やしお

ふつうの会社員の日記です。

なんでもない自分という現実

 「大人になったらわかるよ」という言い方は、どんな努力を払ってもひっくり返し様のない年齢差を盾にとって、自身の説明能力の敗北を必死で糊塗しているようで恥ずかしい。
 でも最近、これは実際に歳をとっていかないと実感としてわかるのは難しいなと思うものがある。「あり得るかもしれない自分」の幅が狭まっていく、自分の可能性の束が失われていく感じ。これが身に迫る感覚を、もうすぐ28歳の自分が例えば18歳の自分に向かってこんこんと説明したところで、体感までは伝わらないだろう。


 それで実際大人になってみて自分自身や周りを見渡してみると、みんないろんなやり方で現実の自分に折り合いをつけてるんだというのがよくわかってくる。プロ野球選手でもない、有名な歌手でもない、大会社の社長でも忍者でもない「なんでもない自分」という現実を、いろいろな方法でやり過ごしている。


 マニアやオタクを自認するというのもそうかもしれない。
 何かの対象が好きで結果的に詳しくなっていたというより、「○○に詳しい自分」が目的になっているように見える人がいる。ミリオタな俺とか、ワンピースマニアなんです私とか。そうした人たちに向かってちょっとでもこっちの知識を見せたりすれば、「自分の方が詳しいからな」と必死で上書きしようとしてきたり、そもそも聞いてもいないのに知識を披露してきて鬱陶しかったりする。
 単に好きで結果的に詳しくなっているだけの人なら、かえって「そこは知らなかったな」、「いや別に俺は全然詳しくないよ」と素直に言ったりするのと対照的な態度を見せたりする。
 これは「なんでもない自分」という現実を認められずに、「○○に詳しい自分」にアイデンティティを担保させているのではないかと思っている。


 あるいは仕事でも同じかもしれない。自分の担当業務や担当製品、持ち場に異様な縄張り意識というか、「これを一番知っているのは私!」といった意識をぎらつかせている人がいたりする。その自負に見合った実力が伴っていればもちろん素敵なことだけれど、往々にして自負と実力が逆相関になっていたりする。
 自分の仕事が意義深いもので周りも認めてくれているという自信がないことの裏返しではないかと思う。「なんでもない自分」という現実を否認するために、自負ばかりを強めて周りにもアピールして自分自身を騙していくしかなくなる。極端な場合は、職場で大声でひとり言をいいながら仕事する人もいる。


 こうした「なんでもない自分」の否定という態度がある一方で、今の自分は「なんでもない自分」だと認めるが、これは仮の姿で将来の自分はそうではない、という否定の仕方もある。可能性の束は細まってなどいないという否定。
 今はバイトだけどバンドマンとして成功するんだとか、今はサラリーマンだけど小説家として生活するんだというような。もしかすると一生懸命、自己啓発の本をたくさん読んでいる人もそうなのかもしれない。ただのサラリーマンじゃない、有能なビジネスマンであり得る自分。起業でもノマドでもそれ自体を目的にしているような人は、こういうところにその理由があるのではないかなと思っている。


 もちろんこうした現実の自分の否認は、人を行動させる原動力になったりするのだから、一概に否定して済むものではない。ただ少し心配なのは、そうした支えを失ったときに(定年を迎えるとかバンドで売れなかったとか)、うまく別の支えを見つけられずに崩壊したりする事態だ。


 今までのは現在の自分を否認する態度だったけれど、逆に肯定する態度もある。
 プロ野球選手でもジョブズでもない自分だけど、それはそれで幸せに生きてる、家族も同僚も自分を認めてくれている、お金の心配もあまりない、このまま人生を終えられたらいいな、というような。しかしそれではリストラでもされたら耐えられないし、下手をすると不幸な他人を見つけ出して優越感に浸ったりしかねない。
 そこでさらに踏み込んで、そもそもいつだって現実の自分しかなく、「なんでもない自分」/「すごい自分」を分かつ客観的な線などないと考える。生きることに客観的な目的や意味などないし、ただ生きればそれでいい。その上で、あとは自分の選択として何かに努力するなり何なり好きにするだけだ、といった考えに至ったりする。


 思い付くまま挙げてみたけれど、このどれかを排他的に選んでいるというわけではなく、みんな独特のバランスでないまぜになって「なんでもない自分」という現実をやり過ごしているのが面白いのだ。
 実際自分だって時には意識高くなったりもするし、自分の仕事を意義あるものだとアピールしたくなったりもする。○○については一家言持っているぞという顔もするし、とつぜん、夢にむかって? 心キラキラ!という気分になったりもする。穏やかに老いを受け入れますみたいな気持ちになったりもする。
 ただその中で少しずつ、現実の可能性の束が細くなっていく自分をできるだけ直視して、「それでどうするの?」と思うことが増えてきた。




 この「なんでもない自分」という現実がつらいという感覚は、昔から広く共有されたものではなかったのだろう。大工の子は大工、坊主の子は坊主と最初から決まっていた世界であれば、そもそも「何かであり得たかもしれない自分」をそれほど考えずに済みそうだ。
 今は幼稚園でも学校でも将来何になりたいかを書かせたりする。「可能性いっぱいの自分」を否が応でも意識させてくる。それは社会構造の変化が生じさせた意識なのかもしれない。現代病というか。


 あなたはメロンだってステーキだって食べられますよと言っておいて、気づいたらふかし芋しか食べられない現実にいる。それでこんなのほんとの俺じゃないと否認したり、(食べられるだけでも幸せなんだ)と頑張って納得したりする。
 このとき「ステーキ食えるように努力しないのが悪い」とか「そうやって現実逃避して馬鹿みたい」などと蔑む態度は浅はかだと思う。そうした態度は結局、システムのルールをそのまま受け入れた上での態度でしかない。「牛丼を食べられるかもしれない自分」を夢見させたのは何なのか、「ふかし芋を食べることが当然だ」とどうして最初から信じられなかったのかといった問い、システムの前提に対する疑いに欠けているから退屈な態度なのだ。


 まだしも、現に自分もみんなも社会構造が要求してくる齟齬から免れていない、その中でいったいどんな方法でやり過ごしてるのかをよくよく見ていく方が楽しいかと思って。