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サブエピソードを肥大化させない律義さ、目的(女、全集、引っ越し)で物語を駆動させる安楽さ、「後から思えば」と客観視して「盲目状態」を貫徹しない割に浅はかな自己分析で客観視も貫徹しない中途半端さ。私が語る小説、小説が語る私のどちらもが厳しさを欠いて退屈だ。そのぬるさを脅かすのが、「或る作家」から「藤澤清造」と固有名を帯びること、レトリックや啖呵まみれのセリフを停止させる「だからサンシャインに行けばよかったんだよ!」の絶叫、具体的な寸法でリビングに現れる墓ケースなんだけど、その脅威が私に感得されることはない。
「私」がどれだけ非常識な生活を送ろうが、暴力を振るおうが、読めばとてもこぢんまりした小説になっている。
「私」が繰り返す自己分析が結局、自分を肯定するための言い訳コレクションに落ち着くという点で、自分を徹底して疑い続けていくような内省にはなり得ない。
こうした「私」の甘い態度とパラレルに、小説の作り自体も徹底性を欠いてぬるい。後藤明生が見せてくれたような、ひたすら記憶がサブエピソードを引き寄せて物語を侵食していくような姿や、あるいはカフカが見せてくれたような、一人称ではないのにどこまでも「世界は見えない」という実感には到達せずに、ただ行儀よくまとまっている。
それでお話として上手いかというとそうではない。
例えば「けがれなき酒のへど」で恵里も「私」も携帯電話を持っていない、という話が出てくる。現代を舞台にお話を書くときに、もはや「すれ違い」が存在できないという困難がある。携帯電話で簡単に連絡がついてしまうからだ。それに対するひとつの解決を見せてくれるのだろうか、と期待したところで、そのすぐ後に「私」が恵里に携帯電話を買い与えてしまうのだから、がっかりしてしまう。
文体が昭和の無頼ってかんじでかっこいい!という話もあるかもしれない。けれど樋口一葉、フォークナー、ガルシア=マルケス、深沢七郎といろいろな文体を思い出しながら、あの文体でなければあんな話にはなり得なかっただろう、あの話を書くにはあの文体以外あり得ないだろうと、小説の内的な要求に従った文体だったという記憶の前ではどうしても退屈なのだ。
小説の内的な要求に従っていない文体としても、たとえば町田康が河内弁を地の文に据えた独特のリズム感を見せてくれた記憶の前に屈してしまう。
そんなこぢんまり退屈感を理由にこの作家を否定し去るには及ぶまい、と思うのはやっぱり、先にあげた具体的な何かがごろごろ転がって生々しいから。
こういうこと言うのは簡単だけど、やるのは大変で、ちょっとでも油断すると楽な方に転がってっちゃうから……
- 作者: 西村賢太
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