http://book.akahoshitakuya.com/cmt/35241126
衣食住や子供の遊び等の形態や呼び名が、地域で違ったり離れた場所で同じだったりするのは、地層っぽい感じで、起源に近いものと、その上に時代が被さって変質したものの差だから、地域的なグラデーションを見ないと歴史は見えないし、そして何が積層して今の自分を規定してるかも見えない。明言されないけど、そんな視点みたい。だから、その差を隠蔽するような解釈(呼び名に与えられた漢字から意味を推量するとか)は否定するし、祈祷の個人化を「信心じゃない」と珍しく怒るのも、それが人を規定するもの(信心)を隠蔽する方向に働くからかも。
初くにお。
読んでると、あっちがつながってこっちがつながって、っていうのを時間軸と空間軸で見せてくれて楽しい。しかも今の時代の自分ではほとんど忘れ去っているけど、でも確実にリンクしてるみたいな話だしね。
だけど読んでて不思議なのは、「だから、何なんだ」という話をほとんどしないところ。意味に還元する、みたいのをかなり拒否してくる。
特に漢字から意味を考えていくのは「それは逆」、「それは間違い」とばっさり切ってる。呼び名(音)があって、それに合うように漢字がついて、さらにその漢字の別の読みに引っ張られて呼び名が変わったりしてるだけだから、漢字の意味から考えたって起源には向かえないよ、みたいな。そのかわり呼び名の音が似ている点についてはどんどん引っ張ってくる。ほとんどカタカナで表記してるのもそんな意図からくる。
あと古い文献を引いてくるときも、呼び名とか形態とか、人の動作や持ち物とか、客観的な事実だけを引いてきて、書き手の解釈とかはまるで持ってこない。
それから、村のみんなで共同でお祈りするいろんな形態を紹介していったあと、p.164で、でも今はどんどんお祈りが個人化してる、そんなのは「おまじない」であって、「信心」なんかじゃない、とふいに怒ってる(?)。本書通して、あんまり何かを批判するとかいう態度が見られないので、急にびっくりする。(ほんの一瞬の批判だけどね。)
これは「古き良き日本を守れ!」みたいなことを言ってるわけじゃないと思う。これも「簡単に意味に還元しないぞ」っていう態度とイコールなんだと思う。もともと共同の祈願からきていたものを、形だけ残して個人化しちゃうと、その起源が見えなくなる。ほんとは今でもそうした信心に規定されてるのに、それを見えなくしちゃうのはダメだ、みたいな。
こういうふうに柳田国男を見てるっていうのはもう、柄谷行人を読んじゃってるからだけど、しょうがない。このまえ出た柄谷行人の新しい柳田国男論(遊動論)も読みたい。
こういうこと考えなくて、そのまま読んでも楽しいから、柳田国男いろいろ読んでいきたい。
- 作者: 柳田国男
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1976/12/16
- メディア: 文庫
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