やしお

ふつうの会社員の日記です。

目的、現状、手段

 職場の年下のかわいい男の子から頼まれごとをされた。職場の改善のちょっとしたプロジェクトのお手伝いだった。「こうこうこういうことをしてください」と指示されて、「どうしてそうするの?」「それをすると何がいいの?」「もともとどうしたいの?」といったことを興味本位で聞いてみたら、ぽろぽろぽろはかなく壊れていってしまった。彼はあとで課長と課長補佐に報告しないといけないのに、あぶないと思った。それで「着手する前に、一緒に『なんで?』を考えよう」と言って、時間を決めて後日お話しすることになった。
 その前に、自分なりにそのプロジェクトのことを整理してみた。彼に直接それを見せるつもりではなく、あくまで彼に自力で構築してもらうつもりだけど、事前に自分の側で整理しとかないと上手に話もできないから。
 その途中で、あ、そうか。自分はこういう枠組みでだいたい物事を把握してるんだな、と改めて思った。打合せをするとき、仕事を渡されたとき、習慣的にその枠組みで照らし合わせて検証して、「じゃあどうしよっかな」を決めてた。職場に限らず普段の生活でもそうだ。
 そこをはっきり定式化させたいと思ってまとめ直した。


検証する枠組み

 目的、現状、手段っていう3つでおおよそ考えている。ふつうだ。ふつうだけど、これをどこまで広く、かつ徹底して適用できているのかという程度が問題なのだ。3つ以上枠組みを増やすと、頭の中での整理がめんどくさくなる。
 こうした枠組みで検証すると、何が足りてないのか、何が過剰なのかがはっきりさせられる。


 順番はない。3つを行き来する。
 例えば誰かから作業をぽんと渡されたりする。最初に「手段」がある。なので「手段」から出発して「現状」と「目的」を考える。今どうなってるからこれをやるのか、そもそも根本的にどうしたいからこれをやるのか、と遡行して考える。
 組み立てるための情報が足りなければ作業を渡してきた人に聞くなりして集める。それで構築して、今度は「目的」に対して「手段」が合っているのか、「現状」に対して「手段」に妥当性があるのか反対方向から考えてみる。それで「おかしいね」ってことになったら、その人に「こうした方がいいかもしれません」と別の、より合目的的で妥当性のある「手段」を提示できたりする。


 打合せを開こうってなったら、この打合せを開くのは「目的」をみんなと共有したいからなのか、「現状」の情報収集をしたいのか、「手段」の妥当性を確認したいのか、あるいは全体を誰かに構築してほしいのか、いったいどういうつもりで開くのか、あらかじめ考えておく。そこがふわふわしていると、打合せが声の大きい人に流されてしまう。終わるときに「これで必要なことができたのか」もよくわからずにもやもやする。


 「目的」→「現状」→「手段」と順番に進んだ場合でも、こんどは「手段」を実施した後の世界を想像してみて、その世界の「現状」を検証して、さらに「手段」に反映させるみたいに、回してより強固な「手段」を構築したりする。
 これは仕事だけじゃなくて、「なんで仕事してるんだろ?」とか「一回きりの人生どうしよっかな」とか考えるときもそんな風なやり方・枠組みで考えてる。


 いつも「目的」、「現状」、「手段」という言葉で意識して考えているわけじゃないし、毎度書き出したりしてるわけでもない。というより、今はじめてそういう言葉で自分の習慣的な思考を捉え直した。それで捉え直して、見直してみると「こうやって考えてるのね」というのがはっきりしてきた。
 このどれかが欠けていたり、十分でなかったり、筋が通っていなかったりするのがわかると、気持ち悪さや居心地の悪さを感じたり、イライラしたりするようだ。


目的

 「目的」はかなり当たり前なことを設定する。誰が見ても「そりゃそうでしょ」って言われるようなところから出発する。当たり前なことから出発すれば、他人のツッコミに耐えられる。逆に「手段」や「現状」から「目的」に向かうときは、当たり前と思えるレベルまで掘り下げていく。
 当たり前のことをわざわざ意識するなんて意味がないように思えるかもしれない。でもここがブレてると、結局自分が何をやってるのかわからなくなる。


 「目的」がブレてると、「手段」で「こうやった方がいいんじゃないの?」と他人(上司とか)にツッコまれたときに、なんとなく「そうですね」ってどんどん変な方向に行って、気づいたらまるでとんちんかんなことをすることになる。家電とかで誰が喜ぶのか全く意味不明な新機能がついたりするのは、「目的」に立ち返ることが許されない社内構造・形式になってるからなんだと想像してる。
 いつも「目的」に帰って、ちゃんと「手段」が合ってるかどうか確かめる癖が必要になる。


