やしお

ふつうの会社員の日記です。

大人いじめ マイルドタイプ

 大人になってもいじめの構図は引き継がれていくんだなと思うときがある。
 「なんですぐ連絡入れないんだ!」という同僚や部下への叱責は、中学生が体育の授業のバスケで「なんですぐパス回さねえんだよ!」とトロい同級生に怒鳴るのとよく似ている。怒ってる当人からすれば、このタイミングでこの人物に連絡を入れる/パスを回すのは全く疑う余地なく当然のことだと思っているし、それがわからないということが想像できないので怒っている。一方で怒られている側はどうしてそのタイミングでそうすべきなのかを理解していなかったり、わかっていても他の作業との優先順位の付け方が上手くできていなかったり、そもそもどういうわけか体が動かなかったりで、怒鳴られたところでどうしようもなかったりする。
 この程度のことはいじめと呼ぶのは大袈裟だと言われればそうだと思う。けれどこうして叱責される姿を目にした周囲の人間が、「こいつはトロい奴だ」「批判すべき対象だ」というレッテルを曖昧に、本人すら意識しないうちに貼っていく。そして誰もがその人を見下していくようになる。他の人なら何も指摘されないような軽微なミスさえ責められたりする。


 私が今働いている職場は幸い、他人を見下す(ような態度を見せる)のは恥ずかしいことだ、自分を棚に上げて相手の立場も忘れて罵倒してはいけない、という考えが瀰漫しているので、あからさまにその穴の中に誰かを押し込むということはなくて助かっている。
 それでもほとんど無意識のうちに起こってしまう。
 ややそんな扱いを受けているある先輩がいた。その人のリーダーが「こいつのことを思って叱責してるんだ」というタイプの人だった。確かにその先輩は外から見ても適切な解を適切なタイミングで行動していないことも多かった。だからといって、リーダー以外の人までその先輩に辛い言葉を浴びせるという事態にはなっていないけれど、ただ、「この人はアドバイスをすべき人」といつの間にか思い込んでいくようになっていた。
 その先輩に「いやいや、もっとこうしたらどうですか」と日常的に言っている自分に気づいたときに、ぞっとした。


 そんなこと、言われている側も言っている側も、聞いている周りの誰も、いじめだなんて思っていない。ただ、程度問題としてはいじめではなくても、構造としては中学体育のあれと同じ平面上にいるんだなと思った。
 言う側も言われる側もアドバイスのつもりだし、外形的にも同じだけど、内面的には差が生じている。
 言う側は「こいつには言って当然」と思い込んで、言われている側も「自分は言われて当然だ」と徐々に思い込んで当たり前になっていく。お互いフラットな忠言のつもりで言って/聞いている中でこうしたことが進行する。


 会社というフィールド、仕事というゲーム、そのルールの中でプレイヤーとして劣るのならば、それは責められて当然だと考えることも可能だ。このゲームのプレイヤーになったのはあなたの選択なのだから、あなたがゲームをこなせないなら責められて当然だ、と考えて実際、正しさで責めることは容易い。
 でも私自身は、人の自尊心をゆっくり損なっていって、いいことなんてあるはずがないと考えている。それから体育のときに辛い思いをしたあの気持ちを他人の上に再現させたいとはどうしても思われない。しかもその再現を自らの手でしているのではないかと気づいたらもう耐え難い。
 そうした加害者の苦痛を味わいたくなくて、私はあなたのことを肯定しているんですよ、ということを示していく。同じ忠告をするにもそれで言い方が変わるし、言い方が変わるだけで済むなら安いものだと思う。