やしお

ふつうの会社員の日記です。

無宗教ゎっらぃょ(><)

 自分は無宗教だから信仰から自由だといったことを言う人がいる。宗教にとらわれるのは心が弱いからだと言う人がいる。自分は恵まれていると言う。中学生ぐらいのときの私もそう考えていた。他愛なく愚かである。
 むしろ不自由なのだ。


 あれほど莫大な数の人を信仰させる力から、自分が自由であると優越感を覚えるのは容易い。しかし単純に言って、自分が「その他大勢」から離れて特別な存在であるより、自分もまた変わりなく「その他大勢」なのだという方が蓋然性が高い。
 宗教に心を向かわせる「何か」は、「その他大勢」と同様に自分にも備わっている。ただそれが特定の宗教(神)に向いていないだけだと考える方が自然である。
 ではその「何か」がどこに向かっているのかを明らかにするのが困難なのだ。特定の宗教を信仰している場合には目で見えていたもの、ある程度意識されていた「神」が、無宗教だと自認している者にとって不可視になっている点で、より不自由である。


 自分の信仰はいったい何なのか。この問いに真剣に向かい合うことなしに、ただ自分が無宗教であるという事実のみに立脚して信仰から自由であると語るのは、無邪気に蒙昧をさらしているか、思考停止を糊塗しているかのいずれかである。


 例えば母親に「おばあちゃんが見守ってくれてるから」などと子供のころから言われてきたとする。心底それを信じているわけではなくとも、そうした刷り込みの影響か一応墓参りをしたり遺影に手を合わせたりする。これを宗教心の一種と呼ぶとしても、しかし自分の都合に左右されて現れたり消えたりするような観念を今ここで信仰と呼びたいわけではない。
 あるいは自己のアイデンティティを支えるものとして意識されるような宗教心のことでもない。自己を支えるために作り上げた体系に対する志向のことを、信仰と呼びたいわけではない。
 むしろそうした体系の皮を一枚一枚はがしていった先に、結局消去しきれずに残存する「何か」が問題なのだ。物質として実在するなどとは考えていない。しかしただ観念としてだけ存在するとも思われない。全力で消しにかかっても、まぎれもなく「ある」としか思えないような「何か」。




 相対主義的な認識によって、「神」を乗り越えることは可能だろうか。
 相対主義は絶対的な真理の否定である。ゆるぎなく絶対的なものが存在し、その上にこの世界が成り立つという認識の放棄である。
 例えば数学や物理学にしても絶対的な真理などではなく、客観的な論理群の根底には、前提(公理、仮定)が控えている。それらの仮定は主観的に選択されたものである。仮定の根拠を客観的に求めたとしても、その根拠が次に仮定として存在する。この無限に続く後退戦はいずれどこかで停止し、その地を仮定として定めざるを得ない。その意味で主観性は究極的に排除されることがない。
 こうした認識のモデルは自然科学に限らず人文科学でも同じである。そして科学にも限らない。


 相対主義は次の問いを誘発するかもしれない。「絶対的な真理などあり得ない」という命題それ自体が絶対的ではないかという疑義である。しかしこの反問によって相対主義が否定されることはあり得ない。相対主義的立場から言えば、「それは十分に相対主義的でない」と一蹴されるだけである。
 「絶対的な真理などあり得ない」という命題を相対主義が絶対的に要求しているように見えるとすれば、それは絶対主義的な視点で見ているからに過ぎない。相対主義を徹底すれば、相対主義=「絶対的な真理などあり得ない」という命題自体を、主観的な選択に属するものだと見做すことになる。絶対主義か相対主義のどちらを標榜するかは、主観的な仮定の選択の問題に過ぎないと見做されるため、他人が「絶対的な真理は存在する」と主張しても相対主義的立場にとっては、構わないのである。


 そして「神」とは主観的に選択される仮定の一種である。絶対主義を採用している側から見れば、それは絶対的に存在することになるが、相対主義的に見れば主観の問題である。ここまで到達することで「神」を相対化でき、「神」から免れることが可能であるように見える。
 しかし実際にはこの認識によっても「神」あるいは信仰が消え去るわけではない。




 相対主義者に言わせれば、「絶対的な真理などあり得ない」という命題をこの私が真だとみなすのは主観的な選択でしかないということになる。「絶対的な真理は存在する」と考えても構わないが、ただそうしないだけだという。しかし相対主義者にとって、その「主観的な選択」は本当に選択可能なものだろうか。昨日は相対主義、今日は絶対主義などと切り替えられるような選択たり得るだろうか。
 あるいは相対主義を公理主義として見れば、そこでは客観性、演繹的な手続きの正しさが前提されていることがわかる。この「正しさ」は恐らく「トートロジーを正しいと認める」という仮定が支えている。これは仮定であって、別の仮定を採用すれば異なる体系が生まれる。しかしそうした理解を得ることと、その当人が「トートロジーは正しくない」という認識に切り替えられるかどうかは、まるで別の問題である。
 当人にとっては、「絶対的な真理などあり得ない」、「トートロジーは正しい」、そのように世界が成り立っているとしか思われず、これは選択の余地のないことである。


 しかしその事実をもって、絶対主義者が相対主義者に向かって「やはり絶対性は存在していたではないか、相対主義は矛盾している」などと非難し、彼を絶対主義に改宗させることはできない。なぜならここで見出された絶対性は一般化可能なものではないためである。
 一般化して見れば、たしかに絶対性は主観的な選択の問題として回収される。あるいは一般性を対置した特殊性においても「ある誰か」にとっての主観的な選択として回収される。ところが「この私がそれを採用している」という事実を「私」の側から見た時には選択的ではない。絶対性は、存在するとすれば、単独性の中にしかあり得ない。
 一般性‐特殊性のラインに回収すればあえなく消滅してしまうものが確かに存在する。


 他人がそれを信じていないということは想像できる。私が採用しているそれとは別の体系が存在し得るということは理解できる。
 けれど「この私」にとってそれを採用しないということが考えられない。「この私」がそれを信じているとしか言いようがない。それが、信仰である。




 今、相対主義という面から信仰の存在を見た。この消去され得ない項、ここで信仰と呼んだものはもちろん様々な形態で現れるだろう。ただ私個人として今実感できる信仰が相対主義の底に見いだせたためこのように書いただけである。
 こうしてたとえ無宗教者であっても信仰から免れるわけではないと知った。ここまで辿ってようやく、信仰というものの実感を掴めたのだった。
 「神」というのはこういうものなのだろうと思う。私自身は特定の宗教も神も信仰していないが、信仰していたとしたらその神は、自身の知力を総動員したところで、やはり紛れも無くあるとしか思われないような存在のはずだ。いずれにせよ全力で見出さなければならないのなら、つらいのは無宗教に限ったことではない。


 旧約聖書のホセア書において、人は神と争い必ずや人が勝つ、しかしその後必ず人は神に憐れみを乞うことになる、という認識が示されるという。人は神に勝つ、というのは驚くべき認識である。しかしこのように理解すれば納得される。
 人が神を一般性‐特殊性のラインで取り出してしまえば、神はあえなく人の所有物に成り下がらざるを得ない。せいぜい「主観的に選択される仮定の一種」に落ち着く。それで片が付くかというと、むしろそれでは消去され得ない項がその後で見出される。人はそこで改めて神に出会うのである。