 「目的」は完全に固定で絶対に廃棄しないというものではない。「現状」や「手段」から考えて妥当性を欠いているのなら変更する。あるいは「目的」のレベル(深さ)を変えたりする。ただし、そのときはなんとなく変えるわけではない。「目的」を変更する際は「現状」や「手段」を一旦固定した状態で行う。崖のぼりの基本で両手足のうち一度に離すのは1つだけ、同時に2つ離したら落ちちゃうよ、という感じ。常に「目的」、「現状」、「手段」が整合的であるかどうか、筋が通っているかどうかをチェックする。


現状

 これは情報収集だ。「目的」に関わる情報を集めていく。そしてこれは、ほとんど課題の把握と同じだ。「現状」がどうなっているかを本当に丁寧に見ていけば、ほとんど自動的に課題がどうで、「手順」までが導かれる。
 「現状」の集め方が足りないと「手段」の妥当性が危うくなる。「手段」を決めて散々進めた後で「でもこういう課題があるよね」と新しい要素が「現状」に追加されて「手段」が完全に無効化される、今までの作業が水泡に帰すという光景をよく見る。
 「目的」を当たり前なレベルで設定する=広くとるのは、「現状」の取りこぼしを防ぐためという意味もある。「目的」は世界を切り取る方針なので、これが狭すぎると「現状」の範囲も狭くなる。狭い世界では妥当でも、広く見ると妥当でないような「手段」を取ってしまったりする。


手段

 「現状」=課題をとことん細かく分解していれば、「手段」は自動的に出てくる。そこは理屈で考えているのであまり間違いがない。そこが危ない。その間違っていない「手段」をそのまま信用するのが危ない。「目的」や「現状」がそもそも妥当性を欠いていれば、「理屈上は正しいけど妥当性のない手段」になっている可能性があるからだ。
 なのでその「手段」を、試しに否定してみたり、両極端に振ってみたり、あるいは「手段」を施したあとの世界を想像して新しい「現状」を見てみたり、あれこれ揺さぶってみる。そして「目的」や「現状」を検証していく。


 夫婦が「寝言がうるさい!」とお互いを罵りあっている。「目的」→「寝言を止める」、「現状」→「寝言がうるさい=眠れない」、「手段」→「非難して改めさせる」みたいな異様に狭い世界で見ている。
 だったら試しに「一緒に寝ない」、「別居する」、「離婚する」といった極端な「手段」を仮定して、それが導く新たな「現状」を洗い出してどんな課題が出てくるか考えてみる。そうやって世界を拡大する操作をしてみた末に、お互いにとっての「目的」が「夫婦関係を良好に継続させる」とかに行き着けば、そこから改めて「現状」、「手段」と下りていけばいい。
 どんな「手段」にも利点と欠点があるけれど、より「現状」や「目的」に合っているという視点で「手段」を選択する。


目的、現状、手段という世界への触れかた

目的:世界を切断する
現状:切断面で世界を構築する
手段:世界を変化させる


 目的は宣言だ。一体自分がどのポイントで世界を切り取って把握しているのかという自覚だ。
 ここにはそもそも、世界の総体を汲み尽くすことなど不可能だという認識が前提されている。どうしたって、何一つ零れ落とさずに把握することなどできはしないという理念だ。それは、世界を把握するには無数のやり方があって、正しく完璧な方法や体系は存在し得ないという理解を導く。だから、自分が今、一体どんな方針で世界を切り取って見ているかを自覚しようというのだ。


 目的はほとんどの場合、事後的にやってくる。自分が見ている世界、すなわち現状を並べ立てて眺め直したときに、ああ、自分はこの目的に沿って今これを把握しているのかと気づく。その意味で、目的とは制度である。目的を意識しながらそれに沿って現状を把握していくこともあるが、勘を頼りに始めたその一回目は大概、現状に対して目的があまりに矮小であると気付いて修正することになる。
 目的はまた、捉えた世界を変更する方針でもある。目的と現状を掛け合わせて手段を導く。手段によって現状を変更する。


 目的、現状、手段はこのような関係にあって、行ったり来たりしながら、互いの妥当性と整合性を相互的にチェックする。
※正しさには妥当性と整合性(無謬性)があって弁別しないと混乱する、という話を以前↓で書いている。
「間違っている」という指摘の位置づけ - やしお



 これは自分がそういう形で世界を捉えて行動しているようだ、不断にそうしているようだということを、一つの形で定式化してみただけのことだ。