やしお

ふつうの会社員の日記です。

バランスを取るために反対する

 わめき始めた子供を頭ごなしに叱りつけてもさらに泣く。筋道立てて説明しても聞く耳は持ってくれず結局、ただ辛抱強くひたすら聞き役にまわって子供に話をさせるのがコツだと聞く。
 お兄ちゃんが取った取ったとただわめいていた子供が、自分で説明するうちに、お兄ちゃんのおもちゃを勝手に使ったのは自分だったから謝ってくるなどと言い始める。大人は何も指示せずただ話を促し続けていただけなのに、勝手に子供が言い始めるという。そうきれいに上手くいくとも思えないような気もするし、一方で十分ありそうな気もしてくる。


 大人でも、みんなに持ち上げられているものはケチを付けたくなるし、逆に貶されているものは救いたくなる。自分自身を振り返ったり、例えばはてなブックマークのコメンテーター達の振る舞いを見ていてもつくづくそう思う。バランスを取りたいのだ。
 大人も子供も関係なく、意見のバランスを取りたい欲求がある、という仮定を取れば、先の子供の振る舞いも納得できる。頭ごなしに叱られるか、それとも理由を説明されて叱られるかの違いはあまり関係がない。どちらも自分の主張と対立する意見が押し付けられている点で変わらず、バランスを取ろうと安心して自分の主張をさらに大声で叫ぶだけだ。ところが自分一人で説明していけば、何かあまりに一方的に過ぎて不安になってくる。そこで自ら反対の意見も提示していくことになる。


 大人が子供と違う点があるとすれば、例えバランスが悪かろうと、正しいと納得できればその主張を選択できるところだ。正しさの判定をより自信をもってできるかどうかで、不安感を覚えずにバランスを崩すことができる。その正しさを判定する能力が十分発達していないために、子供はバランスに固執するのかもしれない。
 ところが大人でもバランスに知らず知らずのうちに固執していることがある。実のところ、正しいかどうかは、どれほど演繹的な誤りがなくとも前提の採用の仕方で結論を如何様にも変えられる。また演繹的な誤りがあったとしても、故意の語り落としや過剰な繰り返しなどの技術によって、正しそうに見せることもできる。
 前提に対する意識の欠如や、正しさの偽装に目をくらまされたとき、人はバランスが良い方が正しいような気になってくる。大人だろうと、自意識としては正しいと客観的に考えているつもりでも、ほとんど無意識にバランスをとった結果でしかなかったりする。


 そんな風な理解で眺めているものの、そもそもバランスを取りたくなるものだという仮説に何の裏付けもない。それは、一方的な意見が正しいことはあまりないものだ、という経験則的な認識からくる態度だとは思っているが、どれくらい支配的かもわからない。
 せめて今度、甥っ子に会って彼が怒り始めたら、ひたすら話をさせてみて、本当に自分で意見のバランスを取り始めるものかどうか試してみたい。