やしお

ふつうの会社員の日記です。

大西巨人『神聖喜劇(一)』

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/41936698

大前田-神山がジャイアン-スネ夫キャラで現れて、お話作るのに都合いいしねと思ってると一気にはみ出して収まりがつかなくなってく。まだ1巻なのに。東堂が視点人物としてそれらを捉えようとするとき、あくまで具体的な言葉が先行するテクスト(引用)とどう関係を結ぶかに拘泥し続ける。大西巨人は小説もエッセイも一貫してこうで、自説を支える引用って範囲を超えちゃう。個人の思想の独立性より、言葉が不可避的に生じさせる関係性の方を根本で恐らく無意識に信じてるんだ。今たぶん意識的に近いことしてるのが青木淳悟の「男一代之改革」とか


 9年前に通読した時と比べて、はるかにクリアーに読めているので嬉しくなるが、「クリアーに読めている」というのはある種の制度に囚われていると疑った方がいいので、気をつけて読まないといけない。


メモ

  • 時間が異様に停滞していく。物語が進むことに抵抗していく。誰かの言動ひとつふたつが別のテクストをどんどん召喚していく。それは既にこの小説のなかで書かれた言葉なり、現実に存在するテクスト(詩歌、随筆、法律等々)なり、過去の記憶に基づく挿話なり。埴谷雄高の評に<「百歩を一万歩分で歩く」手法>(p.573)とあるのはこれ。
  • 物語は脱線するが、必ず対馬の教育兵としての生活の時間軸へ戻ってくる。それが背骨になっている(少なくとも1巻までは)。そこまでは解体していないためエンタメとして読める。
  • ただしテクスト上の現在は背骨としての対馬-教育兵の時間軸ではなく、戦後にある。全体が過去のこととしてパッケージングして書かれていることが明示されている。例えばp.34の<一人の婦人作家>の<戦後の作品>への言及。
  • 召喚された別のテクストがその背骨を侵食するようなこともない(少なくとも1巻までは)。そうしたことをしているのは例えばフォークナーの「アブサロム!アブサロム!」。
  • 恐らく大西巨人自身が、当人の認識の独立性みたいなものを根本では信じていない。それが過剰な引用に繋がっていく。筆者の別のエッセイ類も同じ態度が貫流している。物語を支えるため、自説を支えるためといった、補助的な役目としての引用の範囲を逸脱している。だから東堂太郎という人物の造形として引用過剰というスタイルを選択しているわけではなく、掛け値なしに全身で書こうとして結果的にこうなっているように見える。
  • しかし東堂が感情や印象を比喩や形容詞で表現することも妨げていない。だから、正確に言うと、当人の意識としては「表現できること」にさして疑いを持っていないのに、現実(テクスト的な現実)としてはその不可能性(というのが言い過ぎなら困難性)が出てきてしまう、それは本人が言葉にこだわってしまうところを起点に発生してしまう。
  • 「東堂太郎の超人的な記憶力」はキャッチーなので本作の紹介文として頻出するが、この点は、単に書物を自由に参照できない(軍隊生活で書籍の持ち込みが5冊に限定されている、決まった時間にしか読むことが許されていない)、という舞台設定から自動的に導かれた便宜的な設定でしかないと思われる。だからこの点に立脚して作品を云々しても豊かな読みからは離れるのではないか。
  • 戦地でない召集という舞台設定はかなり貴重。大人たちが教育の程度や職業などとは無関係に、およその年齢でくくって同じ場所に放り込まれて生活する、などという舞台は現代にはほとんど存在できない。子供だと公立小中学校が該当するが、高校、大学、職場では教育程度等々のフィルタリングが働いてしまう。あとは老人ホームを舞台にすればなんとか可能かもしれない。
  • 単純に、戦時中の当時の補充兵、教育兵の生活のルポとして面白い。あるいは軍規その他ルール、仕組みの資料として面白い。
  • 定形として、同班同年兵の誰か(冬木、鉢田その他)にフォーカスがあたる→当人の職業なり言動なりの紹介が入る。形式として安易なためやや退屈。今後、その形式を逆手にとるような形式への意識が見られるかどうかチェックする。
  • 定形として、章や節を閉じる際に、「テンコオォォォ」等の叫び、声が挿入される。8千枚の超長編には似合わない短編に近い切り上げ方。たった一回きりで使うならともかく頻出するのは長編の言葉の密度に対する意識(というか信頼)が足りないように見える。これも都合よく利用しているのか、それとも今後ずらして自ら裏切っているのか確認する。
  • 時々ふいに下ネタが挿入される。他の兵や上官の言葉の中に留まらない。特に大前田が銃剣の柄を押し下げて鞘が跳ね上がる様を<この短小なチンボコの突起が、しかし無残な殺気を放った。>(p.462)の箇所はこれまでの文体上では予想できない語句の挿入で驚かされる。下ネタがぽこぽこ入るというより、それらみんなが同じ地平で語られている。
  • 台詞は福岡、長崎、鹿児島のそれぞれの方言で書き分けられている(と思うが私には十分弁別できない)。地の文は標準語だが漢語が多用されていて、また俗語もふいに紛れ込む。引用では漢文、古文、英語、ドイツ語が入り、詩歌や俗謡などが入ってくる。言葉のバリエーションを増やしている。これも物語を含む制度への組織化への抵抗として把握できる。
  • 他の人物、特に橋本の性格・性質が物語や認識のリニアな進行を阻害してくるのもそうした組織化への抵抗のひとつとして機能する。
  • 大西巨人としてはこれ以降の作品の方が、西欧語に近い日本語になって比喩も減っているような気がするが、きちんと比較検討しないとわからない。どちらかというと本作の方が不正確というかまだ観念としての「小説らしさ」に捉われているように見える。例えば対馬行きの船上での冬木の目に関する描写や、村上少尉の初登場シーン。まだ5巻のうちの1巻目なので、ここから変わるのかどうか確認する。


神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)