やしお

ふつうの会社員の日記です。

赤ちゃんプレイで国民救済

 幸福の程度は、ストレス源を解消することだけでなく、役割を脱いだ自分が他人に肯定されることによっても上げることができる。
 だから、赤ちゃんプレイはわかる。したことはなくても、はまった人たちにとってそれが極めて気持ちのいいものだろうということはわかる。自分自身の役割をリセットしてもなお肯定してもらえる快感は忘れられるものではなく何度も通ってしまうのだろうと、何か実感を伴って想像できる。
 少し前にNHKクローズアップ現代で「男はつらいよ2014」という特集をしていた。日本の男性は女性に比べて幸福度が低いという。(しかし幸福と答えた人の割合がたしか男性が30%台で女性が40%台だったので、むしろ「人はつらいよ2014」だ。)男性に対して求められる役割が多かったり分裂していたりして疲弊しているという。ならば赤ちゃんプレイだ。金銭的な余裕があればそういう店に行けばよい。恐らく幸福度が上がる。男性に限らず女性も疲弊しているので女性も赤ちゃんプレイをした方がよい。赤ちゃんプレイの社会的整備と認知が急がれる。


 番組の中では、女性はうまく友人に愚痴を言うなりしてストレスを軽減できている一方で、男性はそのあたりが上手に解消できていないといった指摘がされていたと記憶する。愚痴という行為もまた、周囲が求める(と自分が思っている)役割を演じる生活の中で生じた齟齬を解消する手段のひとつだ。だから愚痴を言われればひたすらそれを肯定するべきである。たかだか平社員のおっさんのくせに会社の経営批判など馬鹿げていると思っても、相手はまさに「平社員」という役割を一時的に捨てたくてそうしているのだと理解する必要がある。愚痴に「泣き言を言うな」と言わんばかりに反論するのは、役割を一時的に脱いで救われたい相手に「お前は黙って自分の役割を演じていろ」と申し渡す残酷な行為だ。そこに男女の違いはない。
 そこでキャバクラやホストクラブなのだ。キャバクラもわかる。たとえ私自身行ったことがなくても何か実感としてわかる気がする。どれほど無茶な愚痴を言ってもひたすら聞いて肯定してくれるのだとしたら相当な快感だ。夫がキャバクラに通ってばかりいると怒る妻がいたとしたら、ひょっとして夫の愚痴を否定したり無視したりしていないか疑うのがよいかもしれない。(キャバクラには派手に金を使う解放機能も備わっているので、愚痴を肯定する解放機能を担保してもキャバクラ通いは止まらないかもしれないが。)


 赤ちゃんプレイ屋にしてもキャバクラにしてもホストクラブにしても、金銭の授受でそれら解放サービスが成立しているということは、いかに人々が家庭や友人関係の中でそのリセットができていないかを証拠立てているように見える。たしかに愚痴を聞くのは疲れるし、普段はよい父親をしている人間があられもなくバブゥだのダァだの言う姿を見るのもつらい。もう少し許容可能で、それなりに効果的で、しかも身近な人間関係で実行できる方法はないだろうか。


 その一つとして、家でどうでもいい歌をずっと歌う、どうでもいいモノマネをずっとしてる、それを他人が聞いている、というものがある。聞くといっても9割は聞き流していて、1割ほど「ふふっ」となれば十分である。目を合わせておく必要もないし、やる側も聞き手に笑いを強要してはいけない。愚痴とは違い意味内容を話す/聞く必要がないので楽だし、より解放感が強い。また赤ちゃんプレイよりは知性を放棄していない。
 これは私自身が体験して心身の健康に効果があることを確認している。芸人のモノマネを真似して原形を失ったもの、例えば市原隼人(ヘアッ シュッチュッ ヘアッ)や芦田愛菜(アドデッ ヴァナネッ)、あるいはアニメのキャラの原形を失ったものまね、のんのんびよりのレンゲ(ダガジヤー ダガジヤー)(ニャニャニャンニャ ニャンパスゥー)や、あるいは小さなスナックを営む年老いた浜崎あゆママ(アダジャ平成ノ歌姫デシタョォ)(アリーナー スタンドゥー.....ココワ場末ノカウンターダヨォッ!!)などをたしなんでいる。または原形を失ったglobeなどを歌っている。似せようとか上手くやろうとする必要はない。ただ欲求に従ってだらだら垂れ流すことで解放される。


 一人でやっていればいいかというと、それは絶対に違う。他人がそれを受け入れてくれているという形式が必要なのだ。親の前の自分、会社の中の自分、友人の前の自分といった、既に構築された自身のキャラクター(と自身が思っているもの)を捨てても大丈夫なのだと確かに信じられるためには、他人が必要なのだ。だがそんな他人を見つけるのが難しい。いきなりやってもほとんど「えっ」「どうしたの?」と言われてくじけてしまう。赤ちゃんプレイで「えっ」「どうしたんですか?」などと聞かれることを考えれば、その立つ瀬のなさは容易に想像できる。それを恐れてこの一歩を踏み出せない。ほとんど崖の前に立っているのと同じだ。飛び降りれば爽快感と共に海が受け止めてくれるかもしれない。しかし飛び降りた先が浅くて全身をぶつけて死んでしまうかもしれない、そんな恐怖が足をすくませる。
 だから最初はふつうの鼻唄を歌うところから始めるのがいいだろう。最初は「どうしたの?」と言われても「鼻唄歌ってるだけだよ」でそう不審にも思われない。相手が「ふーん」と気にもとめなくなって鼻唄をずっと歌っていられるくらいになったら、歌をちょっとむちゃくちゃにする。メロディラインを適当に崩したり勝手に歌詞をでっちあげたりする。そうやって相手を慣らしつつ少しずつ拡大していく。


 以前バラエティ番組(アカン警察だったと思う)で、父親がずっとダジャレを言っているという家庭が紹介されていた。家のなかで低級なダジャレを言い続けていて家族はそれを無視している。ごくまれにふふっとなる。当時はうっとうしい父親だなと思って見ていたけれど、今思えばこれは解放術の一種だったのだ(職場や外では普通の人なら)。この父親はかなり幸福度が高いに違いない。
 人によってはカラオケや宴会で解放される人もいるかもしれない。しかし私はそうした場でも自身のキャラクターを引きずったまま、崖からは飛び降りることができないので、私にとっては解放の機能は果たしえない。私自身が解放の悦びを明確に認識したのは、18,9歳頃の性交においてであった。自分のキャラクター、立ち位置をあっさりはぎ取られて振る舞える喜び。それまで何人かと経験があって肉体的な快感は確かに得られることを知っていたが、このとき始めて精神的な快感が存在してむしろ、こちらが主なのだと思い知らされた。物理的な衣服のみならず、精神的なそれも脱ぎ去ってはじめて性交の悦びに到達できるのだと知った。今となっては正確に記憶していないが、恐らく相手が先にキャラクターを脱ぐことで、こちらも崖から飛び降りても大丈夫なのだと思わせてくれたのだろうと想像している。


 そうした体験を敷衍させて、赤ちゃんプレイも理解している。性交でもモノマネでも愚痴でも赤ちゃんプレイでも構わない。とにかく解放されることで救われるのだと知っておいて、上手に自身を解放させる場を確保していけば幸福度を高く保てるのだと考えている。