やしお

ふつうの会社員の日記です。

社会人化する私

 ツイッターで和人さん(@snmmde)のこのツイートを読んだとき過去の記憶が一気によみがえってきた。就職したばかりのころの感覚が。

労働すればするほど自意識が薄れていってるように思う。自分の内に沸きあがった感情一つ一つに対して延々考えることが減ったというか。その辺りの脳の反応が明らかに鈍くなってる。楽にはなったけど、本当にここの脳の反応、無くしていっていいのか。

https://twitter.com/snmmde/status/408273702501904384
※和人さんは、しばらく引きこもっていたあと、バイトをはじめてやや辛い日々を過ごしているところだ。(というごく一面的な要約は、その人の重層性の否定に他ならず、その人を殺害するに等しい蛮行だ……。)とても真摯に自己と世界を見つめて対処されていて、私が勝手に親近感を覚えて勝手に応援している人だ。


 この感覚は社会に出る、職業を持つときに多かれ少なかれ、人それぞれ経験するものだと思う。


 私自身の場合、08年の4月に就職したときにそれなりの衝撃でこれを体験した。
 学生だった06〜07年あたりが一番原理主義者的になっていて、「こうあらねばならぬと考えたことはそのように振る舞う」、「面白い(広義の)ということをあらゆる面で追求しなければならない」みたいなことを思っていた。学校の先生にもそれで変に楯突いたりしてたし、数少ない友人にも批判的な態度ばかりとったり、ニュースやそれを報道するキャスターなり何なりにひたすら苛立っていた。
 ちょうど05〜07年くらいに大西巨人の小説や随筆を集中的に読んでいてその影響だった。(大西本人は原理主義的でない面もあるけれど読み方が浅くてそこを見ていなかった。)


 それが破壊されたのが就職したときだった。
 入社式で同期140人の中の代表者が「入社のよろこび」みたいのを役員の前で読み上げる儀式があって、それが信じられないほど通俗的で退屈な内容だったから驚いた。誰にだって言えることを言って何の意味があるんだ?と心底バカにしてた。なのに社長の人がそれを「とてもいいスピーチ」と褒めたからびっくりした。お愛想じゃなく、どうも本気でいいと思ってるように見える。いったいどうなってるんだと思った。
 それで、そうか、この世の中っていうのは、そういう当たり障りないことをできるのが普通に評価されるのね、ということを今さら知った。


 そのあとの1ヶ月くらいの同期みんなで受ける「導入研修」の中でも同じような経験を無数にした。
 例えば「ビジネスマナーの必要性についてグループでディスカッションしろ」とか言われて、「マナーは形骸化したもので無意味だ」ということを言ったら他の人にいやな顔をされた。続けて「無意味だけど無益じゃないし、むしろその無意味さによって意味が生じる」みたいなことを言ったら、(まあまあ)(めんどくさいやつだな)といった目で見られてつらかった。そう思われて当然だと、今の自分なら相手の立場を同時に想像できるけど、そのときはただただつらかった。二度とこういうことは人に言うまいと思った。


 ほかにも特許の研修で「デジタルカメラで特許を考えてみよう」といったテーマで講師が「自由な発想で、まずは現実的かどうかは無視して考えてください」と言うから、「マシンガンみたいにSDカードがいっぱい連なっていて、薬莢のようにどんどん排出される」とかいうのを考えて、これは同じグループの同期の人にもちょっとウケてうれしかったのに、講師が本当にいやな顔をして「真面目に考えてください」とか言うから、これはとっても怒ってる。今でも怒ってます。


 人間って思いのほか弱いんだなとその頃思った。導入研修での空気読めてない経験や、「時間を守れ」「挨拶をちゃんとしろ」等々叱責されたりしていく中で、心が折れて、折れっぱなしではやりきれないので、作り変えてく。自分が再構築されていく。このころはやたら寝汗をかいたりしてたぶんストレスがたまってた。大きな部活とかサークルとか(体育会系?)を経験してきた人は、すでにこれが済んでいるのかなと思った。
 さいわい実際の職場に配属されてみると、それほど「ビジネスマンとは!」みたいな雰囲気ではなくてほっとした。みんなサラリーマンだった。


 その結果、「あらゆる面においてこうあるべき、と思うところを追及する」みたいな方針から、「自分にとってどうでもいいことと譲れないことを峻別した上で、どうでもいいことについては主張しない」のような形にあらたまった。そして気づくと、昔はもっと厳しい態度で突き詰めて世の中を見てたのにな、という感じがしてさみしい気分になった。
 もっといろんな面で、細かく違和感やひっかかりを拾い上げてつくづく考えていたのに、自分にとって世界がのっぺりし始めてる気がする、これでいいのか、という感覚。最初に引用した和人さんの「明らかに鈍くなってる。楽にはなったけど」というのがちょうどぴったりきていて、この5, 6年前の記憶が一気によみがえったのだ。


 それまでは安全圏にいて、細かく細かく考えても対処できる程度のトゲトゲしか自分に刺さってこなかったのに、世の中が広がって一気に自分に刺さるトゲトゲが増量して耐えられなくなったから痛覚を鈍らせたのだ。自己防衛の反応として、ある程度仕方ないと思っている。
 ただ、たまに報道ステーション古舘伊知郎を見てイライラして安心する。あの俗情との結託のひどさに対してすら鈍感になったら終わりだという勝手なライン。それで年に2回くらい報ステ見て確認する。ごめんね。ありがとうね。
 あとは周りの人に言わなくなった代わりに、こういうブログとかでトゲトゲについてその都度考えたりしている。それがなければもっと、鈍感の坂を転げ落ちてる気がする。でも本気で転落するのも楽しいかもしれない。




 余談だけど、こういう断絶はそう歴史の古いものじゃないのかもしれない。親の仕事をそのまま子供がつぐ前提の社会で、小さいうちから親の仕事を見て手伝わされて、少年になって仕事を覚えてそのまま大人になっていくような社会なら、接する世界の急拡大、トゲトゲ増量が起きづらそうだ。ついこのまえ樋口一葉の諸作品を読んで、とくに「にごりえ」の中で明治初期のそういう世界を見て思った。