やしお

ふつうの会社員の日記です。

ルールを守るかは主体的に選択する

 「ルール違反じゃん」って非難したりされたりする。そのルールが設定された理由や意味を忘れて、利害関係のない他人が鬼の首でもとったように「ルール違反だ」と非難する。それがたまらなく不快なんだ。子供が「いーけないんだーいけないんだー」と囃し立てるみたいだ。


 安全を確認した上で赤信号で横断歩道を渡る。するとまるで無関係の人が「ルール違反だ」と非難する。まだしも例えば、リスク判断する能力が十分育っていない子供の目の前だと悪い影響を与えるから、といった実効的な理由があるならいい。そうではなくただ「ルール違反だから」という理由で非難するのだ。
 著作権の侵害が親告罪である理由、未成年の飲酒の罰則が保護者や店側にある理由、等々をまるきり忘れて責め立てる。別に公法に限った話じゃない。職場だとか自治会だとかのローカルルールについてもそうだ。
 あなたは間違っていると見下して虚栄心を満足させる、もしくは、私はルールを順守して我慢しているのにずるいという怒りを発露させる。そうした利己心がだだ漏れに漏れているのに、まるで客観的な正義みたいな顔をして言う欺瞞が耐えられない。


 だからといって、そうした理屈をかためてルール違反を正当化しようとする態度もいやだ。「いーけないんだーいけないんだー」と言われて「別にいいんですぅー」と口先とがらせて言うのも違う。それは「ルールだから」で責め立てるのと変わらない態度だ。「お前は正しくない」と言われて、後ろめたさに耐えられない自分の心を守ろうとする利己的なふるまいを、客観性で糊塗しているに過ぎない。
 そうではなく、ルールが確かに今存在していて、それが私を捉えているということを素直に認めたい。それを知らなかったのなら、今知ったのだとただ言えばいい。単に「そうだね。ルール違反だね」と言いたい。その後で必要があれば「このルールは有害だ」とか「こんな風に変わればいいね」とか言えばいい。


 ルールに対して適切な距離を保っていたい。ルールを絶対視したりはしない。しかしいたずらに無化しようともしない。
 ルールはルールである以上、破ればペナルティやリスクがあるのは当然で、それをきちんと見つめた上で破るか守るかを決めていきたい。あるいは成立過程や起源をきちんと考えた上でそのルールを破るか守るか越えるか決めていきたい。
 どうしても子供の頃から「ルールは守らなければならない」と理屈抜きで教え込まれてきている(それは世界に対して適応するためにやむを得ない)から、大人になってからルールを疑う習慣や、ルールは守るべきものではなく、守るかどうかを主体的に選択すべきものであるという認識が身に着くまでに時間がかかる。


 あと何が一番いやって、私自身が都合よくその辺を自覚した上で使い分けてるってこと。
 相手や状況に応じて、ほんとは無意味なルールだと思いながら「それってルール違反じゃないですか」と言ったり、あるいは「ルールはそうかもしれないけど別にいいんですよ」と言ったり自分の都合に合わせて使い分けてる。相手がルールに対する距離の取り方が上手くないな、十分に相対化できていないなと思うと、そこに付け込んで都合よく人を動かそうとしたりする。
 自分の目的を達成するために上手くやれてるって感じがゲームみたいでその場では気持ちいい反面、ああ、ずるいなあ、汚いなあと後からしみじみ思う。こういう小手先のことをせずに正攻法でやったほうが、長い目で見ると結局は得になるんだ、と信じてもうやめようと思う。