、若者のモードというものが発生した(『モード論集』)。子供が「子供らしい」格好をし始めたのはそれほど歴史の長い話ではないらしい。
 あるいは柄谷行人による樋口一葉の「たけくらべ」についての指摘。あれは子供と大人の間に思春期のような壁ができる前の社会を描いているのだという(『日本近代文学の起源』)。もしかしたら「天空の城ラピュタ」のパズーなんかがこのイメージに近いかもしれない。ふつうに大人と同じ格好で一緒に働いている。
 子供が大人とはちがう生き物だという時代の歴史は実に浅い。だけどその始まりは、ぼくたちやぼくたちの親が生まれてくるより少し前だから、もう記憶を喪失しているだけだ。今見えている範囲の仕組みが当たり前だと思い込んで、過去に遡ってそのビジョンを適用してしまう。
 それから蓮實重彦是枝裕和監督の「奇跡」について指摘していたことも思い出す。あの映画で子供たちが極めてリアルに見えるのは、彼らがふいに見せる大人びた表情や仕草にあるのだという。俗に考えられている「子供らしさ」に収めて描こうとすれば、むしろ現実の子供からは離れてしまう。歴史的に子供が「子供」になったばかりでなく、現時点でも子供は「子供」だとは限らないのだ。


 テレビなんかで「スーパーキッズ」なんて呼んで、子供なのにドラムがすごく上手いとか鉄道にすごく詳しい、すごいすごいってもてはやしたりする。ヤンキー小学生だって同じようにすごいよ。あそこまで完璧に似せられるということは、自分の姿を客観的に見られるということだ。自分の格好と、大人ヤンキーとの違いがどこにあって、それをどう埋めるかを把握するというのはトレーニングのたまものだ。
 最初は彼らのお兄さんやお姉さん、父親母親から教わりながら、少しずつ習得していったんだろう。それは、ドラムがすごい将棋がすごいダンスがすごいっていうのと別に変わりない。(そうした特技と違って、日常で丸見えになっているという違いはあるかもしれないけどね。)


 おしゃれに気を使うのは「子供らしくない」、「まだ早い」といった感覚は、極めて時代のバイアスがかかったもので当たり前なわけじゃない。子供は外面ではなく内面を磨くべきだといったイデオロギーは、ただ時代が主張しているに過ぎない。今の世の中のシステム上、そうすることが有利に働く面があるというだけのことだ。それを忘れて、まるで絶対的な正しさみたいに思い込んで、ヤンキッズやコスメ女子小学生(あるいはその周りの大人)を自動的に嫌悪するというのは、まったく怠惰な態度だ。


 そんなわけで、「めざましテレビ」にスーパーキッズとしてあいつら出てきて、「オレが考えた最凶のヤンキー」みたいのを披露してくれないかなと思ってる。ただぼくは「おはよう日本」派だから、出てきても見てあげられないんだ。ごめんね。がんばってね。