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死んだ自分の父親がそうだったのだから自分もそうなって当然だ、という感覚が「浄徳寺ツアー」以外の短編で共有されているけれど、これは何なんだろう。実は自分にもあって、父親はアパートで孤独死した、晩年にガソリンスタンドでバイトして苦労した、自分もそうなるはずだ(その方向に持っていかなければならない)という感覚が曖昧にあって、今までそれは個人的・特殊的なものと見なして深く考えてこなかったけど、ここではっきり形にされているのを目の当たりにすると、この感覚を支える共通の構造があるのかもしれない、知りたい、と思わされた。
密度がものすごく高い。観念、言動、事物がシーケンシャルな中に間髪を容れずに同時多発的に現れてくる。モチーフも溢れ返っていて絶対に読む者に焦点を結ばせない。ある一面で見てしまうと、確実に今自分はこの小説を取り零している、という感覚にさせる。それでいて物語が確かに存在している。
間違いなく組織されているのに、組織されないようになっているようなものに接すると、ああ、これが小説なんだな、と思い知らされる。ひたすら定義から免れていくような存在であるということだ。
無償の自己犠牲を体現するばばあ、抑圧してゼロになるか複数化するしかない女との関係、物が燃えること、意味の通らないことを言う女、人がいなくなること/いない人が縛ってくる感覚、子供が足かせであるという意識/自分もまた誰かの子供だという耐えがたい意識、自分をコントロールしたいという強い欲求/発現してしまう暴力……そんなモチーフたちが各編を越えて立ち騒いでくる。
- 作者: 中上健次
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1978/12
- メディア: 文庫
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