やしお

ふつうの会社員の日記です。

物語しか読まれない

 自分の理解が届かない本をそれでも苦労して読み進めているとき、いったいどう読んでいるのかと考えた。注意深く自分を観察してみたら、まずはポジティブかネガティブかという区分けをしていた。ある事実の指摘なり主張なりがあってその中身は理解できなくても、それが肯定的に示されているのか否定的なものかを見定めようとしている。使われている語句のニュアンスなどからそういう色分けをしていく。
 外国語を習得するコツとして、その言葉がポジティブかネガティブかだけでも覚えるというのを聞いたことがある。特に形容詞や副詞は言葉の意味が分からなくても肯定的/否定的のニュアンスさえ知っていればあまり支障がないという。意識しないうちに同じことをしていたのだなと思った。
 それから費やされた言葉の多寡で重要度を推し量ってもいた。これも色付けの一種だ。今度は色相ではなく濃淡をつけている。
 だから色のないただの事実の指摘を把握していくのは難しい。書かれている内容を本当に読まなければいけないからだ。


 あとは文と文、主張と主張の関係性を把握しようとしていた。接続詞や繋がりを見ていた。逆接か順接か。AとBは反対なのか、それとも同じグループなのか。中身はわからないままにそうして位置付けをしていく。
 色分けと位置付けをしてその形を眺める。すでに自分が知っている形にどう似ているか無意識に比べている。パターンマッチングのようなことだろうなと思った。理解というより自分にとって既知の姿形になっていることを確認して、安心してまずは把握したつもりになる。そこを足掛かりにして実際に何が書かれているかをもう一度読んでいく。
 物語を読むというのはそうしたパターンマッチングなのかもしれない。高度な書き手はそうした物語化をよく自覚した上で、物語に回収されてしまうのを回避するように書いていたりする。


 そして何も難しいものを読むときに限らない。実際に書かれていることを読むにはそれなりに意識を向ける必要があっても、物語を勝手に見いだすのは子供のころから慣れてほとんど無意識に行っている。子供はもう知っているおとぎ話を何度でもせがんで間違えれば「違う!」ときちんと抗議する。
 子供に限らず大人でも実際に何が書いてあるかを読まずに物語のみを見いだして満足してしまう。ブックマークコメントで元の記事に書かれていないことを勝手に読み取って非難して叩いている光景は見飽きるくらいだ。色と形の印象から決めつけて中身を読まないのは怠惰か読解力のなさか、その両方なのかもしれない。物語として把握した後に、実際にそこに何が書かれているか自分を疑って読み直す作業を放棄するとこうした浅はかな読みへと嵌ってしまう。
 耳の聞こえない作曲家の音楽だと思っていたのに本当は耳が聞こえていた、だまされた。音楽は変わらないのに音楽までもが否定されてしまう。そんな事態が起きた時に、人々は物語しか見ていない!と声高に叫ぶ人もいたけれど、そもそも誰もが物語を常に見出し続けている。週刊誌はいつでも事件の中身ではなく人物の物語を組織しようとして俗情に媚びていると指摘しても、その俗情から自らが免れていると安心するわけにはいかない。
 いつだって自分は物語をそこに見てしまっているという意識から始めなければ、免れるなど夢のまた夢だ。