やしお

ふつうの会社員の日記です。

友人を愛せているということ

 5年前、10年前の自分と比べると、はるかに友人たちを愛せている。固執でも依存でもなく、ずっと自然に、より強固に相手を肯定できている。価値観や思考の違いを、10年前の自分であれば否定したり嫌悪したりして友人関係を解消していたかもしれない。5年前の自分なら、そうした差異に目をつぶることで耐えていたかもしれない。しかし今の自分は、それを面白いと感じて肯定できるようになってきている。これを、愛せている、と言っている。
 15年前の自分は、友人なんてたくさんいらない。一人か二人、親友と呼べるような相手さえいればいいのだと思っていた。漫画などで、たくさん友人がいても浅い、本当の友人がいない、などと批判的に描かれたりする。そうした紋切り型を曖昧に信じていた。今思えばまるで浅はかだった。
 プライドが十分に強靭でないので、誰かに肯定してもらわなければ生きていけない。そうした肯定する役目を「親友」と呼んで他人に押し付けていた。それは他人を手段としてのみ利用することにほかならない。自分のことをひたすら話して、相手が自分を肯定するのを期待する。相手がその身勝手な期待にそえなければ腹を立てるのだ。全く愚かだった。そんな役目をたった一人か二人に背負わせるくらいなら、もっとたくさんの人に分散させた方がマシだったはずだと思う。
 今はプライドの基礎工事がより進んでいると感じる。プライドはただ高いだけではだめだ。基礎工事が脆弱な上に高層建築のようなプライドを立ててしまえば、倒れないように必死で抵抗することになる。他人の肯定によってプライドを支え、また他人の否定からプライドを守ることに汲々とする。プライドが強靭であるというのは、もはや他人の肯定や否定によって揺らがないということだ。もちろん完全ではなくとも、以前よりもはるかに強靭になっていると感じる。とりもなおさずそれは、自身をより相対化し客観視できているということだ。
 そうして今は、他人が自分とは違うシステムを内在して世界を見ているという、とても驚きに満ち溢れた事実を、より素直に愛している。もちろん自分の話もするけれど、それと同じかそれ以上に友人の話を聞きたい。どんな視界で世界を見ているのか知りたいと思える。
 もし今の自分が誰かと結婚したとしても、簡単に離婚へは至らないのではないかという予感を覚えている。特に結婚の予定があるという話ではない。もし何か価値観や思考の違いが顕在化したり、何か事件や事故や環境の変化が生じても、それを新たな条件と捉え直して、あらためて二人の関係を再構築できるだけの柔軟性があると感じている。それは婚姻関係に限らず友人関係であっても同様だ。気が合わなければ別れれば良い、という以前抱いていた考えを否定はしないが、その選択を取らなくとも、変化した諸条件から改めて二人の関係を構築し直せば良い、というより豊かな選択肢を今は持ち合わせている。それは根本的に、友人や夫婦、同級生や同僚、といった社会通念に合致した枠組みによって二人の関係を捉える必要はないし、またそう捉えることがあまりに貧しいという認識があるためだ。他人が二人いればそこには、ある固有の、唯一にして無二の関係性が生じているはずであって、またそれはその瞬間ごとに変化していくものであり、完全に零れ落とすことなく何かの枠で捉えることは原理的に不可能だ、という認識がある。
 今の私が、かつての私よりいっそう友人を強く愛せていることに、確かに満足している。