やしお

ふつうの会社員の日記です。

装置ではなく出力にプライドを持つということ

 自分の仕事に、ではなく、自分自身にプライドを持っている人はめんどくさい。意見を否定されれば自分自身が否定された気になって必死で抵抗してくる。なにか指摘されると「いや、わかってましたし」と強情を張る。言動のはしばしに「私はすごいでしょ?」がにじみ出してぬるぬるしている。
 我々にとってあなたがすごいかどうかはどうでもいい。あなたの仕事がすごいかどうかが重要なのだ。


 他人にとって重要なのは、私自身ではなく、私の仕事でしかない、という根本的な認識を共有していない人を相手にするのはとても疲れる。疲れるが、面白いゲームだと思ってこなしている。
「ああ、この人はアイデンティティの確立が脆弱だ」と判断したら、おだててなだめてすかして、相手が一番気持ちよく動いてもらえるように、ほとんど顧客満足の感覚で接していく。それで相手が嬉々として意図したように動いてくれたとき、大きな喜びを感じる。
 しかし、めんどくさいのは確かだ。そうしたカスタマーサービス抜きで仕事を進められる相手の方がずっと楽だ。
 とはいえ、ある人がプライドをどこに担保しているかは程度問題なので、誰に対しても多かれ少なかれ顧客満足を意識して接することに変わりはない。


 などと偉そうなことを言っても、私もまだ十分に自分自身へのプライドから自由ではない。自分の仕事を否定されて一瞬気色ばんだり、評価されていないと感じて鬱屈したり、妙なしつこさで自分が優秀だとほのめかそうとしたりして、ひどく自己嫌悪することがある。
 ただ、例えば会社員1年目のころと比べればずっと抜け出せている。この調子で嫌悪感をたよりにさらに修正していきたい。


 改めてこんなことを思うのは、つい先日、会社である新人と付き合った体験からだ。彼は旧帝大修士卒の1年目で、やや高卒・高専卒の多い製造よりの部門へ配属された。開発部門へ配属されなかったことに若干の不満を抱いているようだった。
 なにか作業をしていても、露骨ではないものの、どこか成果をアピールしたり、あるいは私の意見に不満そうにしたり、端々で自分自身にプライドを持つタイプだと感じさせた。彼は私をバカにしている(したいと思っている)なと思った。
 また、むしろ私が彼に対して先輩風を吹かせるような態度を示していたのではなかったかとぞっとしたこともあり、ここからは彼を立てるように私自身の態度を改めた。実際に彼はとても優秀で理解も早く、それを私が認めて尊敬しているのだと態度で見せようとした(こういうところを嘘で固めても、早晩馬脚を現すことになるため本気で相手に好意を抱かないと上手くいかない)。
 ただ、それが十分機能する前に彼との仕事上の付き合いが終わってしまったので残念だ。もっと素早く気付けられればよかった。


 自分が1年目だったときも、彼のように「いや、ぼくわかってますから」という態度を出していたような気がする。バカだと思われたくないと思っていた。まだ仕事に自信が持てないからだ。仕事が評価されていると信じられれば、自分が多少どう思われようと構わなくなる。より正確には、相手の自分に対する心象が、全体としての結果に最も効果的に働くようになっていれば構わないと思える。相手が私をバカにすることで上手くいくならそれでいいし、相手が私を尊敬することで上手くいくならそのように努力する。
 1年目に比べれば今は随分マシになった。必要ないところなら、僕のことなどバカだと思っていてくれと思えている。特に研修の講師とか美容師とか家電量販店の店員とかには、相手が最大限いい顔できるように自分を適度に愚かに見せるようにできている。


 思い出すのは佐藤優のことだ。著作『国家の罠』の中で彼は、システムにおける要素としての自分が、システムが最もよく機能するように振る舞えていることに満足するタイプの人として生きている。取り調べの中で検察官に「あなたはプライドが高い」と言われて「そうは思わない」と答えるが、「いや、あなたはもっと根本的にプライドが高い人だ」と評価される場面が印象深い。


 装置ではなく出力にプライドを持つというのは、とても難しいことだが、まさにその点で実践し甲斐のある態度だと思っている。