やしお

ふつうの会社員の日記です。

樋口一葉「わかれ道」をリメイクする

 傘屋で奉公している孤児の吉三(16)は、近所に住む針子のお京(20強)を姉のように慕っていたが、お京が妾になることを決意し、もう会えなくなると聞かされて絶望する。


 樋口一葉の短編小説「わかれ道」は、要約すればこれだけの他愛ない話だ。だが実際に読めば最後のセンテンスに至った瞬間、全身を武装解除されたような感覚に襲われ唖然としてしまう。他愛のない短編だと割り切ることはとてもできない。どんでん返しで読者を驚かせるしかけもなしに、作品のあらゆる要素、舞台や構造、ストーリー、語り口、キャラクター等々が結末を支えて、これを実現しにかかる。この短編としての緊密さと強度は、個人的な読書体験の中ではプロスペル・メリメの「マテオ・ファルコネ」と並んで最高峰だった。


 そんな「わかれ道」を現代版としてリメイクするとしたら、どう可能なのか。そんなことを以前より考えていた。
 ストーリーを踏まえて事足りるわけでは絶対にない。あの最後のセンテンス「後生だから此肩の手を放してお呉んなさい。」をいったい何が支えているのか読み直した上で、明治から現代へ舞台を移す際の困難を明らかにし、書き手の私性を消してただ作品の内的な必要に応じて書き直していくことが必要になる。




 まずは「わかれ道」を読み直していく。

文体:会話文と地の文の曖昧さ

 一葉作品では会話文をカギ括弧に入れて行を改める表記法は採用されていない。これは表記の問題に留まらない。
 鍵括弧や改行を用いないことで地の文−三人称−客観性と、会話文−一人称−主観性の対立が弱まる。地の文の客観性と、吉やお京の主観性がシームレスにつながって、三人称の遠い距離感と一人称の近い距離感がないまぜになる。
 三人称小説でありながら吉の感情が目前に展開されるような効果を生んでいく。


 ただし一葉本人は一人称と三人称の意図的な混濁は狙っていないと思われる。実際、「と言ふ」、「と話しながら」、「と戲言まじり」、「と歎息するに」などの形で明確に会話文を確定させており、カギ括弧を書き加えて会話文と地の文をきれいに区分けすることができる。
 「三人称小説では地の文は主観性が排される」と見なして読まれ、そう読まれることを前提に書くという制度に慣れた現在の我々の視点から見た話である。
(余談だけどガルシア=マルケスの「族長の秋」とかはそういうことをもっと意図的にやってておもしろい。)

文体:ワンセンテンスの長さ

 一葉作品では句点が少なくワンセンテンスが非常に長い。そして文の終わりが忘れたころにふいに訪れる。音楽で休止が突然訪れ持続が断ち切られ息をのむのと似た感覚に襲われる。さらにその断ち切り方を雅文体の多様な文末表現によって自在なものにしている。
 そしてこの一編全体は吉の会話文で断ち切られる。先述のような「と言ひぬ」のような三人称視点に戻すような措置もとられない。突然呼吸が止まるような断絶を各センテンスで仕掛けつつ、最も強力な断絶が最後に用意される。やわらかい着地もほのかな余韻も許さず突き放して終わる。ワンセンテンスの長い持続が、この断絶を強調する。

視点のアンバランス

 視点人物はそれほど固定されていない。主人公である吉三の一元視点ではない。しかし平等な多元視点でもない。人物の内面に入り込む深度の点でも、状況説明の分量の点でも各人物に対して平等ではない。
 特に、実のところお京が吉をどう思っているのかが定かではない。【上】では吉を見守る姉のような言動が描写され、【下】でも本当の弟だと思っているといった発言があるが、【中】ではお京にとって傘屋は大家だからそこの者たちに愛想がいいのだという記述がある。一面的に確定し難く描かれている。
 こうした視点のアンバランス、特に吉に比べてお京の情報が制限されているために、吉から見て、他人のことは決して理解できない、という感覚が読み手側にも了解される。

サンドイッチ構造

 上中下の3段で構成される。【上】と【下】が吉とお京の場面描写、【中】が状況(吉の生い立ち)の説明に充てられる。
 一葉は「ゆく雲」で、きちがいは原因無しにおかしくなるのではなく状況がそうさせるのだといったことを書きつけているが、どの作品でも感情が環境を動かすというより、環境が感情を形成するように書かれている。「絶望した」などと直接的に書くのではなく、絶望する状況を成立させる。
 時間軸で言うと【上】と【下】が現在、【中】が過去となる。状況説明のために途中で過去に移動しても、現在進行中の事態に立ち会う臨場感で始めて、終わることで、たしかに目の前で起こったような印象を与える。

