やしお

ふつうの会社員の日記です。

対後輩関係をリフォームする

 後輩・年下に対して甘えがあるみたいだと最近思っている。そこに対人関係に関する基本コンセプトとの齟齬が生じていて、少ししんどい。修正してこのしんどさを解消するには、できるだけ正確に、自分に何が起きているのかを把握しないと難しいから、その作業をする。


 職場の若い後輩が、雑談をふられたときに、モニターに目を向けたまま作業する手も止めずに空返事をすることが時々ある。
 先日、職場のおじさんが仕事と完全に無縁ではない雑談を私と彼にふってきた。私は手を止めておじさんに目を向けて話をしたが、彼は例の迷惑そうな素振りをした。おじさんが帰った後で、「忙しいのに無駄話をするな、という気持ちはよくわかるけど、そんな風にされるのは傷つくんだよ」と彼に言った。「この私との会話」と「自分の作業」を天秤にかけられて、後者を選んであからさまに「この私」を軽んじられて不愉快に思わない人はいない。
 根本的に「他人の自尊心を毀損して良いことは一つもない」という信仰が私にはあって、その2択なら「話を聞く」を私は選択する。(「相手をないがしろにして自分の仕事を進める」よりも「よほど忙しくても手を止めて話を聞く」という選択の方がベターだという判断には、かなり様々な要素をトータルした上で至っていて、その話はまた別途整理したい。)
 彼には、「ご指摘ありがとうございます」と言われてしまった。


 そのすぐ後から自分自身に対する不快感がこみ上げてきた。いつもそうだ。他人に説教じみたことを言うと、言っている間は気持ちが良くても後から苦痛を感じる。彼に限らず、最近後輩/年下と接する機会が多くてこの自己嫌悪が無視できなくなっている。
 あれこれ考えていたら、ああして他人に説教をするのは、「他人の自尊心を毀損して良いことは一つもない」という方針と相反していると気づいた。説教であなたの行動、選択、精神は間違っていると否定する。これは明らかに「他人の自尊心を満足させる」という方針に背反する態度だ。ここにまず一つの齟齬がある。


 またこれとは別に、「直接的に他人を変えることはできない」という認識を持っている。
 他人に「お前をより良い人間にしてやる」と言われれば自分だって反発する。自己の決定権は自分にある(と思い込んでいる)状態でなければ不安だし、それを脅かすような相手は不愉快だ。「この人に私をより良くしてほしい」と自分自身が選択する(相手に心酔する)場合か、環境の変化に適応するのに必要な場合でしか、自分を変えようとはしない。対面の人間関係で心酔させるのはほとんど無理で、周辺環境を変化させる方がよほど簡単だ。
 北風と太陽の話に少し似ているのかもしれない。直接的にコートを吹き飛ばそうとしてもかえって頑なに着込んで逆効果だから、間接的に環境を変えて結果的に相手がコートを脱いでくれればいい(脱いでくれなくてもいい)、という方針だ。
 今回の話で言えば、私が彼に話しかけられたら手を止めて興味をもって聞くという態度を続けて、そのうち彼が内省して態度を変えてくれればいい(別にそうでなくてもいい)、ということになる。直接説教するというのはこの方針に背反する。


 「他人の自尊心を満足させる」、「他人を直接的に変えようと思わない」という2つの基礎的なコンセプトに対して、自分の言動が合っていない。この齟齬が苦痛を生んでいる。
 齟齬がここに発生しているという話まではひとまずわかった。では、なぜコンセプトに反するような行動を取ってしまうのかという点もはっきりさせないといけない。


 説教をして、自分の思想を直接的に表明する。「俺はこんなにわかっているんだ」という点を見せつけて、「すごい」と思われたい。尊敬されたい。そうした欲望が説教をさせるのだろうと、ひとまず今は思っている。
 しかし通常は、あのコンセプトが壁になって説教の欲望を押しとどめている。その壁を無化するような、正当化させるような理屈が潜んでいる。それは「後輩は先輩が教えて成長させるものだ」といった通念かもしれない。「後輩/年下には教えてあげないとダメ」という考えの適用範囲が曖昧なせいで、説教にまで到達していて正当化させている。


 主観的には、相手に好意を抱いている。こいつにお得な話を教えたい、こうすればもっと楽に生きられるって教えたい。この私がこいつをよりよく変えてあげたい。この啓蒙的な態度は一見、施しのようで、実のところは甘えなのだ。こちらが無償で与えるのではなく、無償で与えられたいという身勝手な期待だ。
 自分の欲望を果たす装置として相手に依存している。ここでの好意は、欲望をこの相手が果たしてくれそうだという期待に由来する。またここには、「自分の欲望を果たす装置」として相手を見なして構わないという、甘えや見下しがある。「相手も自分と同じように物を考えてきた存在である」という双方向的な想像を放棄するという甘え。あるいは「相手がどれほど考えていようと自分の考えの方が上のはずだ」という見下し。
 しかもそれを「後輩(年下)は、先輩(年上)を敬う」といった世間の通念が隠然と働いて実現してくれるはずだと、欺瞞に目をつぶって都合よく期待している。
 そういった構造がよく見えないまま、欲望の解消を相手に依存している状態だと、それが果たされなかったときに状況を上手く理解できず混乱して「裏切られた」と相手に責任を転嫁させたりする。身勝手な被害者意識を生じさせて、勝手に自身の精神衛生を悪化させる。


 「説教して俺はすごいと分からせたい」という欲望がある。基本的にこの欲望は「他人の自尊心を満足させる」、「他人を直接的に変えようと思わない」という壁に阻まれて流れ出さない。しかし壁には「後輩/年下には教えてあげていい」という穴が開いている。そこから欲望が漏れている。その漏れを感知して、自分自身をきちんとコントロールできていないと察して苦痛を感じる。
 そんなストーリーで、さしあたって整理しておく。


 ではどうするかといえば、穴をふさぐということになる。「後輩/年下には教えてあげていい」という通念の適用範囲をはっきりさせて、説教には適用しないことだ。
 「教えてあげていい」の適用範囲は、自分が教える立場であることが両者にとって明らかに納得されているような場合だけだ。まず仕事に関する表面的な誤りの指摘(相手自身の否定にはまるでつながらない指摘)の場合。次に相手からアドバイスのリクエストがはっきりあった場合。それから、上司その他から依頼があってアドバイザーになっているような場合。およそそれだけだ。
 一方、「その人のコンセプトやイデオロギーにかかわるような忠告」=説教は基本的に適用範囲外として避ける。明らかに「他人の自尊心を満足させる」に抵触している上に、よほど子供でもない限り現実的な効果がない。だから説教ではなく太陽的な方針で、環境の変化をかけていく方向を選ぶ。相手の言動を具体的に変えたいのなら、相手の思想を変えるより、仕組みを変えてそうせざるを得ない状況にする方がよほど簡単で現実的だ。
 いずれにしても、「後輩/年下だから」というだけの理由では、「教えてあげていい」を全範囲に渡って肯定するだけの正当性を全く持ち得ない。もし範囲全体に及ぶような気がする(自分が今ここで説教することが相手にとって良いに決まっている、などと思えるよう)なら、それは自分の欲望を満足させる企みを糊塗しているだけだと疑った方がいい。


 穴をふさいで行き場をなくした欲望は、例えばこうやっておブログといったぴったりの装置があるので、そっちに出力して適当に解消しておくなりすれば実害がない。


 ごく常識的なことを改めて確認し直しただけだけど、ここでいったん自分を相対化して、より高度にコンセプトを体現して分裂なくしてハッピーになりたいのよ。