やしお

ふつうの会社員の日記です。

括弧に入れたり外したりして大人になってく

 職場の新人に、雑談まじりでこんな相談を受けた。
 インドから日本に製品を返送することになった。現法の営業担当に品物がいつごろ届きそうか問い合わせた時のこと。先方から、インドから出荷するのはとても時間がかかる(税関?)、一度来てみて下さいよ、よくわかりますから、と書かれていたという。
「どう返事したらいいんでしょうか」と聞かれて、「『機会がありましたらぜひお願いします。』でいいよ。別に嘘じゃないし。ただインドに行く機会がたぶんずっとないというだけで。」と答えた。


 ああ、これだ、これ。と思い出した。自分が1年目だったころもそうだった。メールひとつ返すにも、(この書き方だと失礼かな)(どういう言い回しにすればいいだろうか)(どの辺まで踏み込んで書けばいいのかな)と悩むポイントが多すぎて時間がかかっていた。ところが経験を重ねていくにつれ、(こうきたらこう!)(これくらいの関係の相手にはこれくらいの言い方)というのがさっさと出てきて短時間で処理できるようになってく。そしてどうでもいい箇所で煩わされない分、どうでもよくない部分により労力を割けるようになっていった。
 パターンマッチングだ。それ以外の可能性をあらかじめ切り捨てておくことで、早く解に到達できる。


 保坂和志が『羽生』の中で、将棋の棋士が何千手も読んでいると言うが、それは可能な組合せ全てを検討しているのではなく、解としての可能性の低い手は(相手の指す手も含めて)あらかじめ捨てて考えるから可能なのだ、といったことを語っていたのを思い出す。
 あるいは言語の習得もそうだ。混沌と混ざりあった音の中から、言語として意味のある音だけを拾うことができるのは、他の音をノイズとして捨てる技術がどんどん身についていくからだ。


 あらゆる面で「捨てること」を身につけて進んできた気がする。
 感情的な反応もそうだ。あまり人付き合いをしていなかった学生時代は、自分に向けられた他人の言動を細かく解釈して傷ついたりしていたが、会社員になってからはもう、そこはしょうがない、ここでは嫌われても構わない、と捨てられるようになった。
 あるいは何かを判断することもそうだ。判断に必要な情報とそうでない情報を演繹的に判定できて、ノイズを捨てられるようになっていく。


 捨てられるものを上手に捨てる技術を身につけて、そこに煩わされずに次のステップを検討できる。そうやって大人になってんのかなと思ったけど、より正確には「切り捨てる」じゃなく「括弧に入れる」だった。


 他人の立場などなどを無視して原理主義的に持論に固執する人を見て、幼いとか社会的な経験が少なそうだとかいった印象を抱くことがある。これは切り捨てっぱなしだからだ。原理主義は、現実に存在する多数の条件を無視してはじめて成り立つ。それだから実際には、原理主義で押し通そうとしても無視した条件に反撃されてしまう。そうした敗北の経験が不足しているか、それを被害者意識で見ないことにするかして原理主義者になる。
 だからといって、現実には条件が多すぎるのだから考えてもしょうがない/とりあえず目の前に出てきた条件にその都度対処する、という態度はただの退行だ。
 「括弧に入れる」という態度は、場合によっては括弧を外すことも意味する。普段は言語の成分だけを聞いていても、ノイズに意識を向けることだってできるということだ。一旦不問に付して所与の条件とみなしたものも、固執することなく戻って検討する。前提を立て直して改めて構築することも厭わない。(言うのは簡単だけど、実際には自分が何を括弧に入れているのか/切り捨てているのかを自覚することこそが難しい。)
 一方でこのとき原理主義者は「ノイズなどない」「ノイズがある方が間違いだ」などと言い出す。


 一旦括弧に入れて先に進むことと、必要があれば戻って括弧を外して考え直すことの、両方をいろいろな場面で具体的に実践しながら、少しずつ手の届く範囲を広げているみたいだ。