やしお

ふつうの会社員の日記です。

乖離させないもの、させてくもの

 なるべく苦しまずに生きていきたいと思って。

乖離させないもの

 「これはほんとの自分じゃない」と思って、「現実の自分」を乖離させない。


 相手のことがきらいなのにへらへら笑ってる自分がいたとしても、「これはほんとの自分じゃない」なんて思わない。
 だんだん「仮の自分」が「ほんとの自分」を反映してないことにイライラして耐えられなくなってくる。病気になる。
 「ほんとの自分」なんて仮想でしかない。相手のことを嫌ってる自分も、へらへらしてる自分も、「現実の自分」そのものだと認識する。


 なにか失敗しても「これはほんとの自分じゃない」なんて思わない。
 「現実の自分」を否定して終われば進歩もない。とりたてて有能ではないが、自己評価がとても高くて、他人に批判的な人、みたいな存在にはたぶんなれる。そのうえ「自分自身」を否定するのは大きなストレスだからやっぱり病気になる。自己評価高くて他人に批判的で、たまに精神を崩して長期休暇に入る人、になれる。
 「目指すところ」なり「ありたいところ」なりを措定して、「現実の自分」との差を埋めるほかない。


 いやなことがあれば、その現実を否認したくなる。だから気を付けないといけない。
 一時的なショック回避ならいいけど、否認し続けてためていくと、どんどん現実が離れていって、こわれる。

乖離させてくもの

 「自分の意見」と「自分自身」は切り離す。


 他人に自分の意見を否定されても、別に自分自身が否定されたわけじゃないと考える。そんなところに自分のアイデンティティはないと思い直す。必要に応じて反論したり、納得したりすればいいだけで、感情的になることなんてないんだと思い直す。傷つくほどのことじゃない。


 逆に自分が他人の意見を否定するときは、相手そのものを否定しているわけじゃないと考える。きちんと分けていないと、最初はただ意見に反対していたのが、感情的に相手を非難するはめに陥る。お互いにとっていいことがない。


 こうした分離がきちんと進んでいないと、議論は成り立たない。お互いを傷つけあうばかりの消耗戦になって、議論のあとにひどく疲れてしまう。疲れるくらいなら最初からやらないということになる。ひょっとすると欧米人(?)の方がこの分離がうまくできているのかもしれないけどわからない。
 子供のころから「自分の意見」と「自分自身」を同一視しないのが当たり前の環境で、意見をぶつけあうトレーニングを受けていれば平気かもしれない。だけどそこを同一視することで洗練に向かう社会(世間力の強い社会)で生まれ育ってきたから、大人になってからその都度意識しないとできない。