将来がない舞台

 現代なら小学校で子供に「将来の夢」を書かせたりできる。しかし明治初期のこの短編の舞台でそれは許されていない。
 子供は無限の可能性、などではなく、子供のうちから大工の子は大工、傘屋に拾われれば傘職人でしかない。子供が「まだ何者でもない自分」に夢見る期間がない世界に生きている。
 この将来への夢を見させにくい世界が、吉が唯一心の安らぎを見いだしたお京を失う事態をより深い絶望にさせる。

火鉢との距離

 【上】の大半は吉とお京の会話で占められる。その合間で吉が火鉢をつつき、網にもちをのせ、あつあつと指を吹く。会話に終始するわけではなくたしかに時間が経過してそこにいる。これは具体的な動作の描写の挿入で会話に花を添えているというばかりではない。
 【下】で再び火鉢は登場する。同じ部屋で、同じ火鉢をかきおこすのはしかし、吉ではない。今度はお京が火鉢をつつくことになる。吉は火鉢に近づくことを拒否する。
 火鉢と吉の距離によってもお京との断絶が立ち現れる。

実現された服装と予告された服装

 火鉢と似たような話で、【上】と【下】で同じ舞台でありながら変わるものに服装がある。
 吉の服装は特に変わらないが、お京の服装が変化する。正確に言えば、吉は【上】と【下】で服装について言及されないが、【中】で四季を通して油びかりする筒袖(作業着)を着ているとある一方で、お京は【中】で服装への言及はされないものの、【上】と【下】で詳細な服装への記述があり、それが変化する点で吉と対照的である。お京は【上】での普段着から【下】での晴れ着へと着替える。


 しかし服装の変化は、作品内の現実だけでなく言葉の上でも起こることになる。
 【上】で吉は、お京に運が向くときがきたら自分に「糸織の着物」をこしらえてくれと約束をさせている。しかし【下】ではお京が妾奉公に上がり二度と吉には会えないことが判明し、なおお京が「糸織の着物」をこしらえてあげるととりなしても吉はそれを拒絶する。
 一方で約束された晴れ着を吉が着ることはなく、他方で約束されていない晴れ着をお京が着ることとなる。これが服装の上で起こる断絶である。

その他留意点

  • 【下】で吉に妾奉公を責められたお京が、「それは関係ない、私はお前をほんとうの弟だと思っている」といったことを言うのは、【上】で吉に、「もし自分のほんとうの親が乞食かなにかだったらもう会ってくれよね」と言われたお京が、「そんなことは関係ない」と言っていたことを遠くから引き継いでいる。
  • 服装や動作など描写は具体的に加えられてもあくまで簡潔である。些細な要素が肥大し、物語から解離するといった小説的な運動は抑制される。
  • 固有名を与えられる人物は吉三とお京のほかにも半次、太っ腹のお松、お絹がいる。しかし彼らも短編としての強度を失わない程度の簡潔さでしか描かれない。
  • ただし他の端役二人と異なり太っ腹のお松には、女相撲のような、という修辞が与えられる。これは物語等他の要素にはいささかも寄与しない無償の修辞であるが、それゆえにその贅沢を許された存在として際立つ。




 こうして「わかれ道」を読み返したわけだが、それを踏まえて舞台を現代に移すことを考えるといくつかの困難が見つかる。

  • 現代の社会システムとの違い。吉三について言えば、孤児がいたとしてもそれを個人が拾ってくることができない、家と学校と職場が完全に一致したような環境はあり得ない。お京に関しては、美人だから妾になって当然だという通念が現代にはない。
  • カギ括弧の不採用、改行の抑制は三人称に一人称を溶かし込むのに効果があるとしても、リーダビリティは犠牲になる。もろもろの制約を引き受けつつ最大限読みやすくしたい。
  • 文末表現が多彩な雅文体に比べて口語体は乏しい。長いセンテンスの断ち切り方の妙を口語体で実現するため、体現止めや会話文で断ち切る、常体に必ずしもこだわらないなどの工夫が必要になる。
  • 比喩表現や迷信で表現される感覚や思考が魅力的だが、現代で違和感なく匹敵するような表現を探すのが難しい。例えば「幸運が馬に乗ってくる」と吉に励まされたお京が「馬車のかわりに火の車でもくる」と返す箇所や、「親の命日になまぐさを食ったから親がわからない」と同僚になじられた吉の心情が「命日がわからないからいつを精進日にすればいいかわからず心細い」と語られる箇所など。




 そんなあれこれを考えながら書いたのがこれ↓


リメイク 樋口一葉「わかれ道」 - OjohmbonX
http://d.hatena.ne.jp/OjohmbonX/20131231/p1


 不満はゼロじゃないけど、さしあたって今の自分として精一杯やれた。


※ちなみに私が一葉作品で最も好きな作品は「たけくらべ」、小説として最も興味深いのは「にごりえ」です。