以前インターネットのお人に会ってびっくりしたことがあった。ずっと男性だと思ってたお人が女性だった。最初少し混乱して、その後はふつうに楽しくお話して、帰ってからひどく自分が恥ずかしかった。
そのお人はインターネット上で女性性を一般に示すようなことを書いてこなかったけれど、一方で男性性を示すようなことも書かれてこなかった。性別を特定させることを書かれなかった。にもかかわらず、私はそのお人を男性だと思い込んでいたのだ。
中性だった場合に中性だと見なさず、自動的に男性だと思い込むという制度に、自分が完全に規定されていたのだと思い知らされて愕然とした。
お会いして少しした後、正直に「男性だと思い込んでいました」と告白したら「そうだろうなと思っていました」と仰った。インターネットでは、特に以前は、「女性だ」と表明すると色々と面倒だった、だからあえて性別を表明してこなかったというお話をされた。言われれば想像できないことではないのに、まるでそうしたことに自分が無頓着だったことにそのとき初めて気付いた。
自分がたまたま男だったから、インターネットの中で別に性別を出してもそれがニュートラルに扱われていることを当たり前だと思ってた。だけど「ニュートラルに扱われること」なんて全然当たり前のことじゃなかった。「ニュートラルに扱われること」を「当たり前だ」と認識して、そうでない現実を視界から曖昧に遠ざけていることそれ自体が、女性を疎外するような制度への荷担そのものだと思った。紛れもなくこの自分が荷担する側にいたんだと思って、とても恥ずかしくなった。
ひょっとしたらそのインターネットのお人は、そんな大げさな話のつもりでは言っていなかったのかもしれない。インターネット上の抑圧を生む制度によってというより、個人の好みでそうしていただけだということかもしれないけれど、そうだとしてもそれとは独立に、私が差別的な構造の片棒を隠微に担いでいたのは間違いなかったんだ。
直接「私は女性である」、「私は男性である」という表明を見ているわけでもないのに、どちらかだと思い込んでいるのは、読書の途中で読み方のわからない漢字熟語に適当な読みをあてて進めることと少し似ているような気がした。「とりあえず」であてた読みを、そのまま繰り返すうちに無意識のうちに定着させてしまう。そして数年たったある日、本当の読みをひょんなきっかけで知って(あ、自分は思い込んでいたのか)と知って唖然とする。
それはきっと、漢字の字面だけで上手く同一性を認識するのが困難なつくりに自分がなっているということだろう。「字面」と「読み方」、視覚と聴覚が両方セットになってようやく、同じ言葉が次に出てきたときに「あの言葉だ」と認識できる。(ちなみにそれは、喋っている話を聞くときも同じで、耳で聞きながらも字面を思い浮かべてそれがどの言葉かを同定している。)だから、仮にでも読み方をあてておかないと気が済まないのだ。
そんなアナロジーから、ほとんど無意識のうちに性別を決めて他人に貼りつけているという習慣は、その点が不確定だと他人の同一性を認識しづらいつくりに自分がなっているということを意味しているのかもしれないと思った。そうだとすれば、「性別を勝手に決めて貼りつけるのはやめよう!」とスローガンを掲げても、そう思うことはできてもそれを直接実践するのは難しいかもしれない。だったら次善策として男性/女性とは別に「中性」というカテゴリをつくってそれを貼りつけることから始める。
理想的には自分の内部で、他人を性別でカテゴライズしないような認識のシステムへ移行できればいいけど、いきなりそれが難しいのなら、もう一つカテゴリを増やすことで対応しようというのだ。そうして最終的に無化する方向にもっていきたい。
私の上に無数の愚かしさがまとわりついているとしても、ここにまず一つの愚かしさがあったという事実を忘れないためにこうして記録を取っていく。