やしお

ふつうの会社員の日記です。

結論の適用範囲

 「苦労した分成長できた」とか、「お客様は神様」とか、「教え方が下手だから分からないんだ」とか、逆方向から適用された途端に、急激に人を縛り付けて息苦しい世の中にしてくるような教義がいっぱいある。
 何か苦労した人が自分を慰めるために「苦労した分成長できた」と考えるのはいい。それで自分が救われるならそうした方がいい。でも「その分成長できるから」と言って誰かに苦労を強いて正当化するような言説は許されない。店や店員の側が自主的に「お客様は神様だから」と考えて実践してみるというのはあり得ると思う。だけれど、客や店が店員に対して「客は神様だから」という教義を強制させて、「対価に見合っただけのサービス・商品しか提供されない」という事実を不当に隠蔽して店員を搾取していいはずがない。教える側が「自分の教え方が下手だからだ」と考えて改善するなら結構なことだけれど、教えられる側が「お前の教え方が下手だからだ」といつまでも怒っているのは非建設的だ。


 以前、素人の書いたブログ記事などに「ツッコミ」を加えるソーシャルブックマーカーの態度について書いたことがあった。
  インターネットの乱獲、滅びゆく魚たち - やしお
 視点が偏っている、構成が悪い、データが足りない、主語がでかい、文体が読みづらい、態度が悪い……いくらそうした否定が正しかろうと、その正しさで書き手の心を折って黙らせるくらいなら、素人の話を垣間見られる世界の方がよほど豊かじゃないかと言った。
 「多少悪かろうが否定して萎縮させるな」というこの意見はしかし、書き手側が技術の拙劣さを正当化させるために使用することを認めるものではない。あくまで萎縮させる側へ向けた言葉であって、萎縮させられる側の言い訳として用意していない。


 ある状況や文脈においてのみ有効な手段や結論を、どこでも常に適用可能だと誤解してしまうことが多い。最初は相手側から発せられた内省に、ほとんど無意識のうちに付け込んでしまう。
 宗教のことを思い出す。キリストや釈迦は原理や体系の人ではなく実践の人だった。ある具体的な状況や環境を踏まえた上で、その具体的なアドバイスとしてああせい、こうせいと言って回っていた。彼らの死後になって体系化、教義化されていった。例えばパウロによってユダヤ教徒キリストの実践が「キリスト教」として整備された。宗教における「○○してはならない」といった教えは本来、ある時代、ある環境、ある状況に対する具体的な実践だったはずだ。そうした文脈を離れて教条主義へと進んだり、あるいはそれが批判されたりする。
 結論を絶対視することは無意味だ。まずその結論を導いている条件と論理(精神)を明らかにする。その精神によって、今ある条件から新しい結論を導く。引き継ぐべきは条件と乖離した結論などではなく、根元にある精神の方だ、という批判。
 ところでそれは、作品のリメイクを連想させる。漫画を映画にリメイクする場合に、登場人物の衣装や髪型をそっくり実写に移そうとしてひどく不自然なコスプレ劇を引き起こしたりする。あるいはエピソードや人物相関の一切を崩そうとせずそのまま移植してまとまりを欠いたりする。漫画という形式における条件、映画という形式における条件というものを捨象して、ただ結論(最終的な表現)だけを保持しようとして生じた齟齬が引き起こした事故だ。


 なにか無条件に成立するような真理といったものが存在する、という信仰からくる態度なのかもしれない。
 表現の自由を巡る裁判などで、「表現の自由」というコンセプトはどこまでも、常に適用される原理のような言いぐさで争われることがたびたびある。この作品はこうした理由でこのように書かれざるを得ないのだ、誰かの利益を害してでもそうされざるを得ないのだ、と個別具体的な意味を問わず、ひたすら抽象的に「表現の自由」から正当化されなければならないと主張する。
 そういえば憲法の前文に「これは人類普遍の原理であり」という言葉が出てくる。別にそれは人類普遍の原理ではなく、ある歴史的文脈において形成されてきた、「よりマシ」な結論であり手段に過ぎない。成文憲法を持たないイギリスの方がかえってその点が明確だ。あの前文が意味するのは「これが人類普遍の原理であると我々は信じる」という宣言、ある選択的な仮定でしかない。しかしその認識をスキップして、「これは人類普遍の原理なのだ」と教条主義的にいきなり信じ込んでしまう態度がはびこる事態は、「表現の自由」にせよ「苦労した分成長できた」にせよ無条件に適用可能な結論だと誤解することと、通底している。