やしお

ふつうの会社員の日記です。

ストーカーへ続く道を、入り口で引き返す

 とても仲良くなった友人がいて半年ほど毎週末、私の家に遊びにきていた。
 相手は私のパソコンを使ってマインクラフトで遊んでいて、私自身は録画したアニメを消費しているとか、一緒に面白いインターネットの動画や何かを見るとかしてだらだら過ごすだけだ。一晩か二晩泊まって帰っていく。私が一人暮らしで相手が実家暮らしなので、気晴らしになっているのかなと思っていた。
 来ることが前提になると新しい習慣が生まれていった。私が録画したアニメを見ていれば、友人もいくつか気に入って見るようになる。そうすると平日のうちに見終えたものも消さずに残しておくようになった。ツイッターで私がお気に入りに入れたツイートを一緒に見るという習慣ができれば、いつの間にか(これは彼が気に入りそうだ)という視点で選ぶようになっていた。あるいは次に会ったときにこの話をしよう、あれをやろう、たまにはどこそこへ出かけよう、と日常的に算段するようになっていた。彼が買い込んだスナック菓子は常備され、私自身は吸わないタバコの灰皿をベランダに設置し、スリッパを用意しておくようになった。


 毎週末2連泊していくのが当たり前になっていた。ほとんど家で自堕落に過ごしているだけだが、話し相手が近くにいて意味のあることや無いこと(ただの歌や替え歌、声マネや奇声)を気兼ねなく口に出せるというのは、ずいぶん楽しい生活で経験したことのない喜びだった。
 ところがある時期から連泊しなくなり、来ない週が増え始めた。飲み会があるから、体調が悪いからと断られていく。もう一晩泊まればと水を向けてもすげなく断られる。試しにしばらくこちらからは連絡を控えてみればそのまま音沙汰もない。別に口論したわけでもない。
 これが思いのほかつらかったのだ。
 何か期待を抱いて実現されなければつらい。しかもその期待が約束されたものではなく、自分が一方的に抱いた期待であれば相手を責めるわけにもいかず、ますますつらい。私が期待しても相手はそうではないという不均衡がつらい。「私にとっての唯一無二の友人が、相手にとっては大勢いる中の一人に過ぎなかった」という、あのつらさと同じものだ。要するに損得勘定で、どうしてこちらばかりが気をもまないといけないのか、という損に対しての怒りや苛立ちだ。疲弊する。
 これが同棲していた恋人であれば、もっとしんどいんだろうなと思った。まさに「もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対」の世界だ。


 これまで相手に対して自分がとった態度を検討したりした。ここは自分の家だからと無意識に尊大さをあらわにしていたかもしれない。相手は、あくまでここは他人の家だと気を遣ってくれていたのはわかっていたが、それに胡坐をかいてその上要求を突き付けすぎていたかもしれない。コーヒーを飲んだらカップを水につけておけだの、歩くときはスリッパを履けだの、口やかましさで相手を小馬鹿にして優越感を得ているような面が、なかったとは言えまい。そうして嫌気がさしたのかもしれない。云々。
 あるいはこれまでの相手の言動を思い出しては類推したりもした。ついこの間冗談めかして「もうここ第二の家だから」と笑っていたのを思い出して安心したり、一方で立て続けに「体調不良」として断られた事実に疑念を抱いたり、振幅を繰り返す。
 反省にせよ想像にせよ、いずれも相手の存在を前提している以上、つらさは増すばかりだ。しかも相手の反応が返ってくるわけでもなく、正解と信じられる結論に至るわけでもないのだから救われない。
 相手に直接聞くのを自尊心や意地から、または拒絶される恐怖からためらったり、あるいは実際に拒絶されるかして、それでもなお確かめようとすれば、これはストーカーへの道を歩み始めることになるんだなとこのときつくづく実感した。SNSで相手の近況を確かめたりして(暇ならどうして俺といないんだ)などと思ったり、さらに相手の行動を実際に監視したりして、なんとかして不安感を取り除こうとする。しかし相手と対話していない以上、それで納得のいく結論に至ることはあり得ないのだから、抜けられずにさらにエスカレートするばかりだ。悪意や快楽から続けているというより、耐え難い苦痛から抜けようともがく行為がストーキングであり、その行為によってより深い苦痛に飲み込まれていくのがストーカーなのだろう。入り口に立ってみればよく見える。
 幸い、この道を行けばつらさが解消しないどころか、ストーカーへと続いて苦しさを増すと知っていたから、踏みとどまることができた。28年も生きていれば、自分を客観視する技術もそれなりに身に着いてきている。


 このつらさをとにかく解消したい。時間によって自然に減衰するものだとしても、その減衰を加速させたい。例え風邪が放っておいて治るものだとしても、睡眠や栄養を十分取るなり薬をのむなりして早く治したいのと同じだ。
 とにかく「いる前提」から「いない前提」へと切り替えることだと思った。「いる前提」なのに「いない現実」になっている、という齟齬がつらさを生むのだから、前提を変更して齟齬を消失させるしかない。自分にできるのはそれだけだ。
 まずこちらからはもう連絡をしない。相手の気持ちを探るようなことはしない。レリゴーだ。というかレリムゴーだ。黙ってI should let him goだよ。当然だ。ここで問題なのは、私が「いる現実」を望んでいるのに、なぜ相手が「いない現実」を作り出しているのか、ではなく、ただ私自身が「いる前提」をいかにして破棄するか、なのだから、相手に理由を問いただしたり真意を探る必要はない。もちろんツイッターフェースブックをチェックしたりはしない(元々見ていなかったが)。
 「相手と話し合ってお互いに納得するべきだ」という信念に固執して、対話を拒否する相手に対してますます怒りを募らせて、それでいったい誰が幸福になるというのか。そうした「真面目な」人、実益を無視した原理主義者がひょっとするとストーカーへの道に入りやすいのではないかと思う。
 それから「いる前提」によって導かれている環境や習慣を変更していった。録画は見終えたら消すし、ツイッターは自分の好みだけを考えてファボる。彼が持ち込んで置き去りにされたプレステは、スナック菓子とひとまとめにして同じリュックに入れ、見えないところへしまう。返してほしいと言われればすぐにでも返せるように。「いない現実」、元の日常に戻す。


