やしお

ふつうの会社員の日記です。

桐野夏生『グロテスク(下)』

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/38113866

自分で過去の自分を語って「一人称で三人称の距離感」を存分に魅せてくれるのかと期待してたら、ユリコの手記で相対化するから「信用できない語り手」をやりたかっただけかと落胆。でもその後信用不可の語り手が4人に増えて(多方向から主観性に照らされたこの靄、宙吊りのままの状態こそが現実だって言う気か!)とわくわくしてたら、最終章で名無しの姉が「真実」を客観視してあっさり定着させるのでがっかり。でも最後の最後で姉の特権性とユリオの聖性を手短に砕いて、安定状態で終わらせないところがやっぱりただのエンタメ作家じゃないんだ。


 エンタメ系/純文学という分類にさして意味はないけど、自分の中では、前者はバランスを選ぶ姿勢、後者はバランスを捨ててでも内的整合性に尽くす姿勢の傾向を持ったものだと思ってる。ということを久しぶりに「エンタメ系」の小説を読んで考えてた。(これはある作品が一般的にエンタメ系/純文学のどちらに分類されているか=どの文芸誌に掲載されたか、という点とはまるで関係がない。)


 例えば「純文学」的傾向を持つなら、「<私>が過去の<私>を語る」という形式上の選択をした場合、その一人称でありながら三人称的な距離感を持つという奇妙な点を追求したくなるかもしれない。けれど「エンタメ系」の小説はその道へは進まない。その道へ進めば、人が安心して受け容れ可能な物語の形を逸脱するに決まっているからだ。物語を全うできないバランスの崩れ方は許さないという姿勢を「エンタメ系」は持つだろう。
 あるいは、ユリコにせよ和恵にせよチャンにせよ、彼らの手による手記が、その個人の言語感覚を徹底して反映させることなく、「一人称小説」的に書かれるのは「エンタメ系」での態度であって、「純文学」では耐えられないものだろうと思える。


 「エンタメ系」の作者は、物語へ献身する技術的な熟練が要求される。読者に対して、構成で物語への驚きを誘発し、比喩やセリフの鮮やかさで物語の進行に引き止める。あくまで物語に奉仕するための諸要素であって、物語ることからの逸脱は厳しく制約する。
 一方で「純文学」の作者は、内的整合性へ献身する愚かしさに耐えることが要求される。内的整合性に身を尽くせば、場合によっては「エンタメ系」の視点からは技術的に劣っているように見えることになる。語り口は滑らかさを失い、構成はバランスを欠き、比喩はきらびやかさを捨てるかもしれない。選ばれてしまった形式、小説が要請してくる何か、に対して徹底して誠実であろうとすれば、そうしたことには構っていられないからだ。
 これは必ずしも対立するものではなく、基本的には両方を同時に実現しようとしていく。ただ、いずれかを選ばざるを得なくなった時に、どちらを選ぶかという態度の問題だ。


 桐野夏生の『グロテスク』を読んでいると、様々なタイミングで、選択された形式に対して誠実であり得る瞬間が訪れるにもかかわらず、いつも物語に対して誠実だったから、これは優れて「エンタメ系」なのだと思った。
 ところが最後の最後で、都合よく存在していた姉の特権性とユリオの特権性の両方をあえなく崩している姿を見て、ああ、やっぱりこの人は「純文学」にほぼ接した「エンタメ系」の人なんだと思った。『OUT』でも物語としてのきれいな終わり方を拒否していた。整った物語には抵抗感を抱く人なんだなと思ってるから、今でも読める。


グロテスク〈下〉 (文春文庫)

グロテスク〈下〉 (文春文庫)