やしお

ふつうの会社員の日記です。

人生に納得がいく。穏やかに幸せ。28歳。

 学生のときは結婚を自分の身の上に考えることがなかった。
 結婚した状態の自分というのをふと想像することはあっても、結婚に至る具体的な経過、女性とどう知り合って、どう友人になって、どう結婚を意識するに至って、というステップを詳しく考えたりすることはなかった。ただ漠然と、そのうち結婚して子供がいる自分がいたりするのかなと思っていた。


 22歳で就職したらそうした感覚が一気に変わった。
 同期の社員という比較対象ができる。学生時代からの相手と結婚する人たちが出てくる。同期同士で結婚する人たちもいる。あるいは地方から出てきてこっちで知り合った相手と結婚する人たちもいる。そうして結婚する人たちと、していない自分という比べ方をしていた。
 それから、職場には結婚するのが当たり前という雰囲気が21世紀なのにまだ残っていた。結婚「しない人」ではなく「できない人」と見なして当然という価値観が瀰漫していた。
 そうした価値観と比較にあえなく巻き込まれて僕は、誰か相手を見つけて結婚したいという思いを持った。合コンなどのイベントに行ってみたり、28くらいになったら会社が加盟している結婚相談所に登録してみようかと思ってるなんて公言したりした。


 26歳くらいでもうある程度冷静になっていた。振り返ってみると、あれは欲求ではなく欲望だったのだなと思った。欲求が自発的に求めるようなものだとすれば、あれは他人の価値観を反映させていただけだった。他人の願望を反映しあって駆り立てるのが欲望だ。他人に認められたい、「結婚できないやつ」と思われたくない、といった意地からくるだけの態度だったかもしれない。ことさら「恋人がいない」だの「まだ独身」だの強調するのもその裏返しだろうと思う。


 冷静に自分がどうしたいかを考えてみたら、今結婚したい=異性とパートナーシップを公的に確立したいという気はそんなにはなかった。
 ただ、日常的に遊びに行ったり話ができる相手が確保されていないのはつらいなと思った。今は友人がいても家庭を持ったりすれば、相対的に僕の優先順位は下がるに決まっているし、おじいさんになったときに一人だと寂しいだろうなと思った。
 それから子供を育てたい。地元に甥っ子はいるけれど、子供が成長する姿を目の前で見られたらどんなに素晴らしいだろうかと思う。一応、独身男性で養父や里親になることはできないか調べてみたけれど絶望的に厳しいことがわかった。
 あとは家庭を持つということも一度やってみたい。自分が小中学生の頃まであったあの感じを、もう一度こんどは立場を変えて再生産してみたい。家庭を体験してみたい。
 もうひとつ、独身でいるより経済上の有利はあるかもしれない(減りつつあるけど)とも思う。
 ちなみにセックスする相手がほしいという気はもうあんまりない。そういうのは若い人たち(高校生や大学生)がしてくれればいいかなと素直に思えるようになってきている。性的な衝動がないのではなく、それが性交への欲望に直結しないだけだ。


 そうした間接的な理由で、手段としての結婚を考えたりはする。とは言えそんな欲求も、自分を突き動かすほどには強くなくなっている。経験できればいいし、できなくてもそれはそれでいいかという感覚。たった一度きりの人生だから望むものは最大限手に入れたいし、そう努力すべきだなんて以前は思っていたのかもしれない。でも今はそう思わない。旅行と同じだ。せっかく来たのだから名所は全部見たい、名産は全部食べたい、そんな風に詰め込みたいとはもう思わない。来ないよりは来てよかったね、これだけでも見られてよかったねと思えてくる。
 子供を育てられれば嬉しいし、そうでなくても、よほど子供の成長を見たいという欲求が高まれば、何か地域のボランティアなりNGOの活動に参加してみるといった方法も残されているのかもしれない。


 欲望の皮をはがして欲求を丁寧に見てみればこんなものだった。冷静になってみれば自分を結婚に何としてでも向かわせるだけのインセンティブも働いていなかった。社会的な制度設計も別に僕を結婚には駆り立てない。
 経済的な不安がなくこのまま暮らしていければそれでありがたいと思う。そしてたまに会って話ができたり、どこかに遊びに行けたりできる友人がいればなおありがたい。それ以上は過ぎた願いだ。
 諦めとは違う。あり得べき姿へ向かうことを断念したのではなく、それがあり得べき姿ではなかったと頭を冷やしただけだ。ようやく負け惜しみでも何でもなく結婚はどっちでもいいやと言えるようになっている。穏やかに今が幸せだと言える。28になってやっと、そんなふうに思えてきた。
 結局こうした感覚もまた、世代的・社会的なバイアスを受けて形成されているに違いない。昔あんなに簡単に「結婚したい」の価値観に巻き込まれて思い込んだ自分なのだから、この穏やかな感覚も何かに規定されたものだ。