 以前、ストーカー加害者の更生を支援する人がテレビのインタビューに答えていたのを見たことがある。被害者や警察が更生中の加害者をことさらに敵視し、拒絶や警告を発し続けるのは更生を阻むことに繋がるという。それはよく理解できる。そうした拒絶や警告は、「いる前提」を加害者がまだ保持している、という認識に立脚して発せられるのだから、「いる前提」から「いない前提」に変えていく=「好きな相手」から「無関係な相手」に変えていく=相手を忘れていくという「治癒」を否定することになる。
 ストーカーへの道を進みつつある人を押しとどめるには警察権力による暴力が必要であったとしても、すでにストーカーへの道を懐中電灯で照らして着実に引き返しつつある人には、むしろ引き止めるような効果しかないのだろう。


 そうした「いない前提」に変える「治癒」の効果か、あるいは自然減衰の範疇か、ともかくつらさが収まっていった。不均衡に苛立ちを覚え始めてから1ヶ月ほど=「治癒」を始めて2週間ほどで、もはや過去のこととして「あの生活もなかなか楽しかったな」、「面白い経験ができたな」と穏やかに思えるようになっていた。どうしてこちらはこれだけ相手のことを考えているのに、という損得勘定からくる怒りもない。
 こんな風に私の内部で騒動が起こっていたが、そんなことは知る由もない相手から、しばらくしてまた連絡がぽつぽつ入るようになった。他愛もない世間話のようなメールだ。こちらも他愛なくメールを返す。何人かいる、たまに会う付き合いの長い友人に対するのと同じように、何のこだわりもなく接することができる。
 そして当然のように、私の家へ行く予定を立てようとしてくるのだ。
 断ろうかと思った。そっちは散々、自分勝手に断っておいてこの私を振り回したくせに、まるで何もなかったように元に戻そうとするのは許せない、と腹が立った。こちらにだって意地と自尊心があるのだからと、「飲み会がある」とか「体調不良だ」といって拒絶しよう、しかもそれがただの言い訳でしかなく拒絶しているのだとはっきり相手にわかるような形、それでいて非難を一切許さないような形で突きつけたい、という欲求が起こった。
 しかしそんな意地が何になるのかと思えばむなしい。振り回されたのは相手によってではなく自分が回っただけなのだと思い直して、こちらも何事もなかったように、迎えることにした。


 とは言え、再び「いる前提」が出来上がって、それをまた突然一方的に覆されて苦痛を覚えるのはごめんだとも思っている。相手が悪いわけではなく、ただ自分の保護のために避けたい。
 それで「ああされるとしんどい」ということを伝えた。伝えはしたが、相手は恐らく理解していないし、する気もないため、細かい説明はしなかった。この友人は、自分の視点、他人の視点、誰でもなく俯瞰する視点と、立場や視点を変えてものを想像したり類推する能力が欠けているからだ。それは単に、これまでの人生でそのように思考するトレーニングを積まなかったというだけのことで、当人の責任ではないし欠点とも限らない。ただ「うん」と神妙な顔をして言ってくれたのでそれで構わない。
 その際、来なかった間に、彼の家庭(彼の母親との関係)が険悪になっていたと聞いた。それが来なくなった理由とまでは明言されなかったが、そんな中で当てつけのように友人の家に外泊するというのも難しいだろうなと想像して納得した。もちろん理由も、それによって私が納得することも必須ではなく、必要なのはただ関係を、あらためて構築し直すということだけだ。


 結局、これからは「来るのを当たり前にする」のはやめて、1ヶ月に1、2回のペースに抑えることにした。これで日常化は防げるし、私が相手への遠慮を失って嫌な奴にならずに済むという思惑だ。(相手は元々どれほど日常化しても「他人の家にいる」という一線を崩さないという信じがたい美点を備えていたので、この点はもっぱら私の気質の問題を顕在化させないための措置だ。)
 また歯医者のようにあらかじめ次に来る日を決めておくようにした。これで来週は来るのだろうかと気にかけて、勝手に期待して落胆することもなくなる。
 その約束をして運用し始めて1ヶ月以上が経ち、今のところ上手く機能していてとても幸福だ。
 それにしても、こうした約束を(恐らく当人として理解して納得していないにもかかわらず)文句も言わずに受け入れてくれたという点には、それが必ずしも美点と言い切れないとしても、とにかく感謝すべきだと思う。


 10代の自分だったらわけもわからず振り回されて疲弊するばかりだったろうし、20代前半の自分だったら上手にフェードアウトはできても、愚かな意地に疎外されて再構築するには至らなかっただろう。20代後半の今の自分が、感情に苛まれることはあっても、行動としてはよくコントロールできたのではないかと思って、自分自身と結果にまず満足している。もちろん相手あってのことなので、こうした稀有な体験で私をアップデートさせてくれた巡り合わせに心底感謝している。